たくろふのつぶやき

春は揚げ物。

2007年07月

国立ハンセン病資料館

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東京都東村山市の国立ハンセン病資料館に行ってきました。


JR武蔵野線の新秋津駅から西武線秋津駅に乗り継いで一駅、清瀬駅が最寄り駅です。
池袋経由だと西武池袋線の各駅停車で30分ほどです。


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まぁ、無意味に特急レッドアローに乗ったわけですが。



乗る必要があるかじゃない。乗りたいから乗ったんだ


清瀬駅の近くは、国立病院や救世軍施設、民間の療養所など医療機関がたくさんあります。教会も多い。ハンセン病は仏教で「業病」「仏罰」と呼ばれ、「前世の罪に対する罰だ」とされて救済されなかったらしいです。だからハンセン病患者の救済は、キリスト教の教会主導で行われました。いまもハンセン病の療養所や研究施設のまわりに教会が多いのは、その名残りでしょう。

資料館は1993年に開設され、ついこのあいだの2007年3月にリニューアルオープン。去年はまだ改装工事のため公開が中止されていました。僕がかねてから訪れてみたかった資料館のひとつです。

新館、すごいなぁ。かなりお金をかけて作ってあると思います。内装はピカピカで、チリひとつ落ちてない。展示ものだけでなく、音声と映像を組み合わせたスクリーンが館内のあちこちに設置されており、元患者の生の声が聞けるようになっています。入場無料。館内で配布している冊子や資料も、すべて無料で持ち帰れます。


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入り口のロビー。涼しい。



ハンセン病。
旧称「癩病(らいびょう)」。顔がただれ、腐ったように変形し、四肢がねじ曲がる。「悪魔の病気」「天刑病」と呼ばれ、不治の遺伝病と誤解された。そのため、患者だけでなく、その家族までが差別と迫害の対象となった。地域によっては「かったい」「なりんぼう」「どす」などの呼称が残っている。いずれも差別用語だ。

ハンセン病への恐怖が引き起こす迫害は、さまざまな作品の舞台装置として使われている。
松本清張の「砂の器」では、住む土地を追われたハンセン病患者とその息子が、あてもなく放浪する様が描かれている。また父親の病歴を知られることを恐れた息子が殺人を犯してしまう。

コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ作品では、『白面の兵士』(「シャーロック・ホームズの事件簿」収録)でテーマとなっている。街のある屋敷で、帰還兵である若い青年が、ある日を境に姿を消す。時期を同じくして、温厚だった屋敷の主人(青年の父親)が凶暴になり人との接触を避けるようになる。「青年は父親に殺されたのではないか」という噂が流れ、ホームズが調査する。実は青年はハンセン病患者の兆候が出てしまっていた。その醜聞を恐れた父親が家庭内で青年を隔離監禁していたのだった。

実際のところ、ハンセン病は菌を介する伝染病であり、その伝染力は極めて弱い。現在では治療法が確立されており、早期に治療すれば後遺症が残ることもない。現在、日本各地の療養所で生活している人も、ほとんどは完治しており、変形などの後遺症が残っているに過ぎない。

伝染として注意しなければならないのは、乳幼児期に多量のらい菌を頻繁に口や鼻から吸い込んだ場合だけだ。らい菌は感染から発症までの潜伏期間が長く、そのために遺伝病と誤解されていた。長い場合は数十年にわたって菌が休眠状態でいる場合がある。発病には患者の免疫能力、栄養状態、衛生状態など種々の要素が関与するため、現在の日本では、小児期意向の成人が感染しても、発症することはまずない。戦争、飢餓、極度の貧困など、衛生状態が著しく悪化したとき特有の発症が多い。

資料館には、いまに残るハンセン病患者の資料が多数展示されていた。思ってたよりも広く、資料の数も多い。大きくわけて、展示には「ハンセン病の正しい知識」「患者の療養所生活」「ハンセン病をとりまく社会の反応の歴史」の3つに大別されると思う。

かつてハンセン病は不治の病とされ、国が主導して隔離政策を行った。患者は強制的に連行され、家の戸板には「ハンセン病患者の家」の印がつけられた。戸籍に基づいて患者の家を記した地図が資料として残っている。患者の存在が知られるのは、密告によるものが多かった。

