たくろふのつぶやき

夏休みはそれを楽しみにしている間こそ至高。

2010年12月

宇宙人の数を数える方法

N = R* × fp × ne × fl × fi × fc × L 


地球外生命体の存在数Nを導くための方程式。
本当かどうか知らない。


それぞれのパラメーター項目の内訳は、

R*は、我々の銀河で星が形成される割合。
fpは、その星のうち惑星をもっている割合。
neは、そういう星のうち、生命を育む可能性のある惑星の平均数。
flは、実際に生命が誕生する割合。
fiは、そのうち知的生命体が誕生する割合。
fcは、そのうち、充分な科学技術が発達し、宇宙に電波などの情報を発信する割合。
Lは、そういうった文明が宇宙に情報を発信し続ける年月。

1960年に、アメリカの天文学者であるフランク・ドレイクによって考案された。ドレイクは宇宙にどれくらいの知的生命体が存在しているのか、それを計る方法としてこの方程式を考案した。
彼の名前をとって「ドレイクの方程式」と呼ばれている。また、この方程式がウェスト・バージニア州のグリーンバンクで発表されたため、「グリーンバンク方程式」とも呼ばれている。

ドレイク自身は、この方程式に次のような数値を概算として当てはめている。


N = 10 × 0.5 × 2 × 1 × 0.01 × 0.01 × 10,000 = 10


つまり、年間10個の星が誕生し、その半分が惑星をもつ。
生命が誕生する可能性のある星は平均2個で、それを100%とすると、宇宙に情報を発信できるほどの知力をもつ生命体は1%のみ。
そういう文明は1万年くらいは存続するだろう、という推定だ。

ずいぶん暢気な数値だな、という気がする。
我が地球だって、文明と呼べるものが誕生してから4000年ちょっとしか経っていない。そのうち、宇宙に情報を発信できる技術が確立してからまだ50年足らずだ。それが「1万年も存続する」ということは、あと地球文明は6千年は存続する、という見込みに他ならない。
僕は個人的に、世界の歴史を俯瞰して今後の展開を鑑みるに、地球文明はあと6千年も保たないと思う。

ドレイクがこの方程式を発表した論文(Drake, F.D., "Discussion of Space Science Board, National Academy of Scientific Conference on Extraterrestorial Intelligent Life", November 1961, Green Bank, West Virginia.)を読んでみると、どうやらドレイクの意図は実際の数値をはじき出すことではなかったようだ。ドレイクが強調したかったことは、「地球外生命体の数を想定するためには、7つの条件を考えれば充分だ」ということだったらしい。

デカルト以来、人間は「正体不明の謎」を考察するときに、その謎を因数分解して種々の諸条件に分解する方法を身につけた。彼の言葉で言う「困難は分割せよ」というやつだ。これがいわゆる「分析」という方法論だ。
謎は、謎のままでは取りかかれない。答えを出そうとする前に、「その答えを出すには、そもそもどういう条件が整わなければならないのか」という外堀を埋めなければならない。

子供の頃、星空を眺めて、「宇宙のどこかに、地球みたいに生命体が存在する星があるのかなぁ」と夢想したことがある人は多いだろう。スティーブン・スピルバーグの名作「E.T.」は、その辺の子供の夢を余す所無く映画化している。

しかし実際のところ、地球外生命体がどのくらい存在しているのか、単なる想像で止まってしまう人が多いだろう。
そこから一歩踏み込んで、「何が分かれば、地球外生命体の数が推測できるのか」という、思考の方法論をきちんと考えたことがある人は、それほど多くはあるまい。

そういう眼でドレイクの方程式を見直してみると、それほど荒唐無稽なことを言っているわけではないような気がする。ドレイクが提案している7つのパラメーターは、それぞれ階層性を成しており、知的生命体が存在すれば必ず引き出せるはずのインプリケーションになっている。
それらのパラメーターに実際にどういう数値を入力するかは、これまで積み重ねられてきた観察データから推測する問題であって、ドレイクの思考の妥当性とは関係ない。

実際のところ、この方程式は振り幅が大きすぎるため、あまり信頼できる数値は得られない。7つのパラメーターのひとつでも実際の値と違っていたら、他の6つのパラーメーターの値もその影響を深く受けてしまう。現在では、ドレイクの方程式で実際の文明数を導けると信じている人は少ない。

しかし、漠然と「宇宙人っているのかなぁ」と夢想するだけよりは、「これこれの値が分かれば、宇宙人の大体の数が分かるんじゃないかなぁ」と推測するほうが、格段に面白い。
単なる夢想は、いわば立ち止まったままの思考に過ぎない。真実に向かって、一歩も踏み出していない。
しかしドレイクの行ったチャレンジは、まがりなりにも、真実に向かって一歩でもいいから踏み出そう、とする意欲に溢れている。それは数億歩、数兆歩のうちのほんの一歩かもしれない。もしかしたら逆方向に歩き出しているのかもしれない。しかし、確実に一歩めを踏んで動き出していることは確かなのだ。


