2009年03月
マルチン・ルター(Martin Luther、1483-1546)
世界史の授業でおなじみの、神聖ローマ帝国(現ドイツ)の神学者。宗教改革によってプロテスタント教会の流れの祖とされる。宗教以外でもヨーロッパ文化に多大な影響を及ぼした。それまでラテン語でしか書かれていなかった聖書をドイツ語に翻訳することによって、近代ドイツ語の成立を促し、識字率の大幅な上昇に寄与した。現在、世界各地に伝わる「ルーテル教会」は、ルター派を起源とする。
ローマ教皇に対する反抗は「神に対する反抗」とされていた中世にあって、宗教改革という大断行を行って、よく命がもったものだ。
これほどまでの革命を成し遂げたルターは、どういう人だったのか。高校のときに世界史の授業で習ったときの僕のイメージでは、意気高く、正義感が強く、野心的で、曲がったことを容赦なく弾劾するような攻撃的なイメージがあった。
しかし、よくよく当時の状況を調べてみると、はたしてルターは本当に攻撃的な人だったのか、宗教上の大改革を目論むような野心家だったのか、疑問に感じることがある。
ルターのいわゆる「宗教改革」の発端は、アルブレヒトという生臭坊主に端を発する。彼はマクデブルク大司教、ハルバーシュタット司教という位をもっていながら、選帝侯として政治的に重要なポストであったマインツ大司教の位も欲しがった。きっと出世欲と権力欲が旺盛だったのだろう。
しかしローマの決まりでは、司教の位はひとりにつきひとつしか保持することはできない。そこでアルブレヒトはこれを金で解決しようと考えた。ローマ教皇庁にたんまり袖の下を渡すことによって、マインツ大司教に就任する特別許可を得ようとした。
ローマとしても、あからさまに「金を払いますから大司教位をください」という要求を受けるわけにはいかない。そこで、アルブレヒトは名目上、サン・ピエトロ大聖堂建設献金という大義名分を掲げてカネ集めに走った。
その金儲けの方法が問題になる。
アルブレヒトはローマへの献金のため、贖宥状を乱発し売りまくった。一般的に誤解されているが、本来の「贖宥状」はいわゆる「免罪符」とは違う。もともとキリスト教では罪を償うために、悔恨、告白、補償という3段階を経ることになっていた。補償というのは要するに償いの行為であり、反省の心に応じてそれを態度で示す社会活動のことを指す。この補償行為が街のゴミ拾い程度のものだったら問題はなかったのだが、時代の要請によって補償行為が労働の対価のごとく見なされるようになった。
つまり、十字軍。最初は「イスラム教徒に対する聖戦」という建前だったのが、次第に「中東の豊かな土地を略奪する金儲け」に変化していった。その過程で、どうしても労働力としての戦士の頭数が必要になる。そこで教会は十字軍への従軍を「罪を償う行為」という位置づけとし、実利的な目的を伴う十字軍との間で需要と供給が一致した。その証書となるのが贖宥状だ。
時代が下るとともに「聖なる実務」の証明のはずの贖宥状が、金銭で取引されるようになる。いわば「現世での罪が赦されるお札」という色彩が強くなった。こうなると贖宥状は免罪符としての役割が濃くなっていく。ルターが疑問視したのは、悔恨、告白、補償労働というステップを踏むこと無しに「これさえ買えば赦される」という点にある。
ルターはこれを贖宥状の権限逸脱として、有名な『95ヶ条の論題』を張り出し、異を唱えた。当然、ルターの矛先は贖宥状を乱発したアルブレヒトに向けられているのであり、ローマ教皇庁に向けられていたのではない。むしろアルブレヒトに対して「お前のやっていることはローマの方針に反している」というスタンスで書かれている
この過激な文書は、たちまちドイツ語に訳されて全ドイツ中に広まった。「たしかに、これおかしいんじゃね?」的な雰囲気が広がり、キリスト教の教義に関する大問題に発展する気配があった。
そうなると困るのはローマ教皇庁だ。話の筋としてはルターのほうが通っているが、実際的に献金を通じて利益を得ている立場としてはアルブレヒトを無下には扱えない。ローマは陰に日向に「教義に疑問を挟むことは、ローマに対する反逆となる」とルターを抑えにかかるが、ことごとく失敗した。
その後、ライプチヒで、ルターと神学者のヨハン・エックとの公開討論が行われた。エックはインゴルシュタット大学の神学教授で、当時最強の論客と謳われる強者だった。ルターはこの最強の論客を相手に、自説を主張しなければならな羽目に陥った。
このルターとエックとの論争が面白い。 続きを読む
ペンギン命
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