たとえば、こんな会話。
セールストークで、こんな会話が聞かされたら、どうだろう。
何を言っているのかさっぱり分からない。営業としては無能だろう。
このセールストークを、ふつうに言い換えると、次のようになる。
これだと、言っていることが分かる。
「業界用語」を使うことがカッコいいと思っている人がいるような気がする。必要のないところでやたらと用語を連発したり、そんな用語を絶対に知らないと思われる一般人にまでずけずけと用語をひけらかす。
「軽薄な奴だなぁ」と思われても仕方あるまい。
業界用語は、もともと「いちいち最初から説明すると面倒くさいけど、その状況をよく分かっている人たちの間ではひとことで分かる符牒」がもとになっている。
つまり業界用語とは、その業界をよく知っている人の間では、もともと便利なものだ。
コンピューターでは、この「業界用語」的な単位がないと、計算が煩雑になる。コンピューター間のデータのやりとりの際、それに関わる手順や規約をいちいち辿っていると、処理速度が遅くなる。そこで、A→B→C→D→E→Fという決まりきった手順をいつも辿るときには、間をカットして、A→Fと規定してしまう。
このような「こういう場合には、こう規定しておく」という手続きのパッケージのことを、「プロトコル」という。このプロトコルによって、現在のネットワーク通信は驚異的なスピードが可能になっている。
Webサイトを見るときにURLに表示される「http」というのは、HyperText Transfer Protocolという通信プロトコルの略称だ。
日常生活で言語的プロトコルを使用するときに注意するべきことは、プロトコルそのものの効率性ではない。
プロトコルが通じない「外部の人」に対して、プロトコルを安易に使わない、ということだ。
新しい環境に身を置いたとき、自分の知らない分野に足を踏み入れたとき、基礎段階で行うべきことは、「その世界のプロトコルを身につけること」と言って過言ではない。
会社に入社したとき、報告書や始末書はどう書いて、どう提出するのか。
問題に取り組むとき、どのような知識を使い、どのように考えるのか。
その道のベテランには「決まりきった手続き」として、その過程が知らず知らずのうちに身に付いている。
知らず知らず身に付くものだけに、その世界を知らない人と話すときには、注意が必要となる。自分が話している内容のなかで、どこまでが「内部的プロトコル」なのか、どこからが「一般的にも理解可能なこと」なのか、ちゃんと分かっていないといけない。
それはつまり、自分というものを客観的に理解しているか、ということだ。俺様中心の主観にどっぷり嵌まった態度では、外部に開いた話はできない。プロトコルを使いまくる(業界用語を頻発する)ことがカッコいいと思っているなど、論外だ。
つまり、プロトコルというものは、それを身につけること以上に、それをいつでも外せるものでなければならない。
A→Fが通じない、と思ったら、いつでもA→B→C→D→E→Fをきちっと出せなくてはならないのだ。
大事なのは、すぐプロトコルを外して一般的な話し方をできることと、自分がいま話している相手がどの程度のプロトコルを身につけているのかを瞬時に把握できること、だ。
医学用語で、「尋常性挫創」「鶏眼」「動揺病」とは、それぞれどういう症状か。
それぞれ、「ニキビ」「魚の目」「乗り物酔い」だそうだ。病状と原因を科学的に解明するだけが医者の仕事なら、専門用語だけを使った方が事実との誤差がなく、精確な情報を扱える。しかし、医者が相対するのは医学などまったく知らない一般人だ。そこで、医学用語的プロトコルをはずし、一般人にもわかる言葉で説明しなくてはならない。
大学で講義するときには、中・上級向けの応用講座を教えるよりも、1年生向けの入門の授業のほうが難しい。上級者に話をするときは、その分野での一般常識、基礎知識、専門用語などのプロトコルをばんばん使って説明して構わないが、初級者にはそのプロトコルが通じないからだ。だから、「誰にでも分かる言葉で、わかりやすく、1から積み上げて説明する」という能力が必要になる。
その能力は、本質的に、その分野の中で必要とされる能力とは別種の能力だ。たとえ専門分野で優秀な研究業績をあげている人でも、一般人や初級者に対してプロトコルを外せない人がいる。「枠の中での能力」と、「枠の外の視点から枠の内部を描く能力」は、別なのだ。著名な大学教授でも講義が下手な人が多いのは、そのためだ。
「情報化社会」などという実体のない言葉が現代の特徴として取沙汰されるとき、それを肯定的に捉えようと否定的に捉えようと構わない。しかし一体、何をもって「情報化社会」と云うのか。
携帯電話やインターネットの発展・普及ごときでは「情報化社会」とは言えない。本当の情報化社会とは、専門分野が分岐しすぎ、それぞれの分野で研究や技術が発達し、「プロトコル」というパッケージを使わなくては意思伝達が難しくなっている社会のことだと思う。その分野にいる人にしか分からない言葉が氾濫する世の中が、情報化社会の行く末だろう。
そんな中、専門用語をやたらと使いたがる軽薄な人というのは、情報化社会に対応している人とは言えない。外部から見る視点を失わず、自分の置かれた立ち位置と、「外側の人たち」との距離感を正しく把握できている人が、真の「情報化社会に対応できている人」ではあるまいか。
セールストークで、こんな会話が聞かされたら、どうだろう。
「要は販促ツールとしての媒体ですよね。紙でのエンドユーザーへの訴求は現代的にないですね。ネットで弾撃っても、返りのポテンシャルは無いですよ。え、電波ですか?この節、どこもGRPがひどくて、ステーションや電博にお金使うなんて、盗人に追いマネーみたいなもんです。もっとプリミティブなシズル感を活かした絵に、キャプションかぶせた投げ込みから、ゴーしましょうか」