ある企業の入社試験で「日本全国に砂場はいくつあるか。推測しなさい」という有名な問題がある。
数百か、数千か、数万か。
まったく見当もつかないような問題に対して、どのように思考の筋道をつければいいのか。

おそらく、その問題を出題した企業も、全国にある砂場の数など把握してはいないだろう。つまりこの問題は、その数値の精確さを求める問題ではないと思う。
「見当もつかない謎を考えなければならないときに、どのようにして頭を使うか」を問う問題ではなかろうか。

たとえば、自分の住んでいる町内に砂場がどのくらいあるかを数えてみる。
小学校にひとつ、幼稚園にひとつ、公園が4つあって各ひとつづつ。

それを算出したら、その砂場が存在するエリア内に、どのくらいの数の住民が生活しているかを概算してみる。自分の住んでいる市町村の人口がどのくらいか。そのうち面積的にその界隈は何分の1くらいなのか。

それを計算すれば、ものすごくおおまかな数値だが、「人口何人あたりに対して砂場ひとつ」の割合が推測できる。あとは、それを日本の人口1億2千万に掛ければいい。
やっていることは、標本調査と同じだ。

大事なのは、結果として求めた数値の精確さではない。「どのような方法を取ればいいのか」という方法論が推測できることだ。数値の精確さは、実際の調査の絶対数と範囲の広さに依って、いかようにも上げられる。
しかし、そもそも方法論が思いつかないようでは、精確さを上げることすらできない。地球外生命体の数だって、日本全国の砂場の数だって、方法論を思いつくことがまず大前提になる。


ドレイクの方程式に対して、「全宇宙の知的生命体の数が、たった7つの変数で求められるものか」という印象をもつ人も多いと思う。しかし、このパラメーターの数は、なかなか妥当なあたりを突いていると思う。
たとえば、この地球上に存在するすべての物質の特徴は、いくつのパラメーターで記述できるかご存知だろうか。

正解は、たったの2つ。周期表を見ればすぐに分かる。
化学の時間でお馴染みの周期表の一番のポイントは、「あの表が2次元で記述できる」ということだ。つまり、縦軸と横軸のふたつで事足りる。

横軸には原子量に基づく「族」を配置し、縦軸には電子殻の数に対応した「周期」を配置する。そのふたつのパラメーターだけで、存在可能な全111元素が記述できる。
族は18の値があり、周期は7の値がある。このふたつの組み合わせで、世界に存在するすべての元素は構成されている。
実際には3族の周期6, 7は例外的に近似値をとる元素が密集しているため、単純にかけ算で総元素数が導けるわけではないが、基本的に周期表のポイントは「変数ふたつで決定できる」という点にある。

それを考えると、地球外生命体の数を算出する条件が7つ、というのは、別に少なすぎるとは思わない。素性というパラメーターで対象の特徴を記述する方法は、経験科学全般に適用可能な、強力な記述力をもつ。それだけに、いたずらにパラメーターを増やすことは、予測の過剰生成に繋がる危険な試みだ。
特徴を記述するために諸条件を考察するときには、とりあえず手当たり次第に条件を書き並べる。その中から統括したり支配関係を導き出したりして、パラメーターの数を「可能な限り減らす」という方法を採るのが王道だ。ドレイクの方程式は、その王道をきちんと辿った式に見える。


ドレイクの方程式は、天文学を専攻している人の間ですら笑い話だろう。この方程式で実際に地球外生命体の数を導き出そうとする研究など聞いたこともない。
しかし、「正体不明の謎にどのように立ち向かうか」という観点において、ドレイクの方程式はひとつのモデルを示してくれていると思う。これに文句を言う人は、ちゃんと代案を用意してから文句を言うべきだろう。



最近「答えさえ合ってればいい」という本末転倒な学生が多くて。

中教審「学部卒の教師使えねぇから院卒必修な」

教員免許の取得条件、事実上修士レベルに


教員免許制度の見直しなどを検討している中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)の特別部会は27日、現行の教員免許状を「基礎免許状」「一般免許状」「専門免許状」の3段階とする報告案を大筋で了承した。
教員免許の取得条件を事実上、大学院修士レベルに引き上げる内容だ。

報告案は、教員養成期間の延長など民主党政権の政策を踏まえた制度作りを目指してまとめられた。

それによると、教員免許は、短大卒業者向けを含む3段階からなる現行制度を改め、大卒向けの「基礎免許状」、大学院修士課程の修了者向けの「一般免許状」、学校経営や生徒指導などの専門性を備えた教員向けの「専門免許状」- の3段階に変更。基礎免許状には有効期限を設け、一定期間後に一般免許状の取得を義務化する




