2007年02月
ネット脅迫:掲示板で家族評論家を攻撃 東京の会社員逮捕
(毎日新聞)
騒ぎの元となった記事は↓こういうの。
ちなみに現在はBlogそのものが閉鎖に追い込まれた模様。
(毎日新聞)
インターネットの掲示板「2ちゃんねる」に評論家の池内ひろ美さん(45)を脅す内容の書き込みをし、池内さんの講座を中止に追い込んだとして警視庁捜査1課と目白署は27日、東京都日野市三沢1、会社員、小林一美容疑者(45)を脅迫と威力業務妨害容疑で逮捕した。「(ブログ=日記風簡易型ホームページ=の内容が)批判されているのに謝罪しないので腹が立った」と供述している。
調べでは、小林容疑者は昨年12月20日、自宅のパソコンから「一気にかたをつけるのには、文化センターを血で染め上げることです」「教室に灯油をぶちまき 火をつければ あっさり終了」などと2ちゃんねるに書き込み、池内さんを脅迫。同日午後に名古屋市内の文化センターで予定されていた池内さんの教養講座を中止させた疑い。
池内さんは「夫婦・家族問題評論家」。昨年10月、自らのブログで、居酒屋で居合わせた男性客との会話を紹介。この内容の一部がネット上で問題にされていた。
毎日新聞の取材に対し、池内さんは講座を中止した理由を「参加者に何かあったら取り返しがつかない」と説明。「ネット上で議論するのは結構だが、匿名で脅迫するのは許せない。詳しい動機は分からないが、私のブログが発端でこのような事件が起きたことは大変遺憾」と話した。
騒ぎの元となった記事は↓こういうの。
ちなみに現在はBlogそのものが閉鎖に追い込まれた模様。
評論家池内ひろ美ブログ 「職業差別」で炎上
評論家の池内ひろ美さんのブログが「炎上」している。トヨタ自動車の期間工について書いた日記の中で、「彼らは『トヨタ』を漢字で書くことができるのだろうか」などと発言したことが、発端だ。現在では該当する日記は削除されているが、その前日に池内さんが書いた日記のコメント欄に批判のコメントが殺到している。
問題となったのは、池内さんのブログ「池内ひろ美の考察の日々」のなかの「期間工(トヨタ)」と題された06年10月19日の日記。名古屋で池内さんが「会社経営者」「医者」の友人と居酒屋に行き、そこで出会ったトヨタ自動車の期間工(期間従業員)とのやりとりが書かれている。それは次のような内容だ。
「彼らは、なぜ私たちに声をかけたのか。『お姉さんたちって、なんか儲かってそうじゃないですか。僕たちは今、飲みながら、いったい何をやったら儲かるのかって話してたところだったんで』へえ。そうですか。(中略)でもね、同じ居酒屋で隣り合って飲んでるわけだから、あなたたちが自らを卑下するほどには、私たちも豊かではないと思うよ。(彼らは『トヨタ』を漢字で書くことができるのだろうか、と、ふと思いつつ)」
「強く言葉を発したのは経営者の彼女である。『向上心がなくて勉強もせず、平日の早い時間から連日飲んでいる男の子なんて、うちでは絶対に雇わない。スタッフにはお願いして仕事をしてもらってんだから。お願いしたくなる子じゃないと雇わない!』そうだよね。彼らに年間300万円以上も払っているトヨタは偉い」
この日記は06年11月18日以降に削除された模様で、現在では閲覧することはできない。しかし、削除以前には、この日記のコメント欄には「忠告」が書き込まれていた。
「先方の会社名を実名でブログに書いたりすると、容易に個人(期間工のことと思われる)が特定されます。(中略)私は少々怖がりなのかもしれませんが、池内さんだけではなく、池内さんの家族の為にも慎重になったほうがいいのかもしれません」
ネット上の現状からすると、ある意味適切なコメントであったが、池内さんは「削除」を拒否した。