国が患者に呼びかけるための療養所のパンフレットには、あたかも療養所が医療完備の楽園であるかの如く書いてある。しかし療養所の実態は治療には程遠く、地獄のような有り様だったらしい。逃走防止のため、収容所では所内だけで通じる金券が使われた。感染を恐れて一般の業者は療養所に近寄りたがらず、消防署さえ出動を断った。そのため、療養所内の一切の業務は、患者が分担して行った。炊事、洗濯のみならず、居住棟の建築、配管、被服、床屋、大工、畑仕事、すべて患者が行った。子供の患者向けの学校さえあり、大人の患者が読み書きを教えていた。居住者は「患者」ではなく「労働者」と言ったほうが近い。

国策として強制収容が進んでからは、人員増大のため生活環境は劣悪となった。患者は4?5畳の部屋を8人で共用する。患者同士で結婚する場合は強制的に断種手術が課された。結婚した場合、男性患者が女性患者棟を夜だけ訪れる「通い婚」制度だった。その場合、女性患者棟の部屋には4, 5畳に10人以上がひしめき合い、区切りも何も無く夫婦生活を行った。夏の夜などは大変だったそうだ。

世間では患者に対する差別は悲惨を極め、「国の恥」とまで呼ばれたらしい。 資料館には1957年の読売新聞の記事の抜粋があり、「親族にハンセン病患者がいるためにバレたら婚約が破談してしまうかもしれない」という人生相談があった。結婚の破談、村八分は数知れず。戸籍から患者の家族を抹消したり、履歴書に療養所滞在期間の空白を偽るなど、苦しい詐称のあとも残っている。

2003年9月17日、熊本県阿蘇郡南小国町の黒川温泉にあった「アイレディース宮殿黒川温泉ホテル」が、ハンセン病元患者の宿泊予定を拒否した事件が起きた。
つい4年前だ。

拒絶されたのはすでに完治している「元患者」であり、そもそもハンセン病は伝染力の弱さから、旅館法が定める指定伝染病にはあてはまらない。この旅館の行為は違法として、2004年2月16日、旅館業法違反で旅館の営業停止処分が下った。同日、経営母体の「アイスター」がホテルの廃業を発表する。現在ではそのホテルは取り壊されている。

この件で、宿泊拒否されたハンセン病の元患者には賛否両論の投書が舞い込んだ。その中には、元患者たちを非難中傷する手紙が多数あったそうだ。その手紙が資料館に公開されていた。
「傲慢だ」「癩病患者のくせに」「裁判に勝ったからといって社会が受け入れると思うな」「謝罪されたらおとなしく引っ込め」・・・など。差出人は「女性代表」「善良な一国民」などの匿名が多い。手紙はどれも達筆のくずし字で、旧字体も使ってる。おそらく年配の人だろう。むかしのハンセン病の偏見が、そのまま現在でも残っていることをまざまざと見せつける。


僕がハンセン病に興味があるのは、「科学が犯した過ちは、修正しようとも、世の中は簡単に受け入れない」という怖い実例であるからだ。

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振り逃げ3ラン




2007年7月28日、横浜スタジアム
高校野球神奈川大会準決勝、東海大相模 対 横浜高校


4回表の東海大相模の攻撃、2アウト 1,3塁の場面。
守備の横浜高校はワンバウンドの球でスイングアウトの3ストライクを取り、「3ストライクすなわちアウト」と思いこみ、野手が全員ベンチに引き上げる。
ところが三振に討ち取られた東海大相模のバッターは、ベンチからの「走れ」の指示を受けて、そのままベースを一周。ランナー2人とあわせて3点が入る。

試合は6対4で東海大相模の勝利。
この振り逃げによる3点が決勝点となった。


ルールでは、

第3ストライクの投球を捕手が正規に捕球しなかった場合、打者は直ちにアウトにはならず、打者走者となって一塁への進塁を試みることができる。そのため守備側が打者をアウトにするためには、打者に触球するか、打者が一塁に到達する前に一塁に送球するかしなければならない。

「正規の捕球」とは、「投手のノーバウンドの投球を捕手の手またはミットで完全捕球すること」である。よって、バウンドした投球を空振りし、捕手の手またはミットで完全捕球できても正規の捕球に該当しない

振り逃げが成功した場合も、打者には三振が記録される。また同時に暴投または捕逸も記録される。ただし、三振が記録されても振り逃げが成功すれば打者はアウトにはならないので、1イニングで4つ以上の三振が成立することもあり得る。




来年はルールを勉強してから来い。

のだめカンタービレ

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DVDでテレビドラマ『のだめカンタービレ』を、全話まとめて観た。


このドラマは二ノ宮知子原作の漫画をドラマ化したもの。音楽大学を舞台に、クラシック音楽を学ぶ大学生活を描いている。ドラマ化をきっかけにオーケストラのコンサートの観客動員数が急増するなど、社会現象にもなった。月刊TVnaviが行ったドラマ・オブ・ザ・イヤー2006では最優秀作品賞を受賞している。

