僕は今勤めてる大学で3年目ですが。
3年も経つと、いつのまにか研究室に住みついてる学生が発生しますな。
高校までと違って大学というものは、学生自身が学びたいと思うものを「攻めて学ぶ」場所だ。
「この先生からもっと学びたい」というものを見つけられれば、その先生に食いついて、なんでも吸収しようという心構えは必要だと思う。
思い返してみれば、僕も学部生の頃はそうやって指導教官の研究室に頻繁に出入りしていた。
僕が学部時代の指導教官は、学部生相手の授業でも一切手加減をしない先生だった。
英語学の基礎の授業でも、平気で原著の分厚い教科書を指定して使う。説明内容も、初学者にわかりやすく噛み砕いて教えるのではなく、そのトピックが最新の研究でどういう位置づけになっているのかという、上からの視点で説明していた。
授業についていけなくて、授業中に寝ている学生もたくさんいた。
当然、授業内容はさっぱり理解できない。
そのたびに、授業のノートと教科書をもって先生の研究室に質問に行った。
研究室に行くと、先生は多忙な時間を割いて、よく質問に答えてくれた。
自分はどこが分からないのか、それは何が分かっていないからなのか、授業内容を理解するためにはまず何を知らねばならないのか、そういう積み重ねの欠如は、授業中ではなく先生の研究室で理解していた。
思えば、僕は授業時間よりも、先生の研究室で個別に質問に答えてもらっている時間のほうが遥かに長かったような気がする。
その先生に教えてもらったことは、学部生当時には理解できないことがほとんどだった。
大学院に入って本格的に勉強をはじめてから、当時の授業のノートを紐解いて、はじめて先生の授業内容の意図が理解できた、ということもしばしばあった。
実はその先生は、僕の正式な指導教官ではなかった。所属していたゼミには文学が専門の別の先生がおり、書面上ではそちらが指導教官ということになっていた。
僕が理論言語学で卒論を書きたいと決めてからは、双方の先生の了承をとり、実際の指導は理論言語学が専門の先生にしていただいた。
正式な指導教官ではないながらも、その先生は一切手を抜かず、僕が必要としていた指導をすべて行ってくれた。大学院を受験するときも道を開いてくれたのはその先生だ。
授業のない日でも、夏休みでも、僕が必要であれば面会の時間をとってくれる。僕はその先生に指導をお願いして、断られたことが一度もない。
しょせん学部の卒論レベルでは、先生が本気を出して相手をするほどの内容ではなかったのかもしれない。しかし物理的には時間と手間をかけるわけだし、人を相手にするというのは、どんな相手であっても大変な仕事だと思う。
僕がその指導教官から学んだことはたくさんある。しかし今考えてみると、知識そのものは、その先生に教わらなくても、いずれ独学でも身につけることになるものばかりだった。少なくとも、大学院に入れば理解できるようになることばかりだ。
最近、その先生に一対一で相手をしてもらっていた頃のことをよく思い出す。
僕がその先生から学んだことは、知識ではない。研究するとはどういうことなのか、人を指導するということはどういうことなのか、そういう大学における研究生活の根本を成すものだったと思う。
大学という場で教育に携わる以上、仕事の本分は研究にある。自分の論文を発表し、学問の向上に寄与する。それが第一義であることは間違いない。
しかしそれを言い訳にして、次代の人材の育成を無視し、自分だけの世界にこもりきりになることは許されないだろう。
世界を知る方法論は、数限りなく存在する。科学はそのひとつにすぎない。
科学がもつ特徴のひとつは、継続性だ。個人の研究はその人ひとりで終わるのではなく、その成果を次世代の人間が継続できる。その繰り返しによって、科学は他の方法論よりも飛躍的な進歩をもたらした。
その科学の研究に携わっていながら、その後継たる次世代の育成を軽視するのは、矛盾だ。
僕の指導教官は、それを身を以て示してくれていた。
僕に対する個別指導が、先生の仕事時間を圧迫していたこともあったと思う。しかし、先生はまったくそんな素振りを見せたことがなかった。僕はそんなことは露ほどにも感じたことはなく、自分の勉強に没頭することができた。
今、自分が学生の指導をする立場になって、当時の先生にしていただいたことがどれほどのことだったのか、分かりかけてきた。
僕は個人的には、自分の研究分野に興味をもって研究室を訪れる学生に対しては、所属ゼミがどうの、指導教官がどうのは関係なく、相手をしてあげたいと思っている。少なくとも僕はそういう教育を受けた。
僕が学生当時の指導教官にどういう恩返しができるのかは、今の僕には分からない。僕ができるのは、先生にしていただいたことを、こんどは自分が学生にしてあげることだと思う。僕の講義や指導を通して、理論言語学という分野の面白さを少しでも感じてくれる学生が増えてくれれば、それがすなわち学問の裾野を広げることにつながる。
世の中というものは、そうやって前に前に進んでいくものではなかろうか。
・・・てなわけで最近、僕の研究室に座敷わらし共がおるのですが。
コレらがまた僕の研究室でまったりとくつろいでおるのですよ。
お茶しながらおしゃべりしておるのですよ。
ここはカフェじゃねぇぞ。
僕は嫁さんと二人暮らしなので、いただきものを消費できないことがたまにあります。
このあいだ、いただきもののカステラが食べきれないので、研究室に置いておきました。
「あー、先生、このカステラいただいていいんですかー?」
一瞬で食べ尽くされました。