「・・なるほど。そういう時代なんですね。私も怖がりです。でも発言しなければならないことは発言します。この記事の場合は、企業名を伏せると意味が通らなくなりますし、『企業側が雇用すべくはたらきかけても、継続して勤務をすることができない若者』の問題が大きいと感じています。これは日本の将来に関わる大きな問題です。したがって、この記事は削除しません」
と06年10月23日に返答している。
しかし、結果的に池内さんは該当する日記を削除。06年11月18日には「評論家の池内ひろ美さん、期間工はトヨタを漢字で書けるのかと侮辱→記事削除」と題されたスレッドが、ネット上の掲示板2ちゃんねるに立てられ、06年11月20日夕方時点でその数は5に上っている。
殺到したコメントは、批判や罵詈雑言などがほとんどで、06年11月20日夕方時点で1,000を超えた。なかには、コメント欄には「期間工」だという人の批判のコメントもある。
「トヨタはトヨタかTOYOTAです。漢字はありません」
「職業差別って楽しいですか 人を卑下することって楽しいですか 虐めってなんかこう自尊心が蘇ってくるんですよね」
「日頃から色々な職業の人間を馬鹿にしてそうですね」
「あなたには必要ない人間かもしれないですがトヨタには必要な人間だからトヨタは300万以上払っているのでは?そもそも その言い草が失礼なんでは?」
「ネットという公の場であれだけの差別発言をしておいてなんの釈明もなさらないのですか?」
といったもので、期間工に対する池内さんの発言が「職業差別」と捉える見方が大勢だ。
投稿されたコメントの表示は19日夕方の時点で停止している。
脅迫をした東京都日野市三沢1、会社員、小林一美容疑者(45)は論外。
法的に犯罪であることもさることながら、見ず知らずの他人のBlogの記事に腹を立ててるほど暇なのだろうか。
騒動の元となった記事に、本当に職業差別の意図があったのか否かはさしたる問題ではないと思う。僕は「評論家」なる仕事が何をする仕事なのかさっぱり分からないが、少なくとも言論に基くプロの仕事である以上、「差別」の烙印を押される危険性のある記事を安易に公表するのは脇が甘すぎると思う。簡単に付け入る隙を与えるようでどうする。
問題となったBlogの記事を読む限り、その書き方が、本人が提言したかったことを論じるための最善の方法だとは思えない。同じ問題を扱っていながら、読者を唸らせるような他の書き方くらい、いくらでもある。
書き手本人にはその意図がなくても、読者が差別的意図を感じてしまう記事というのはある。要するに書き手の技量が低い。差別意識はかなりデリケートな問題だ。そういう誤解を招くような書き方をしておいて「差別は意図していません」などと釈明するというのは、自分の文章力の低さを認めるようなものではあるまいか。
長野時計店(福岡県久留米市)のCM
凄い。
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『時間の関係』
人生で一時間だけ関係した人。
タクシードライバー、講演会の講師。
1年間だけ関係した人。
インストラクター、病院の先生。
5年間だけ関係した人。
別れてしまった恋人、前の会社の同僚。
10年以上、関係する人は、
あなたにとって、とても大切な人。
時に、ココロを。
宝石 時計 長野
『Happy Birth Time』
年に一度、誕生日が来るように、
一日に一度、誕生時間が来ます。
あなたは何時何分に
この世に生まれましたか?
あれは寒い夜中だった…。
夏の熱い昼下がりだった…。
そのときの母のぬくもりを、
父のまなざしを、
想像してみませんか?
