たくろふのつぶやき

春は揚げ物。

2011年02月

民主党岡田克也「誰が見てもできないマニフェストを実行しろとか無茶言うな」

岡田氏、ヤジに応酬 マニフェスト「誰が見てもできないこと!?」


民主党の岡田克也幹事長が25日、横浜市で開かれた党神奈川県連パーティーで、衆院選マニフェスト(政権公約)見直しに理解を求めたところ「挙党態勢をちゃんとやれ」「マニフェストを守れ」などと激しいヤジが飛んだ。
会場が騒然となる中、岡田氏は「誰が見てもできないことをいつまでもできると言うのは、まさしく国民に対する不正直だ」と応酬した。




は?

日暮里駅でつ。

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スカイライナーかっちょえー

イーモバイルは浮気症な人向けだそうです

Eモバイル






ほほう、なるほど。

子供を叱る

最近、ショッピングモールで見かける親子連れを見て気になることがあるんですが。


親子連れのタイプは、主に3タイプに分かれると思う。
特に、母親と小さい子供、のような組み合わせに多い。


ひとつめのタイプは、母親がとにかくのべつ幕なしに叱り口調。ずーっと怒ってる。
そういう子供が、特にオイタをしたり悪いことをしているわけではない。たとえばフードコートで食べ終わり、母親が席を立とうとしたときに、子供がふとよそを見ていて立つのが遅れる。その程度のことで「ほら行くって言ってるでしょ!グズなんだから!どこ見てるの!」と雷が落ちる。
概ね、このタイプの母親というのは、人相が悪い。怒り顔が顔にこびりついている。

ふたつめのタイプは、親が子供に徹底して無関心。躾がぜんぜんできていない。
子供と一緒なのにピコピコ携帯をいじってたり、母親の友達同士でぺちゃくちゃとおしゃべりに夢中。
その間、無法状態になった子供が騒ぐ騒ぐ
だいたい公共の場で大声を出す子供の親は、そんな感じだ。

三つめのタイプは、端的に言うと、親が笑顔
口だけ子供に向けるような会話の仕方ではなく、体全体が子供のほうを向いている。しかも、あれしろこれしろとうるさく指図するのではなく、子供のすることをニコニコしながら見守っている。
このタイプの親だけ、子供と会話をしている。一方的な命令や叱責ではなく、子供が話し、親が話し、言葉のキャッチボールがちゃんと「相互の関係」になっている。


僕は子供がいないので、親の立場からの子育て論など知らんし、その話題について偉そうなことは言えない。
しかし、これらのパターンは、親子関係に限ったことではなく、そのまま学校や職場にもよくありがちなパターンだと思う。


特に、ひとつめのタイプ。サークルの先輩でも学校の先生でも職場の上司でも、「とりあえずまず否定」が基本姿勢になっている人がいる。
とにかく怒る。叱る。否定する。「他人の欠点をバンバン指摘してあげることが自分の仕事」と言わんばかりに、徹底してこき下ろす。

厄介なのは、そのような基本姿勢の人は、心から「良かれと思ってやってあげている」と思い込んでいることだ。人の欠点を指摘することが、すなわち指導だと思っている。
僕の個人的な経験からすると、そういう人に限って、論理的かつ分析的に先行例の問題点を指摘し、建設的な代案を出すのが下手だ。他人の人格に対しては「お前はここが悪いんだ」などと軽々しく言うくせに、本当に解決すべき仕事を前にすると、ご自慢の分析力が全く役に立たない。

そういう人の共通点として、多様な価値観を認めず、自分の理解可能な範囲の世界に他人を押し込めようとしている姿勢がある。
要するに、自分のコピーを作ることが「指導」だと思っているのだろう。だから自分の価値観からちょっとでもはみ出ると、不愉快になる。
ごはんを食べ終わって自分が席を立とうとしているのに、その行動にぴったり沿わない子供のズレが許せない。「人として許せない行動をしている」から怒るのではなく、「自分の思う通りに動かないから苛々する」という理由で叱り飛ばす。