何を言っているのかさっぱり分からない。営業としては無能だろう。
このセールストークを、ふつうに言い換えると、次のようになる。
「要は広告としてどの媒体を使うかですよね。雑誌での購入者へのアピールは、今では厳しいでしょう。ネット広告にお金を使っても、反応の可能性はあまり得られません。え、テレビですか?最近はどこも延べ視聴率がひどくて、テレビ局や有名広告代理店にお金使うなんて、無駄だと思います。もっと基本に立ち返って、消費者の感覚を直接揺さぶるような感覚を活かした写真に、売り文句をつけて、ポストに入れるチラシ広告から始めればいいではないでしょうか。」
これだと、言っていることが分かる。
「業界用語」を使うことがカッコいいと思っている人がいるような気がする。必要のないところでやたらと用語を連発したり、そんな用語を絶対に知らないと思われる一般人にまでずけずけと用語をひけらかす。
「軽薄な奴だなぁ」と思われても仕方あるまい。
業界用語は、もともと「いちいち最初から説明すると面倒くさいけど、その状況をよく分かっている人たちの間ではひとことで分かる符牒」がもとになっている。
つまり業界用語とは、その業界をよく知っている人の間では、もともと便利なものだ。
コンピューターでは、この「業界用語」的な単位がないと、計算が煩雑になる。コンピューター間のデータのやりとりの際、それに関わる手順や規約をいちいち辿っていると、処理速度が遅くなる。そこで、A→B→C→D→E→Fという決まりきった手順をいつも辿るときには、間をカットして、A→Fと規定してしまう。
このような「こういう場合には、こう規定しておく」という手続きのパッケージのことを、「プロトコル」という。このプロトコルによって、現在のネットワーク通信は驚異的なスピードが可能になっている。
Webサイトを見るときにURLに表示される「http」というのは、HyperText Transfer Protocolという通信プロトコルの略称だ。
日常生活で言語的プロトコルを使用するときに注意するべきことは、プロトコルそのものの効率性ではない。
プロトコルが通じない「外部の人」に対して、プロトコルを安易に使わない、ということだ。
新しい環境に身を置いたとき、自分の知らない分野に足を踏み入れたとき、基礎段階で行うべきことは、「その世界のプロトコルを身につけること」と言って過言ではない。
会社に入社したとき、報告書や始末書はどう書いて、どう提出するのか。
問題に取り組むとき、どのような知識を使い、どのように考えるのか。
その道のベテランには「決まりきった手続き」として、その過程が知らず知らずのうちに身に付いている。
知らず知らず身に付くものだけに、その世界を知らない人と話すときには、注意が必要となる。自分が話している内容のなかで、どこまでが「内部的プロトコル」なのか、どこからが「一般的にも理解可能なこと」なのか、ちゃんと分かっていないといけない。
それはつまり、自分というものを客観的に理解しているか、ということだ。俺様中心の主観にどっぷり嵌まった態度では、外部に開いた話はできない。プロトコルを使いまくる(業界用語を頻発する)ことがカッコいいと思っているなど、論外だ。
つまり、プロトコルというものは、それを身につけること以上に、それをいつでも外せるものでなければならない。
A→Fが通じない、と思ったら、いつでもA→B→C→D→E→Fをきちっと出せなくてはならないのだ。
大事なのは、すぐプロトコルを外して一般的な話し方をできることと、自分がいま話している相手がどの程度のプロトコルを身につけているのかを瞬時に把握できること、だ。
医学用語で、「尋常性挫創」「鶏眼」「動揺病」とは、それぞれどういう症状か。
それぞれ、「ニキビ」「魚の目」「乗り物酔い」だそうだ。病状と原因を科学的に解明するだけが医者の仕事なら、専門用語だけを使った方が事実との誤差がなく、精確な情報を扱える。しかし、医者が相対するのは医学などまったく知らない一般人だ。そこで、医学用語的プロトコルをはずし、一般人にもわかる言葉で説明しなくてはならない。
大学で講義するときには、中・上級向けの応用講座を教えるよりも、1年生向けの入門の授業のほうが難しい。上級者に話をするときは、その分野での一般常識、基礎知識、専門用語などのプロトコルをばんばん使って説明して構わないが、初級者にはそのプロトコルが通じないからだ。だから、「誰にでも分かる言葉で、わかりやすく、1から積み上げて説明する」という能力が必要になる。
その能力は、本質的に、その分野の中で必要とされる能力とは別種の能力だ。たとえ専門分野で優秀な研究業績をあげている人でも、一般人や初級者に対してプロトコルを外せない人がいる。「枠の中での能力」と、「枠の外の視点から枠の内部を描く能力」は、別なのだ。著名な大学教授でも講義が下手な人が多いのは、そのためだ。
「情報化社会」などという実体のない言葉が現代の特徴として取沙汰されるとき、それを肯定的に捉えようと否定的に捉えようと構わない。しかし一体、何をもって「情報化社会」と云うのか。
携帯電話やインターネットの発展・普及ごときでは「情報化社会」とは言えない。本当の情報化社会とは、専門分野が分岐しすぎ、それぞれの分野で研究や技術が発達し、「プロトコル」というパッケージを使わなくては意思伝達が難しくなっている社会のことだと思う。その分野にいる人にしか分からない言葉が氾濫する世の中が、情報化社会の行く末だろう。
そんな中、専門用語をやたらと使いたがる軽薄な人というのは、情報化社会に対応している人とは言えない。外部から見る視点を失わず、自分の置かれた立ち位置と、「外側の人たち」との距離感を正しく把握できている人が、真の「情報化社会に対応できている人」ではあるまいか。
家電量販店の販促員の、家電の性能を説明するときの説明力ときたら