さあ、もうすぐあなたが生まれた時間ですよ。
お誕生時間、おめでとう。
時に、トキメキを。
宝石 時計 長野
『にんげんの時間』
ひとりがすると1時間かかることを、
ふたりでやれば30分で終わる。
ひとりがすると1ヶ月かかることを、
30人でやれば1日で終わる。
人類が何千年かけても
まだできないこと
みんなでやれば
1日で終わるかもしれない。
もう、平和なんて、
1日あればできるはず。
時に、チカラを。
宝石 時計 長野
『時の商人』
その商人は時を売っていた。
「いらっしゃいませ。時はいかがでしょうか?1分から承ります」
ある男は商人から1時間買った。
1時間買った男は、
それを読書の時間に使った。
ある女は1週間買った。
1週間買った女は、
それを海外旅行に使った。
「10年欲しいのだがね」
ある老人は商人に聞いた。
「お客様、10年だと、すこし値がはりますが」
「かまわん」
10年買った老人は、
それを病気の妻に譲った。
時に、ドラマを。
宝石 時計 長野
8 名前:おさかなくわえた名無しさん[] 投稿日:2007/02/25(日)
先日大学の試験があって、ノート持ち込みの論述形式の試験だったんだよ。
で、試験開始の5分前にほとんど授業に顔出してないギャル女が来て、
「えー!マジ持ち込みとか知らないしー!何にも持ってきてないんですけどー!」って騒いでた。
そいつの友達も何にも持ってきてないらしくて、4人くらいでどうしようどうしようと慌てていた。
どうやら近くに座ってる真面目な女の子にノート借りようっていうことになったらしく、
以下ギャルの一人とその女の子の会話。
ギ「すみませーん、私たち持ち込みだっていうの知らなくてー、
使わないノートでいいんで貸してもらえませんかー?」
真「えっ?これですか?…全部使うんでそれはちょっと…」
ギ「お願いします!すぐコピーして返しますから!」
真「もう5分前なんでそれは無理ですよね…本当にごめんなさい」
ギ「お願いします!一生のお願い!いくらなら貸してくれますか?!」
真「いやいくら払われても貸しませんけど…」
ギ「この単位落としたらもうダメなの!お願いします!」
真「いや本当ごめんなさい、あなたの単位とかそれは私の知ったことじゃないんで…」
低姿勢で本当に申し訳なさそうな顔で断ってるのに、言ってることは残酷な女の子GJ。
スッキリした。
単位落としたらダメなんだったら授業に出ろよ
先日大学の試験があって、ノート持ち込みの論述形式の試験だったんだよ。
で、試験開始の5分前にほとんど授業に顔出してないギャル女が来て、
「えー!マジ持ち込みとか知らないしー!何にも持ってきてないんですけどー!」って騒いでた。
そいつの友達も何にも持ってきてないらしくて、4人くらいでどうしようどうしようと慌てていた。
どうやら近くに座ってる真面目な女の子にノート借りようっていうことになったらしく、
以下ギャルの一人とその女の子の会話。
ギ「すみませーん、私たち持ち込みだっていうの知らなくてー、
使わないノートでいいんで貸してもらえませんかー?」
真「えっ?これですか?…全部使うんでそれはちょっと…」
ギ「お願いします!すぐコピーして返しますから!」
真「もう5分前なんでそれは無理ですよね…本当にごめんなさい」
ギ「お願いします!一生のお願い!いくらなら貸してくれますか?!」
真「いやいくら払われても貸しませんけど…」
ギ「この単位落としたらもうダメなの!お願いします!」
真「いや本当ごめんなさい、あなたの単位とかそれは私の知ったことじゃないんで…」
低姿勢で本当に申し訳なさそうな顔で断ってるのに、言ってることは残酷な女の子GJ。
スッキリした。
野郎共は女の子のどんな属性に惹かれるのか。
巷では昨今、趣味が非常に多様化している模様だ。性格がきつめの女性がいい、おっとりした感じがいい、黒髪が好き、メガネ萌え、など様々な属性があるようだ。かく言うたくろふにも女性の好みには一家言ある。
世の中には「一目惚れ」という、時間と手間を省いた効率的な恋愛の入り方があるが、おおむね一般には軽薄な趣味として公言するのを憚られるようだ。僕が友達から実際に見聞きした体験談のなかには、おなじ学校、クラス、職場などの集団に属しているもの同士が人付き合いをしていく中で、徐々にお互いに惹かれていく、というパターンが多いようだ。
面白いのは、そういうじんわりした恋愛関係でも、ゼロがイチになる決定的なきっかけがあることが多いらしい、ということだ。それまで「ただの同僚」だった人が、ほんのちょっとしたきっかけで「恋愛の相手」として意識するようになる。