叱ることが必要な場面は必ずある。しかし、叱り方というものがあるだろう。
僕は、「叱る」という行為は、かなりリスクを伴う行為だと思う。叱られる側は、心理的にかなりの圧迫を受けるものだ。人は叱られると、精神的な安定のために心の防波堤を作ってしまう。自分に向けられる叱責を本能的に回避しようとする。人の言うことに直面しようとしない態度が習い性になる。
日常的に叱られつづけている子供は、大きくなってからコミュニケーション能力に何らかの欠落が生じるような気がする。

また、人が他人に精神的な影響を及ぼす時、それはどんな時でも必ず双方向性のものだと思う。
人を叱れば、その負のエネルギーは、自分に必ずはね返る。
人を褒めれば、その正のエネルギーは、必ず自分を上向きにしてくれる。
そのことを理解せず、自分にはね返る危険性に気付かず、一方的に子供を叱り続けている親や先生がいるような気がしてならない。端から見ていて、「それほど叱らなければその子のためにならない」などというほどのことをしているわけではない。「子供のため」というより「自分のため」だろう。自分の苛々を子供にぶつけているだけのように見える。
そりゃ、人相も悪くなろうというものだ。

叱るというのはかなりのエネルギーを使う。叱られた方も落ち込む。たとえ先輩後輩であっても、上司部下であっても、先生生徒であっても、親子でさえも、人間関係にヒビを入れる行為だ。
だから、叱る前に、普段からちゃんと叱る準備をしておく必要がある。多少の叱責があっても人間関係が揺るがないように、普段からたっぷり褒めておく必要があると思う。「褒め貯金」とでも言おうか、普段から精神的に満たしてあげていないと、いざ叱ることが必要なときに、叱られる側にそれを受け入れる素地ができていない。簡単に人間関係が壊れる。

学校現場で教えている僕の実感では、褒めることと叱ることの比率は、9対1でもまだ厳しいと思う。できることなら、叱ることなく済めば、それが一番良い。
「鞭を惜しめば子供は駄目になる」というのは本当だと思うが、裏は真ならず。「鞭さえ使えば子供は良くなる」は大間違いだと思う。鞭はやたらと使えばいいというものではない。大切なのは、そもそも鞭が必要となるような状況を、事前に回避することではあるまいか。

苛々する原因のひとつは、子供に対する期待値のハードルが高すぎることだと思う。
子供は、そうなんでもかんでもできる訳がない。子供とはいえ他人なのだから、価値観も考え方も、違ってて当たり前だ。親のぴったり思う通りに動く子供がいたら、そっちのほうが気持ち悪い。

学校でも会社でも、「叱られるってことは、それだけ期待されてるってことだよ」という文言が、叱責の免罪符としてよく使われる。
そんなものは言い訳だ。叱る側が、叱ることに伴う責任から逃れるだけだろう。僕に言わせれば、「期待過剰で叱り飛ばす」など、上の立場が下の能力を正しく認識できていない、無能の象徴に過ぎない。他人の能力は「上に見積もればいい」というわけではないのだ。

「最近の学生は勉強ができない」「常識を知らない」と苦情を漏らす先生に限って、学生に対する期待値がものすごく高い。学部の学生に何をそんなに期待しているんだ、と思うくらい「学生とはパーフェクトであらねばならない」と思ってる。ご自分がどんなに優れた学生だったのか知らないが、そもそも学生がそんなに有能なら、教師は要らないだろう。

僕は基本的に、学生は真っ白な紙だと思ってる。僕の授業を受ける学生に期待しているのは、「自分の中の紙にいかほどの情報がすでに書き込まれているか」ではない。「各自が、自分の紙にどれほど書き込んでいきたいのか」という欲求だ。僕は最初から「学生は何も知らない」と思ってるから、学生の知識が不足していることなど、当たり前だと思っている。