僕はもともとクラシック音楽が好きなこともあり、このドラマはつねづね見てみたいと思っていた。音楽大学という自分のまったく知らない世界で、学生がどんなことを考え、どんな奮闘をしているのか、興味があった。

主人公の千秋真一は、著名なピアニストを父にもち、ヨーロッパで育った優等生。容姿端麗、ピアノとヴァイオリンを弾きこなし、学内では「千秋さま」と呼ばれる王子様的存在。ところが幼少時に旅客機の胴体着陸を経験し、恐怖感から飛行機に乗れなくなってしまう。そのため優秀でありながら留学ができず、日本の音大で悶々とした生活をする羽目になる。

学生生活に目標を見出せず鬱屈した生活を送っていた千秋は、ある日、ハチャメチャな性格、破天荒な行動のピアノ科の問題児・野田恵(のだめ)に出会う。のだめのピアノは、楽譜を無視し、自分勝手な解釈で好き勝手に弾いていながら、超人的な技巧でのびやかな朗らかさがあった。千秋は文句を言いながらも、のだめに付き合っているうちに、音楽に対する姿勢が徐々に変わっていく。


ドラマ版を見通して、ふたつほど感じたことがあった。


ひとつは、留学に対する憧憬。
主人公の千秋は、留学に対してとてもコンプレックスを持っている。飛行機恐怖症の自分は留学をあきらめざるを得ない。そのため、自分よりも技能の劣る同期生がヨーロッパに留学を決めると、あからさまに動揺し、羨望と妬みを露わにする。

僕は音楽大学の実情をよく知らないが、音楽においては、それほど「留学」が優秀さの証左になるのだろうか。本場のヨーロッパで音楽を学びたいという希望は、それほど音大ではポピュラーなものなのだろうか。

僕自身、学部時代から留学を強く希望しており、いま実際にその夢を叶えて留学している身なので、気持ちはよく分かる。確かに留学をすると、今まで知らなかった世界がいきなり広がる。優秀な学生、教授陣にもまれて奮闘すると、徹底的に鍛えられる。「日本にいるよりも、世界に出てみたい」というのは、国文学や考古学など特殊な分野を除いて、大学で本気で学んでいる学生だったら誰もが一度は感じることではあるまいか。

僕も留学して数年たち、そうした初期の「留学に対する憧れ」のような気持ちを忘れかけている。留学をめぐって葛藤し奮闘する主人公を見てると、「留学への憧れはどの分野でも変わらないんだな」という気になって、ちょっと初心を思い出す。


ふたつめは、学ぶことに対する姿勢。
千秋は物語当初、留学できないことへの苛立ちから、自分よりも能力の劣る学生に対して高圧的な態度をとっていた。学生連中の演奏を心の中で「ヘタクソ」と毒づき、譜面に弱いのだめにも容赦ない。

千秋は、ハリセンを片手にスパルタ式に徹底的にしごくエリート専任の指導教官と言い争いになり、指導から外されてしまう。次に千秋の指導教官になったのは、「落ちこぼれ専門」と陰口を叩かれる無気力な教師、谷岡だった。谷岡はのだめの担当でもある。

谷岡は千秋とのだめを抱き合わせで教えることにし、二人にモーツァルト唯一の連弾曲「2台のピアノのためのソナタ ニ長調 K.448(375a) 第1楽章」を課題曲として課す。千秋は最初、のだめの指導を押し付けられたと思って、のだめとの連弾を嫌がる。しかしメチャクチャながらものびのびと弾くのだめに合わせて弾いているうちに、音を出すことの楽しさを感じていく。

課題曲を弾ききった二人に、谷岡教授は「千秋くん、壁を越えたね」とコメントする。谷岡が千秋とのだめを合わさせたのは、のだめのためではなく、千秋のためだった。

落ちこぼれ学生で構成された「Sオーケストラ」の指揮を任されたときも、千秋ははじめ演奏の下手な学生に苛つき、怒鳴り、容赦ない批判を浴びせる。しかし、そのうち「自分のイメージする音まで演奏者を引っ張り上げる」のではなく「演奏者それぞれ独自のいい音を引き出す」ことがオーケストラ指揮者の仕事であることに気付き、のびやかな音をまとめあげることに成功する。