しかも更新制。もう教師は生徒指導なんてやってる暇なくなるな。

カバンの中身

カバン



皆さんのカバンの中身、見せてください





(参考)たくろふの通勤カバンの中身

たくかばん





お姉さんの注射器が気になる。

やる気と能力の引き出し方

大学で、演習科目をいくつか受け持っている。
主に大学1, 2年生を対象としている授業で、内容は結構過酷なものだ。

まず、英語で発表させるという時点で、かなりの学生がふるい落とされる。
僕は授業内での発表で、原稿の棒読みを禁止している。原稿の棒読みというのは要するに情報のバラ撒きであって、発表とは言えない。棒読みをするくらいなら、あらかじめ録音した音声を教室で再生するか、いっそのこと原稿をコピーして配った方が効率的だ。
「発表する」ということがどういうことなのか、何のために行うものなのか、それが分かっていない発表はすべて落第点をつけている。

僕の演習授業は別に必修ではなく、希望する学生だけが履修すればいい授業なので、僕の演習科目を履修する学生さんは教室に来た時点でかなりやる気のある学生が多い。
別に対象となる学生さんは帰国子女でもなんでもなく、普通の高校で、普通の英語の授業を受け、普通に大学に入ってきたような、普通の大学生だ。学力はむしろ全国平均の大学生よりも下と言ってよい。

そういう学生さんたちに演習で英語の発表をやらせていると、1年かけてなんとか発表の形ができあがってくる。
自分の声で話ができるようになってくる。
最初は英語など全然できなかった学生さんが、間違えだらけの英語ながらも、堂々と失敗を怖れずに人前で話ができるようになってくる。

学生にそういう力をつけさせるために、僕がすることといえば、ほぼひとつのことしかない。



徹底的に褒めること



僕は基本的に、学生の指導というものは、木登りと同じだと思う。
学生を一本の木に登らせようとするとき、下から鞭を振りかざし、ビシビシとプレッシャーをかける厳しい指導を行うと、学生はそもそも「はたして自分はこの木に登りたいのだろうか」という疑いをもってしまう。
登ることに嫌気がさし、覇気を失う。 そのうち、木を見るだけで嫌になる。

だから褒める。ひたすら褒める。10のうち9が悪い箇所だったとしても、それを無視して良かった1だけを徹底的に褒める。
木の上からの眺めは、下にいる学生からは見えない。木に登ったらどんな実が手に入るのか、どんな眺めが見えるのか、それを学生に吹き込み、登る意欲を沸き上がらせる。実際に自分がするすると木に登るところを見せてやる必要もある。
学生というものは基本的に、おだてて調子に乗せれば、木にだって、岩にだって、山にだって登るものだ。

人間がある能力に覚醒するとき、その必要条件は、「内側からの動機付けに支えられる」ということだと思う。
「やらされている」という意識で取り組んでいる限り、能力は絶対に身に付かない。自分の内側から沸き上がってくる衝動に取り憑かれたとき、本当の成長が齎されるものだと思う。
面白いからやる、好きだからやる、やりたいからやる、そういう欲求が学生ひとりひとりに満タンにチャージされない限り、どんな指導も無駄だろう。

だから、中途半端な優等生が一番困る。
優等生というのは、要するに「外的な動機付けに支えられて行動する学生」のことだ。強烈な欲求に突き動かされて授業に出てくるのではなく、「授業に出なければいけないから」「出席しなければ単位がもらえないから」という、義務感だけで授業に出てくる。先生の言うことを全部覚えればいい成績がもらえると思っている。行動原理が、すべて自分以外の外側で決められている。

中学、高校まではそういう良い子ちゃんで通用したかもしれないが、大学より先の世界ではそんな姿勢では通用しない。それは「自分は何がしたいのか」、ひいては「自分は何のために生きるのか」という、自分主体で生きる姿勢をつくりあげていないからだ。自分と向かい合って自分の欲求を明確にする手間を怠り、他人から与えられる評価の基準に沿って楽に生きて行こうとする、非常に怠惰な姿勢だ。僕は学生に対して「優等生」「真面目」という言葉を、褒め言葉としては使わない。 
自分の人生は自分のものだ。他人から与えられるものではない。その当たり前のことに気付いていれば、それを作り上げるような授業の受け方になるはずだ。

学生が就職活動する時期になっても、企業側が何を求めているか、どんな人材が欲しいのか、分からない学生が多い。はじめて「自主性」「自己指導力」「セルフ・マネジメント」という概念に直面し、途方に暮れる学生が多い。
就職ガイダンスに出ても虎の巻を熟読しても、そんな資質は一朝一夕には身に付かない。せいぜいサークル活動の実績を並べてお茶を濁す程度だろう。
同世代間の集まりでリーダーになったところで、何の自慢にもならない。本当の自主性とは、サークル活動のような組織的な活動によって外側から補完されるものではあるまい。