女性の場合、そのきっかけは圧倒的に「男性側からの告白」であることが多かろう。男女同権だ平等だ何だかんだ言っても、恋愛においてはやはり男性の方から切り込むのがあらまほしき有り様ではあるまいか。個人的には好きなオニャノコに告白もできないような奴は、漢として認めない。
それに比べて、男性側のきっかけというのは、本当にくだらないことが多い。余ってたクッキーをひとつくれた、両手がふさがってるときにエレベーターのボタンを押してくれた、「おはよう」とにっこり笑って挨拶してくれた、など、本当にささいなことで夢中になる。僕の知ってる奴の中には、落ちたボールペンを拾ってくれただけで惚れた、というバカもいる。
「ほほうそうなのか」と、女性諸子が意中の野郎を籠絡しようと策をめぐらしても、だいたいうまくいかないことが多いらしい。男性側が夢中になったきっかけというのを当の女性側に聞いて見ると、全く意識してなかった行動であることが多いようだ。無意識の底からぽろっと出たその人の本質のようなものに、野性的に反応しているのではあるまいか。
恋愛小説というのはその辺の劇的な意識の変換を克明に描いてほしいものだが、そういう作品は思いのほか少ない。巷にあふれている恋愛小説のほとんどは、成就しない恋愛をとりまく人間関係の衝突や葛藤を描くことに力点がおかれている。しかし、それは「恋愛によって引き起こされる騒動」を描いているだけであって、恋愛そのものを描いているのではないと思う。
僕は恋愛を「生物学的にプログラムされた情緒の働きが社会的事象に投射される有り様」と定義している。それにまつわる騒動も、確かに恋愛の織り成す一側面には違いない。しかし、もっと本質的な、情緒の動きそのものを入念に追う作品があってもよいのではないか。登場人物の意識の劇的な変化、人の内面を写す殺し文句を描くほどの筆力が感じられる作品というものは、わりと見当たらない。
いまのところ、僕が最もそうしたことばの力を感じた作品は、『伊勢物語』第六段。俗に「鬼一口」と呼ばれている段だ。
主人公とされる在原業平は無類の女好きとして有名だが、彼はただの女好きでない。タブーも平気で犯す、筋金入りの女好きだ。目を付けたら、天皇の妃だろうと、「神と結婚している」伊勢斎宮だろうと、平気で手を出す。
第六段での餌食は、藤原高子(たかいこ)。藤原長良の娘で、将来は天皇の后となるべき人材だった。事実、後に清和天皇の后となって陽成天皇を生んでいる。どう考えても一介の役人である業平に手の届く女性ではない。
そこで業平はどうしたか。なんと警備の網をかいくぐって高子の誘拐を強行した。当時、高子はまだ年端も行かない幼女。ちなみに当時は幼年での結婚が当たり前で、現在での道徳観点から業平の趣味を論じることはあまり意味がない。ましてや同意するなどもっての他だ。
高子の親兄弟が追手を差し向ける中、業平は幼い高子を背負って夜道を逃げた。噂ではその近辺には鬼が出るらしい。雨が急に降り出したので、荒れた小屋の中に彼女を入れると、業平は戸口で武装して不寝番をした。ところが鬼が現れて、彼女を一口に食べてしまう。彼は泣きながら彼女を想う歌を詠んだ。
ところで逃げている最中、芥川という河にさしかかったとき、背中の高子が「あれはなあに?」と訊いた。見ると、草の葉に光る露だった。深窓の令嬢だった高子は、草の露など見た事がなかったのだろう。
誘拐されて知らない男と夜道を逃げている最中だというのに、きらきら光る露を見て「あれはなあに?」と訊くあたり、おっとりしているというか、なんとものんびりしている。天然の好奇心が、場面の切迫さを感じさせない。ふつうに考えれば男に誘拐されるというのは怖い体験だろう。それなのに「あれはなあに?」ということばには、男に対する無条件の信頼が感じられる。
実は鬼というのは比喩表現で、実際には高子の兄たち、基経、国経の二人が妹を奪い返したという落ちが最後につけられている。たぶん作者が「自分の露のように消えてしまいたい」という話に深みを持たせるために、高子を死んだことにしたかったのだろう。おそらくオリジナルにはなかった、後世に付け足された部分だと思う。
史実として、藤原高子が業平と何らかの関係があったことは確からしい。『伊勢物語』の中には他にも高子が登場する段がいくつかある。第七十六段「小塩の山」では、老境に至った業平と、すでに皇后となった高子が、身分の差もあらわに登場している。