叱ることが習い性のような、子供に叩きつけるような言葉遣いで接する親を見るたびに、「それがベストだと思ってるのだろうか」と不思議に思う。子供にも、本人にとっても、そういうコミュニケーションのあり方で幸せなのだろうか。
人は他人を指差すときに、残りの3本は自分を向いている。他人に対する接し方は、自分に返ってくるものだろう。褒め上手な人に、仏頂面はいないものだと思う。



「コミュ力」ってのは要するに「他人の良い所に気付く力」だと思う。

中国がパンダを送ってきた理由

パンダが上野動物園に到着 パンダ外交が効果を発揮=中国紙


パンダの比力(ビーリー)と仙女(シエンニュ)が21日、上野動物園に到着した。海外メディアは22日、「中国から来たパンダ2頭が日中関係に新たな期待をもたらした」と報じる一方で、中国メディアの環球時報は「パンダ外交が効果を発揮」と報じた。  

上野動物園付近では、「パンダたちによる集客増によって収益は増え、レンタル費用を大きく上回るだろう」との声もあがっている。前原誠司外相は「人気者になって、たくさんの方に見ていただくことで、対中印象が良くなることを期待する」とコメント。  

米メディアは、「日本の報道陣が上野動物園に押し寄せ、パンダの到着を待っていた。東京都はパンダ2頭に年8000万円のレンタル料を支払う予定で、レンタル料は地震で被災した四川省のパンダ保護区の再建や、日中共同で行なう繁殖研究の資金に当てられる」と報じた。  

さらに、「日本は2頭のパンダが日中両国の領土争いがもたらした緊張を改善し、経済を刺激してくれることを期待している」と報じた。  また、フランスのメディアは「上野動物園付近はパンダが描かれた旗を持った人たちでいっぱいになった。動物園を訪れる客は激増すると予想される」と報じた。中国の環球時報は海外メディアの報道を紹介しつつ、「パンダ外交が効果を発揮」と伝えた。




(↓ その背景)



中国、中東デモの報道規制 一党独裁と「関連づけるな」

中東で政権崩壊をもたらした民主化デモについて、中国共産党中央宣伝部が2月上旬、国内主要メディアに対し、「中国と関連づける報道をしてはならない」という内部文書を出していたことがわかった。波及に危機感を抱いた当局が情報統制を敷いたとみられる。  

中国政府関係者が明らかにした。文書では、長期独裁政権を続けてきたエジプトやチュニジアの政治体制と、中国の共産党独裁を結びつけるような報道を禁止。双方の指導者の名前を並べるような記事も禁じた。記事で一連のデモの原因が民主化要求や物価上昇への不満であることに触れたり、「革命」という言葉を使ったりしないようにも指示されているという。  

中国メディア関係者は「かなり細かい指示だ。当局が神経をとがらせているのだろう」と話す。  

中国では、チュニジアの「ジャスミン革命」などにならった一斉デモの呼びかけがネット上であり、各地で20日、一部市民が警察に連行されるなどの騒ぎがあった。この騒動を機に規制はさらに強化され、21日付の大半の中国紙は事実すら伝えなかった。新華社は海外向けの英文記事で北京市や上海市で「群衆が集まり、警察が来て解散した」と伝えただけだ。  

また、ネット規制も強まっており、中東デモに関する書き込みができた一部のポータルサイトでも、20日以降、ほぼすべてのサイトでできなくなった。「中国人民はエジプトから何を学ぶか」「エジプト革命は明日の中国」などのネット上の書き込みは次々と削除されている。  

当局が比較に敏感になる理由として、中国でも1月の消費者物価指数が前年同月比4.9%増となるなど物価上昇が深刻で、国民の政府に対する不満が高まっていることがある。1989年の天安門事件でも物価高が遠因となっていることから、今後さらに報道やネット規制を強める可能性がある。  

エジプトのデモなどは、インターネットの交流サイト、フェイスブックを使った呼びかけが原動力となった。だが、中国では新疆ウイグル自治区での騒乱が起きた2009年以降、フェイスブックを利用できない状況が続いている。




内が火事だから外では備えの手を打つってか
ペンギン命

takutsubu

ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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