「波浪警報」というのはやたらに陽気な外国人が話しかけてくるかもしれない警報だと思ってたのは俺だけじゃないはずだ。
閑話休題。西日本から関東近県に関しては台風で大変な一日でしたね。
東京近郊ではかなりの電車が止まったり、間引き運転をしていたとか。
雨よりも風のほうが怖いですよね。
そんな台風の中、同じ大学の他学部に会議で出向してきました。
今度開かれる大きな学会の開催校になっているので、その開催校委員会です。
なんていうんですかね、僕も学会を運営する側の立場になった、っていうことですかね。
僕なんてまだ駆け出しの若造ですので、今回はまぁお手伝いのようなもんなんですが、それでも学会のプログラムにスタッフ側で名前が載っていると、なんか変な気分がします。
大学院生のとき、はじめて全国学会で発表したときのことは今もはっきり覚えています。
緊張したなぁ。
だって、いつも自分が勉強している論文や本の著者の人たちが、自分の発表を聞くんですよ。
自分の発表で批判の対象にしている論文の、当の著者の人がいるんですよ。
ボッコボコにされたらどうしよう、とか、質問されて立ち往生したらどうしよう、とか、発表の前にはホントに逃げ出したくなりましたね。
今回の学会では、僕は会場係で、発表者と司会者の人員整理みたいな仕事をします。
その中には、はじめて学会に通った大学院生の方がたくさんいると思うんです。つい数年前の僕が、たくさんいらっしゃると思います。
事務的に人を捌くだけだったら簡単ですが、そうじゃないと思うんですよね。緊張している大学院生の方に力を抜いてもらって、伸び伸びと自分の日頃の研究の成果を発揮できるような、そんな会場の雰囲気づくりをするのが僕の仕事だと思うんです。
それが、すべて終わってから「今回はいい学会でしたね」と言ってもらえるような仕事なんだと思います。
しかし、どんなイベントでもそうだと思うんですが、開催側に廻ると、ふだんお客さん側で参加している時には見えなかったものが見えますね。
僕は今回の学会には毎年参加していますが、この学会がこんなに綿密なスケジュールと事前準備で行われているとは知らなかった。
会場係はいわば接客係のようなものなので、アルバイトの学生さんがたくさん動員されます。そういう学生さんたちが働いているのは知っていたんですが、まさか50人近く動員されているとは思いませんでした。
しかも、その一人ひとりについて、何時から何時までどこで何をする、のようなタイムスケジュールのフローチャートが全部作られているんですよ。それが僕も含めてスタッフ全員分作られているんですよ。
学会を開催するって大変なんだなぁ。
そういえば僕がアメリカで大学院4年めのとき、大学で言語学の大きな学会が開かれたことがあります。
その時も僕は開催校スタッフとして仕事をしたんですが、学会が終わったときにBarbara H.Parteeが話しかけてくれました。いつもニコニコして気のいいおばあちゃんです。
「たくろふ、お疲れさま。いい学会だったわねー。とても楽しかったわよ。運営もしっかりしてたし、参加者も議論を楽しんでたし。あなた達は今回の学会開催を誇りにすべきだと思うわ。」
僕はいままで学会で発表してきて、こういう言葉を運営側にかけたことがあるか、思い返してみると汗顔ものです。
いつも開催校の方々に「いやーたくろふさん、いい発表でしたねー」と声をかけてもらうことはあっても、僕の方から「いやー、いい学会でしたねー。楽しかったですよ。運営お疲れさまでした」と声をかけることは、なかったような気がします。
ひとつには、僕のほうが自分の発表だけに集中して、廻りに気を配る余裕がなかったということもあったでしょう。特にアメリカにいく前は、学会というのは「間違えたら殺される場所」だと思ってました。
そういう、いわば自分本位な姿勢でここまで来てしまったのだと思います。
しかし、本質としては、「自分をとりまくすべての人に感謝をする」という、人としてあたりまえの部分がまだ育っていなかっただけのような気がします。
下から見上げる立場の大学院生にとっては、学会なんて完璧にオーガナイズされていて当たり前です。完璧に運営されているからこそ「そこでヘマをしてはいかん」「学会の名を汚してはいかん」などと、肩に余計な力が入るわけです。
しかし、学会だろうがどんな権威のある学術会議だろうが、「ひとが運営している」という当たり前のことに気づけば、当然それに感謝すべきなのは当たり前です。
壇上で発表するときにどんなに緊張していても、廻りを見回せば、タイムキーバー係の女の子、会場係の役員さん、質疑応答のときにマイクをもって走り回る男子学生アルバイトなど、誰もが「ミスしちゃいかん」という緊張感の中で仕事をしているんです。
その基本原理としては、「この人の発表を、ちゃんとスムースに運営しよう」という配慮が大元にあるわけです。
それに気づけば、発表するときの緊張感も少しは和らぐもんです。発表が終わった後でスタッフさんたちにお礼の言葉も自然に出てくるようになるものだと思います。
一言で言うと「余裕が生まれる」わけですが、その辺の順序が、世間一般での思い込みとは逆ではないかと僕は思います。「余裕のある人が、お礼を言える」のではなく、「お礼を言うことにより、人を見て、廻りを見回す余裕が生まれる」のだと思います。
小さい頃から人にお礼を言うように躾けるのは大事なことですが、それは感謝と謙虚の心を植え付ける以上に、自分が世界を見るときの視野の広さを育むためではありますまいか。
とまぁ、そんなことを、学会を運営する側になって初めて考えたわけです。
しかし、普通はそんなこと、逆側の立場に回らなくても自然に身に付けるべきことなのだと思います。まだまだ世界が狭いなぁ俺。