しかし物語として、第六段の信憑性は限りなく低いと思う。当時の藤原氏といえば権力の権化といっていい。そんな藤原氏がコケにされるような話が宮中でまかり通るとは思えない。きっと、第六段は、宮中の噂好きや後世の物語作者が「きっと業平だったらこのくらいやりかねない」「業平だったらこんな歌を詠むだろう」とつくりだした話、というのが実情に近いのではあるまいか。
史実か作り話かはどうでもいい。もし作り話だとしたら、背負われ夜道を逃げる高子に「あれはなあに?」と言わせた筆者の筆力は大したものだ。作品中、高子のことばはこれだけだ。しかし「あれはなあに?」という高子のことばは、彼女の内面を写し、男性に対する姿勢を的確に表している。一種の殺し文句ではあるまいか。構成として、第六段の話はこの一言が中心になっている。
高子が鬼に食べられたあと、業平は「あれは真珠なのと聞かれた時、あれは露ですと答えて、自分も露のように死んでしまえばよかったのに」と詠んだ。「露」というのは和歌で「いのち」を表す縁語だ。
伊勢物語第六段は、ほんの十数行しかない短い段だ。その中に、ただひとことのことばが秘める力が描かれている。小説や物語は長ければいいというものではない。ことばのもつ力を端的に示してくれる、練られた作品を久しく読んでない。
言語学をやってもそういう殺し文句は身に付きません。念のため。
巷では昨今、趣味が非常に多様化している模様だ。性格がきつめの女性がいい、おっとりした感じがいい、黒髪が好き、メガネ萌え、など様々な属性があるようだ。かく言うたくろふにも女性の好みには一家言ある。
世の中には「一目惚れ」という、時間と手間を省いた効率的な恋愛の入り方があるが、おおむね一般には軽薄な趣味として公言するのを憚られるようだ。僕が友達から実際に見聞きした体験談のなかには、おなじ学校、クラス、職場などの集団に属しているもの同士が人付き合いをしていく中で、徐々にお互いに惹かれていく、というパターンが多いようだ。
面白いのは、そういうじんわりした恋愛関係でも、ゼロがイチになる決定的なきっかけがあることが多いらしい、ということだ。それまで「ただの同僚」だった人が、ほんのちょっとしたきっかけで「恋愛の相手」として意識するようになる。
女性の場合、そのきっかけは圧倒的に「男性側からの告白」であることが多かろう。男女同権だ平等だ何だかんだ言っても、恋愛においてはやはり男性の方から切り込むのがあらまほしき有り様ではあるまいか。個人的には好きなオニャノコに告白もできないような奴は、漢として認めない。
それに比べて、男性側のきっかけというのは、本当にくだらないことが多い。余ってたクッキーをひとつくれた、両手がふさがってるときにエレベーターのボタンを押してくれた、「おはよう」とにっこり笑って挨拶してくれた、など、本当にささいなことで夢中になる。僕の知ってる奴の中には、落ちたボールペンを拾ってくれただけで惚れた、というバカもいる。
「ほほうそうなのか」と、女性諸子が意中の野郎を籠絡しようと策をめぐらしても、だいたいうまくいかないことが多いらしい。男性側が夢中になったきっかけというのを当の女性側に聞いて見ると、全く意識してなかった行動であることが多いようだ。無意識の底からぽろっと出たその人の本質のようなものに、野性的に反応しているのではあるまいか。
恋愛小説というのはその辺の劇的な意識の変換を克明に描いてほしいものだが、そういう作品は思いのほか少ない。巷にあふれている恋愛小説のほとんどは、成就しない恋愛をとりまく人間関係の衝突や葛藤を描くことに力点がおかれている。しかし、それは「恋愛によって引き起こされる騒動」を描いているだけであって、恋愛そのものを描いているのではないと思う。
僕は恋愛を「生物学的にプログラムされた情緒の働きが社会的事象に投射される有り様」と定義している。それにまつわる騒動も、確かに恋愛の織り成す一側面には違いない。しかし、もっと本質的な、情緒の動きそのものを入念に追う作品があってもよいのではないか。登場人物の意識の劇的な変化、人の内面を写す殺し文句を描くほどの筆力が感じられる作品というものは、わりと見当たらない。
いまのところ、僕が最もそうしたことばの力を感じた作品は、『伊勢物語』第六段。俗に「鬼一口」と呼ばれている段だ。
むかし、おとこありけり。女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来けり。芥川といふ河を率ていきければ、草の上にをきたりける露を、「かれは何ぞ」となんおとこに問ひける。ゆくさき多く夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥にをし入れて、おとこ、弓胡?(ゆみやなぐひ)を負ひて戸口に居り、はや夜も明けなんと思つゝゐたりけるに、鬼はや一口に食ひてけり。「あなや」といひけれど、神鳴るさはぎにえ聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見れば、率て来し女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。