変な話だが、まわりを見下し孤高を貫こうとする偏狭な姿勢は、音楽に限らず、どの分野を学ぶときでも、自分を狭める枷になると思う。

アメリカの大学院に関するよくある風評に「学生同士の競争が厳しく、分からないことを友達に効いても無視される。ノートも見せてくれず、学生同士が潰し合う」というのがある。僕自身の経験に基づくかぎり、そんなのは大嘘だ。少なくともそういう態度の学生は、プレッシャーに負けて勝手に自滅していく。僕だって留学1年目のときなどは、友達に得意な意味論を教えてあげて、苦手な音韻論を教えてもらったりしていた。

どんな優秀であっても、まわりを無能と見下し、オレ様中心主義でいる限り、自分の限界を破るのは難しいと思う。大学や大学院で潰れる学生は、例外なく、勉強を楽しめなくなっている。まわりの学生を睥睨しているときの千秋も、音楽を楽しんでいないと思う。

勉強を楽しみ、人生を楽しむには、人の長所を汲み取り、人を尊敬する姿勢が必要だと思う。まわりがバカばっかりに見えたり、無能者ばかりに見えたり、敵ばかりに見えたりする生活が、楽しいわけがない。成長をめざして勉強する人は、絶対にいずれ壁にあたる。そのときに自分の殻に閉じこもってしまい、疑心暗鬼になってしまうと、「オレはなんでこんなことをしなければいけないのだろう」に陥る。

人を認め、人を尊敬できる人は、朗らかだ。負けず嫌いは勝負に勝つために必要な資質だが、人を認めることは勝負に挑み続ける柔軟な心を保ち続けるために必要だと思う。『のだめカンタービレ』というドラマは、のだめという強烈な個性を通して、人とつながることによって人が成長していく過程を描いている。僕はそう解釈している。


音楽のことはよく分からないが、本気で一流を目指すのであれば、どんな分野でも必要とされる資質は似通っているものだろう。上を目指して奮闘する学園ものは、見ていて面白いし、わが身を振り返ることもある。



ラストコンサートはさすがにすごい演奏ですね

マイナス8センチ

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要するに8センチ太るってことだよな。

参議院選挙

明日ちょっと要件があるので、参議院選挙の前日投票に行ってきました。


なんといっても国政選挙ですからねぇ。参政権を公使できるのは嬉しいもんです。
あまりそういうことを感じない方々もいらっしゃるかもしれませんが、外国暮らしをしてると母国の政治に参加するということが結構嬉しいものです。

近くの区役所に行って投票。けっこう混んでるなぁ
意外と前日投票をする人って多いんですね。
いつも棄権が問題になる選挙ですが、年金問題、安全保障、教育問題、住民税と、これだけ問題が山積みになれば、そりゃ有権者の関心も高まるというものでしょう。

僕は、国民が政治に関心がある世の中というのは、ろくな世の中じゃないと思います。逆説的ですが、一般人が政治に関心があるということは、それだけ世の中の現状がマズいことになっているからだと思います。税金は低く、年金は安泰、教育も振興してる良い世の中だったら、誰も政治に関心なんか持たないでしょう。

政党のマニフェストや、テレビなどマスコミを通しての議論を見てると、どの候補者も現状の問題をよく理解していらっしゃる。現在の与党がその問題に対していかに無能かもよく指摘していらっしゃる。
それなのに、「じゃあ、どうすればいいか」の代案をさっぱり出さないのは、どういうことなのでしょう。

今回の選挙戦を見ていると、どうも各政党とも、悪口の言い合いに終止している観があります。街頭演説を聞いていると「ウチの政党はこんな良さがあります」ではなく、「あの政党はこんなにダメです」という論調の何と多いことか。テレビ朝日のニュースショーでは、ご丁寧なことに、現政権の大臣による不祥事や失言をリストアップして大々的に報じていました。泥の投げ合いには手段を選ばず、です。

「税金が高くなっています」「年金がもらえなくなる可能性があります」「与党の不祥事の数々は」など、有権者の不安を煽るだけ煽っておいて、具体的な政策の提案をすることなく、人柄、イメージ、知名度で押し切ろうとする、いいかげんな候補者が多い気がします。悪徳商法の手口と何ら変わりありません。

候補者側がそういった出方をするのは、大した策も無いからでしょう。マニフェストや政策・公約の類いを読んでも、みんな大した事は言ってません。「こいつには任せられない」という人はいっぱいいるけど、「この人になら任せられる」という候補者が居ない。似たり寄ったり。どちらさまも気合を入れてるのは他政党の批判だけです。

前日投票に来ている人の多さを見ると、みなさん「いまの世の中はもうちょっとなんとかならんものか」という苦々しさが見えるような気がします。



受付の選管のお姉さんが美人でした。
ペンギン命

takutsubu

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