本当の自主性を身につけるには、別に自己啓発セミナーを受ける必要も、特殊な講座を受ける必要もない。
日頃受けている大学の授業のなかで、その分野の魅力を少しでも感じ取ろうとする姿勢があれば良い。どんな分野の学問でも、どんな退屈な授業でも、授業を担当している先生はその分野に一生を捧げている人なのだ。その授業は、少なくともひとりの人間を一生の虜にした魅力のある分野なのだ。
その先生は、その学問のどこに魅力を感じて道を志したのか。それを感じ取り、その感性を盗み取る姿勢で授業を受けていれば、退屈な授業など無い。
蓋し、能力を身につけれられるか否かは、環境の条件で決まるものではない。それを受ける人の側で決まるものだと思う。


1990年代の半ば、マイクロソフト社は来るべきインターネット時代を睨み、電子空間上の巨大頭脳を作り上げるプロジェクトを立ち上げた。Encarta(「エンカルタ」)という百科事典の作成だ。
マイクロソフトは金に糸目をつけず、何千という専門家に高額の報酬で百科事典の執筆を依頼した。世界中の知能を集結し、つねにアップデート可能な柔軟性の高い百科事典を作り上げる、壮大な構想だった。

一方、その数年後に、まったく別のビジネスモデルで電子百科事典を制作するプロジェクトがスタートした。マイクロソフトのEncartaとは異なり、こちらの百科事典には執筆の報酬として、1ドル、1ユーロ、1円たりとも支払われない。まったくの無報酬だ。
しかも、執筆者はその道の専門家だけではない。地球上のすべての人が執筆者となり得た。執筆者は、報酬が目的で書くのではない。ひとつの分野について一家言ある者が集い、執筆し、編集し、まったくのボランティアで制作する。

当時、このふたつの百科事典プロジェクトを比べて、どちらが生き残ると予測されていただろうか。
一方は一流の研究者、高額の報酬。片や無償ボランティアの一般市民。
専門家でなくとも、誰の眼にも明らかに前者のプロジェクトのほうが有望と写った。

しかし実際には、マイクロソフトのEncartaプロジェクトは暗礁に乗り上げる。執筆と編集は思うように進まず、2009年3月31日、ついにマイクロソフト社はEncartaの打ち切りを発表した。
一方、後者のプロジェクトはその後も発展を続け、現在ではWikipediaといえばインターネット百科事典としての地位を不動のものとしている。

Wikipediaを支える原理は単純だ。書きたい者が書く。
義務でも仕事でも何でもない。ひとつの分野について、ある項目について、熱く語る意欲を持つ者だけが、そのプロジェクトに参加する。
その「内側からの衝動」がもたらす成果の凄まじさは、Wikipediaめぐりで夜を徹してしまった経験をもつ者ならば、誰もが肯んじるものだろう。

Encartaのように、報酬や締切といった、飴と鞭による「外側からの動機付け」では、自ずと限界がある、ということだろう。Encartaの記述は、いわゆる仕事に過ぎない。ノルマを果たすための、義務的な記述という観がある。
一方、Wikipediaのほうは、たとえ専門家でなくとも、プロでなくとも、その分野に深く精通し、その分野の情報を広く世に知らしめたいという、情熱に支えられている。Wikipediaを閲覧していつの間にか夜が更けてしまった、という経験をもつ人は多いと思う。それはすなわち、Wikipediaの記事が、なによりも「面白い」という事実の証左なのだ。義務感だけでつくりあげた記事にできることではない。書く側が面白く感じていなければ、読む側も面白くは読めない。 何の得にならなくても、「書きたいから」という欲求に裏打ちされた「内側からの動機付け」に基づく活動には、容易には潰えないエネルギーがある。


「最近の大学生は学力も意欲も低い」というありふれた苦言がある。
正直、現在大学で教えていて、僕はそうは思わない。むしろ、本気になった学生の吸収力を見ると、空恐ろしくなる。
最近の学生の学力を云々言う大人は、要するに学生の資質を充分に引き出すことができていないだけではないか。そういう苦言を呈する先生はほぼ例外なく、「じゃあ学生にはどんな良いところがありますか」と訊くと、答えられない。悪いところばかり目についている。
学生を褒めるためには、ごく稀にちらっと顔を出す「良いところ」を見逃さないために、常に学生を見ている必要がある。学生の姿勢と能力は、それを教える側の能力を映し出す鏡であることを、肝に銘じるべきではあるまいか。



1年前とは別人のように成長する学生を見てると、なんか負けた気がする。

ばばーん

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温泉宿でお部屋ごはんをおいしくいただいておりまつ。
ペンギン命
ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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