閑話休題。西日本から関東近県に関しては台風で大変な一日でしたね。
東京近郊ではかなりの電車が止まったり、間引き運転をしていたとか。
雨よりも風のほうが怖いですよね。
そんな台風の中、同じ大学の他学部に会議で出向してきました。
今度開かれる大きな学会の開催校になっているので、その開催校委員会です。
なんていうんですかね、僕も学会を運営する側の立場になった、っていうことですかね。
僕なんてまだ駆け出しの若造ですので、今回はまぁお手伝いのようなもんなんですが、それでも学会のプログラムにスタッフ側で名前が載っていると、なんか変な気分がします。
大学院生のとき、はじめて全国学会で発表したときのことは今もはっきり覚えています。
緊張したなぁ。
だって、いつも自分が勉強している論文や本の著者の人たちが、自分の発表を聞くんですよ。
自分の発表で批判の対象にしている論文の、当の著者の人がいるんですよ。
ボッコボコにされたらどうしよう、とか、質問されて立ち往生したらどうしよう、とか、発表の前にはホントに逃げ出したくなりましたね。
今回の学会では、僕は会場係で、発表者と司会者の人員整理みたいな仕事をします。
その中には、はじめて学会に通った大学院生の方がたくさんいると思うんです。つい数年前の僕が、たくさんいらっしゃると思います。
事務的に人を捌くだけだったら簡単ですが、そうじゃないと思うんですよね。緊張している大学院生の方に力を抜いてもらって、伸び伸びと自分の日頃の研究の成果を発揮できるような、そんな会場の雰囲気づくりをするのが僕の仕事だと思うんです。
それが、すべて終わってから「今回はいい学会でしたね」と言ってもらえるような仕事なんだと思います。
しかし、どんなイベントでもそうだと思うんですが、開催側に廻ると、ふだんお客さん側で参加している時には見えなかったものが見えますね。
僕は今回の学会には毎年参加していますが、この学会がこんなに綿密なスケジュールと事前準備で行われているとは知らなかった。
会場係はいわば接客係のようなものなので、アルバイトの学生さんがたくさん動員されます。そういう学生さんたちが働いているのは知っていたんですが、まさか50人近く動員されているとは思いませんでした。
しかも、その一人ひとりについて、何時から何時までどこで何をする、のようなタイムスケジュールのフローチャートが全部作られているんですよ。それが僕も含めてスタッフ全員分作られているんですよ。
学会を開催するって大変なんだなぁ。
そういえば僕がアメリカで大学院4年めのとき、大学で言語学の大きな学会が開かれたことがあります。
その時も僕は開催校スタッフとして仕事をしたんですが、学会が終わったときにBarbara H.Parteeが話しかけてくれました。いつもニコニコして気のいいおばあちゃんです。
「たくろふ、お疲れさま。いい学会だったわねー。とても楽しかったわよ。運営もしっかりしてたし、参加者も議論を楽しんでたし。あなた達は今回の学会開催を誇りにすべきだと思うわ。」
僕はいままで学会で発表してきて、こういう言葉を運営側にかけたことがあるか、思い返してみると汗顔ものです。
いつも開催校の方々に「いやーたくろふさん、いい発表でしたねー」と声をかけてもらうことはあっても、僕の方から「いやー、いい学会でしたねー。楽しかったですよ。運営お疲れさまでした」と声をかけることは、なかったような気がします。
ひとつには、僕のほうが自分の発表だけに集中して、廻りに気を配る余裕がなかったということもあったでしょう。特にアメリカにいく前は、学会というのは「間違えたら殺される場所」だと思ってました。
そういう、いわば自分本位な姿勢でここまで来てしまったのだと思います。
しかし、本質としては、「自分をとりまくすべての人に感謝をする」という、人としてあたりまえの部分がまだ育っていなかっただけのような気がします。
下から見上げる立場の大学院生にとっては、学会なんて完璧にオーガナイズされていて当たり前です。完璧に運営されているからこそ「そこでヘマをしてはいかん」「学会の名を汚してはいかん」などと、肩に余計な力が入るわけです。
しかし、学会だろうがどんな権威のある学術会議だろうが、「ひとが運営している」という当たり前のことに気づけば、当然それに感謝すべきなのは当たり前です。
壇上で発表するときにどんなに緊張していても、廻りを見回せば、タイムキーバー係の女の子、会場係の役員さん、質疑応答のときにマイクをもって走り回る男子学生アルバイトなど、誰もが「ミスしちゃいかん」という緊張感の中で仕事をしているんです。
その基本原理としては、「この人の発表を、ちゃんとスムースに運営しよう」という配慮が大元にあるわけです。
それに気づけば、発表するときの緊張感も少しは和らぐもんです。発表が終わった後でスタッフさんたちにお礼の言葉も自然に出てくるようになるものだと思います。
一言で言うと「余裕が生まれる」わけですが、その辺の順序が、世間一般での思い込みとは逆ではないかと僕は思います。「余裕のある人が、お礼を言える」のではなく、「お礼を言うことにより、人を見て、廻りを見回す余裕が生まれる」のだと思います。
小さい頃から人にお礼を言うように躾けるのは大事なことですが、それは感謝と謙虚の心を植え付ける以上に、自分が世界を見るときの視野の広さを育むためではありますまいか。
とまぁ、そんなことを、学会を運営する側になって初めて考えたわけです。
しかし、普通はそんなこと、逆側の立場に回らなくても自然に身に付けるべきことなのだと思います。まだまだ世界が狭いなぁ俺。
閉会後は打ち上げがあるらしい。楽しみ。