白玉かなにぞと人の問ひし時露とこたへて消えなましものを
これは、二条の后のいとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐたまへりけるを、かたちのいとめでたくおはしければ、盗みて負ひて出でたりけるを、御兄人堀河の大臣、太郎国経の大納言、まだ下らうにて内へまいりたまふに、いみじう泣く人あるを聞きつけて、とゞめてとりかへしたまうてけり。それを、かく鬼とはいふなりけり。まだいと若うて、后のたゞにおはしける時とや。
主人公とされる在原業平は無類の女好きとして有名だが、彼はただの女好きでない。タブーも平気で犯す、筋金入りの女好きだ。目を付けたら、天皇の妃だろうと、「神と結婚している」伊勢斎宮だろうと、平気で手を出す。
第六段での餌食は、藤原高子(たかいこ)。藤原長良の娘で、将来は天皇の后となるべき人材だった。事実、後に清和天皇の后となって陽成天皇を生んでいる。どう考えても一介の役人である業平に手の届く女性ではない。
そこで業平はどうしたか。なんと警備の網をかいくぐって高子の誘拐を強行した。当時、高子はまだ年端も行かない幼女。ちなみに当時は幼年での結婚が当たり前で、現在での道徳観点から業平の趣味を論じることはあまり意味がない。ましてや同意するなどもっての他だ。
高子の親兄弟が追手を差し向ける中、業平は幼い高子を背負って夜道を逃げた。噂ではその近辺には鬼が出るらしい。雨が急に降り出したので、荒れた小屋の中に彼女を入れると、業平は戸口で武装して不寝番をした。ところが鬼が現れて、彼女を一口に食べてしまう。彼は泣きながら彼女を想う歌を詠んだ。
ところで逃げている最中、芥川という河にさしかかったとき、背中の高子が「あれはなあに?」と訊いた。見ると、草の葉に光る露だった。深窓の令嬢だった高子は、草の露など見た事がなかったのだろう。
誘拐されて知らない男と夜道を逃げている最中だというのに、きらきら光る露を見て「あれはなあに?」と訊くあたり、おっとりしているというか、なんとものんびりしている。天然の好奇心が、場面の切迫さを感じさせない。ふつうに考えれば男に誘拐されるというのは怖い体験だろう。それなのに「あれはなあに?」ということばには、男に対する無条件の信頼が感じられる。
実は鬼というのは比喩表現で、実際には高子の兄たち、基経、国経の二人が妹を奪い返したという落ちが最後につけられている。たぶん作者が「自分の露のように消えてしまいたい」という話に深みを持たせるために、高子を死んだことにしたかったのだろう。おそらくオリジナルにはなかった、後世に付け足された部分だと思う。
史実として、藤原高子が業平と何らかの関係があったことは確からしい。『伊勢物語』の中には他にも高子が登場する段がいくつかある。第七十六段「小塩の山」では、老境に至った業平と、すでに皇后となった高子が、身分の差もあらわに登場している。
しかし物語として、第六段の信憑性は限りなく低いと思う。当時の藤原氏といえば権力の権化といっていい。そんな藤原氏がコケにされるような話が宮中でまかり通るとは思えない。きっと、第六段は、宮中の噂好きや後世の物語作者が「きっと業平だったらこのくらいやりかねない」「業平だったらこんな歌を詠むだろう」とつくりだした話、というのが実情に近いのではあるまいか。
史実か作り話かはどうでもいい。もし作り話だとしたら、背負われ夜道を逃げる高子に「あれはなあに?」と言わせた筆者の筆力は大したものだ。作品中、高子のことばはこれだけだ。しかし「あれはなあに?」という高子のことばは、彼女の内面を写し、男性に対する姿勢を的確に表している。一種の殺し文句ではあるまいか。構成として、第六段の話はこの一言が中心になっている。
高子が鬼に食べられたあと、業平は「あれは真珠なのと聞かれた時、あれは露ですと答えて、自分も露のように死んでしまえばよかったのに」と詠んだ。「露」というのは和歌で「いのち」を表す縁語だ。
伊勢物語第六段は、ほんの十数行しかない短い段だ。その中に、ただひとことのことばが秘める力が描かれている。小説や物語は長ければいいというものではない。ことばのもつ力を端的に示してくれる、練られた作品を久しく読んでない。