3年も経つと、いつのまにか研究室に住みついてる学生が発生しますな。
高校までと違って大学というものは、学生自身が学びたいと思うものを「攻めて学ぶ」場所だ。
「この先生からもっと学びたい」というものを見つけられれば、その先生に食いついて、なんでも吸収しようという心構えは必要だと思う。
思い返してみれば、僕も学部生の頃はそうやって指導教官の研究室に頻繁に出入りしていた。
僕が学部時代の指導教官は、学部生相手の授業でも一切手加減をしない先生だった。
英語学の基礎の授業でも、平気で原著の分厚い教科書を指定して使う。説明内容も、初学者にわかりやすく噛み砕いて教えるのではなく、そのトピックが最新の研究でどういう位置づけになっているのかという、上からの視点で説明していた。
授業についていけなくて、授業中に寝ている学生もたくさんいた。
当然、授業内容はさっぱり理解できない。
そのたびに、授業のノートと教科書をもって先生の研究室に質問に行った。
研究室に行くと、先生は多忙な時間を割いて、よく質問に答えてくれた。
自分はどこが分からないのか、それは何が分かっていないからなのか、授業内容を理解するためにはまず何を知らねばならないのか、そういう積み重ねの欠如は、授業中ではなく先生の研究室で理解していた。
思えば、僕は授業時間よりも、先生の研究室で個別に質問に答えてもらっている時間のほうが遥かに長かったような気がする。
その先生に教えてもらったことは、学部生当時には理解できないことがほとんどだった。
大学院に入って本格的に勉強をはじめてから、当時の授業のノートを紐解いて、はじめて先生の授業内容の意図が理解できた、ということもしばしばあった。
実はその先生は、僕の正式な指導教官ではなかった。所属していたゼミには文学が専門の別の先生がおり、書面上ではそちらが指導教官ということになっていた。
僕が理論言語学で卒論を書きたいと決めてからは、双方の先生の了承をとり、実際の指導は理論言語学が専門の先生にしていただいた。
正式な指導教官ではないながらも、その先生は一切手を抜かず、僕が必要としていた指導をすべて行ってくれた。大学院を受験するときも道を開いてくれたのはその先生だ。
授業のない日でも、夏休みでも、僕が必要であれば面会の時間をとってくれる。僕はその先生に指導をお願いして、断られたことが一度もない。
しょせん学部の卒論レベルでは、先生が本気を出して相手をするほどの内容ではなかったのかもしれない。しかし物理的には時間と手間をかけるわけだし、人を相手にするというのは、どんな相手であっても大変な仕事だと思う。
僕がその指導教官から学んだことはたくさんある。しかし今考えてみると、知識そのものは、その先生に教わらなくても、いずれ独学でも身につけることになるものばかりだった。少なくとも、大学院に入れば理解できるようになることばかりだ。
最近、その先生に一対一で相手をしてもらっていた頃のことをよく思い出す。
僕がその先生から学んだことは、知識ではない。研究するとはどういうことなのか、人を指導するということはどういうことなのか、そういう大学における研究生活の根本を成すものだったと思う。
大学という場で教育に携わる以上、仕事の本分は研究にある。自分の論文を発表し、学問の向上に寄与する。それが第一義であることは間違いない。
しかしそれを言い訳にして、次代の人材の育成を無視し、自分だけの世界にこもりきりになることは許されないだろう。
世界を知る方法論は、数限りなく存在する。科学はそのひとつにすぎない。
科学がもつ特徴のひとつは、継続性だ。個人の研究はその人ひとりで終わるのではなく、その成果を次世代の人間が継続できる。その繰り返しによって、科学は他の方法論よりも飛躍的な進歩をもたらした。
その科学の研究に携わっていながら、その後継たる次世代の育成を軽視するのは、矛盾だ。
僕の指導教官は、それを身を以て示してくれていた。
僕に対する個別指導が、先生の仕事時間を圧迫していたこともあったと思う。しかし、先生はまったくそんな素振りを見せたことがなかった。僕はそんなことは露ほどにも感じたことはなく、自分の勉強に没頭することができた。
今、自分が学生の指導をする立場になって、当時の先生にしていただいたことがどれほどのことだったのか、分かりかけてきた。
僕は個人的には、自分の研究分野に興味をもって研究室を訪れる学生に対しては、所属ゼミがどうの、指導教官がどうのは関係なく、相手をしてあげたいと思っている。少なくとも僕はそういう教育を受けた。
僕が学生当時の指導教官にどういう恩返しができるのかは、今の僕には分からない。僕ができるのは、先生にしていただいたことを、こんどは自分が学生にしてあげることだと思う。僕の講義や指導を通して、理論言語学という分野の面白さを少しでも感じてくれる学生が増えてくれれば、それがすなわち学問の裾野を広げることにつながる。
世の中というものは、そうやって前に前に進んでいくものではなかろうか。
・・・てなわけで最近、僕の研究室に座敷わらし共がおるのですが。
コレらがまた僕の研究室でまったりとくつろいでおるのですよ。
お茶しながらおしゃべりしておるのですよ。
ここはカフェじゃねぇぞ。
僕は嫁さんと二人暮らしなので、いただきものを消費できないことがたまにあります。
このあいだ、いただきもののカステラが食べきれないので、研究室に置いておきました。
「あー、先生、このカステラいただいていいんですかー?」
一瞬で食べ尽くされました。
どんなに食べてもおなかへる世代だからなぁ。