たくろふのつぶやき

お出かけの時には保冷剤を持つのだ

2006年12月

そんな年末の過ごし方

ボストンで年越しのたくろふです。笑い


彼女と一緒に食べ歩きの様相を呈しております。
クインシーマーケットで好きなものを食べながら練り歩き
チャイナタウンで飲茶を楽しみ
ボストン名物のシーフードに舌鼓。クラムチャウダー(゚Д゚ )ウマー

ボストンコモンでスケートを楽しみました。
ふつうレンタルではフィギアスケートの靴を貸してくれることが多いのですが、なぜか今日はアイスホッケーの靴でした。エッジ短ぇ。
ケーブルを忘れてデジカメの画像をMacに取り入れることができず、写真をUPできないのです。すみませぬ。年明けに家に戻ったら写真をUPしましょうかね。

夜はダウンタウンでジナーです。
セメスター中は飲まないことにしている、お酒をいただきました。ジョッキ
彼女もカクテルを注文しておりました。グラス
ちなみに彼女は一滴もお酒が飲めません。ダメ


で、いま、部屋でグーグー寝ている彼女ZZZを横目に更新しております。
だからいわんこっちゃない。


たくつぶ読者の皆様も、いいお年をお迎え下さい。
来年もわくわくするような一年になるといいですね。



夜はホテルの部屋で彼女と桃鉄してます

ツールとしての情報媒体

ネットの使い方、それでいいの?
(「まいにち」さま)


なにげなくネットで見かけたバナー広告の言葉です。

「動物園や本屋に行かなくてもゾウが見れるんです」

ネットでサーチすれば手軽に色んな画像が見れるんだよといった主旨の広告だったのですが なにやら私はこの言葉がとてもイヤでした。

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ネットで配信される生き物の生態を幾百見たとて
それはあくまでも誰かが配信した決まった情報でしかありません。
そうではなく自分の五感をフルに使って
自分でモノを考えることこそを大切にしたいのです。

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ネットはあくまでもツールだと私は考えます。
それが全てであってはならないと思います。

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ありとあらゆる多角的な面から物事を感じ
それを具体的な情報としてネットで知りそれらを繋げ蓄積していくこと。
体感した事柄とネットで得た知識を繋ぐシナプスが必要なのではないかと。
どちらがメインになっても足りないのです。
それらを総合して自分の中で繋げて情報として蓄積していかねば
単なるぶつ切りのインプットだけでは情報が離散するだけです。
考えて繋げて自分なりの言葉でアウトプットできるようになってはじめて
それら全ての情報はひとつにまとまり知識となり糧になるのではないでしょうか。



いまの小学校は「生活科」なる科目があるそうですが、あの教科で何が達成できるのでしょうね。

「情報化社会」という謎の言葉があります。それに乗り遅れることの恐怖を煽る手合もいるようです。しかし、大事なのは「情報化社会」なるものに対応しようと必死こいてパソコンや携帯をいじることではなく、一体「情報化社会」と云われているものとは何のことなのか、それは自分にとって必要なものなのか、必要な場合はどうやって使いこなせばいいのか、を自分なりに自分の中で位置づけることだと思います。

知識というのはお金と同じようなものだと思います。蓄えればいいってもんじゃありません。その使い方にこそ、その人の本質が表れると思います。



確かに便利なものですが、「便利」とは道具に使う言葉です。

「ぬ」

984 ツール・ド・名無しさん 2006/11/14(火) 23:37:50
まず、左上から右下に向かって真っすぐに降下。
そのまま消えていったとみせかけて、突如右上に出現。
その後、同じように左下に降下していくのかと思わせておいて、
ギリギリで急上昇のアクロバット。
そして反り返るように右上に舞い戻り、更に反り返って急降下。
極めつけは、「この勢いならこのまま右下に消えるだろう…」という、
大方の予想を裏切り最後にまさかの一回転!
「おれのパクリじゃん」って高をくくって見ていた『め』も
最後の最後で度肝を抜かれたと思う。

ダイナミックだよね、『ぬ』。


985 ツール・ド・名無しさん 2006/11/14(火) 23:55:38
ゐの敵じゃないな。


986 ツール・ド・名無しさん 2006/11/15(水) 00:09:55
ゑには敵うまい



世界中のほとんどの人にとっては不可解なデザインなんだろうなぁ

目が合う

415 恋する名無しさん 2006/11/09(木) 03:35:56
やたらと目が合う女の子がいて、思いきって聞いてみた。
俺「よく目合うよね」
女の子「うん、見てるからね」
当たり前の様にサラッと言われてしまったので、
ドキッとした。



剛の者め

議論の対象

『正しい日本語』が存在しない理由
(「モノーキー」さま)


まずは文書を一読してほしい。
筆者のいいたいことが理解できただろうか。
はたして、この文章が主張していることは、議論の価値があるだろうか。


僕自身が言語学をやっているものだから、自分が勉強をしているときにいつも当然の前提としていることが、世間では通じていないことがたまにある。巷の「ことば論」を読むと、その前提がずれているために話が通じにくいことがある。

科学哲学の概念に、incommensurability(共役不可能性)というものがある。平たく言うと、「お互い前提が違うときには話が通じない」ということだ。異なる理論体系の間に、前提としている共通の理論的基盤がないときには、体系同士の比較が不可能であることを指す。

僕は、上掲の文章に対して反論はできない。
もっと言うと、議論可能な類いの主張ではないと思う。
前提としていることが違い過ぎるからだ。


介在している共役不可能性は、ふたつあると思う。


ひとつめは、言語というもののあり方について、一般の認識と理論言語学の前提との間にずれがある、ということだ。一般には、言語とは「人の集まり、社会の間に介在する文化的存在物」と想定されているのではないか。

そう考えていけない理由はない。しかし、現在の理論言語学の多くはこの立場を採ってはいない。現在の理論言語学、特に生成文法をはじめとする、経験科学の方法論に立脚する言語学は、言語を「人間の生得能力」と仮定し、その能力の解明を目指している。

音楽に例えると、「音楽を勉強している」といっても、「幾多の作曲家によって作られた既存の諸作品の位置づけを明らかにする立場」ではなく、「人間が脳内で音楽をつくりだすプロセスについて脳科学的なアプローチを採る立場」のようなものだ。

言語を「既存の文化的存在物」として捉えるか、「人間の生得能力」として捉えるか、その対場に正誤の違いはない。どちらが正しい、間違っている、ではなく、どちらの立場のほうがより客観的な評価に耐え得るか、どちらのほうがより体系的な学問として確立できるか、どちらのほうがより面白い帰結が得られるか、という違いでしかない。


ふたつめは、議論が成立する要件を満たしているか否かについての違い。ある主張が議論の対象となり得るには、その主張が、特定の根拠に基く反論が可能なものでなければならない。

たとえば「カラスはすべて黒い」と主張するとしよう。これを主張するには、まずカラスとは何であるか、何をもって「黒い」と言えるのか、を厳密に定義しなければならない。

その定義さえきっちりしていれば、「カラスはすべて黒い」という主張は議論の対象にできる。具体的に反証可能な証拠が想定できるからだ。もし一羽でも白いカラスが発見されたら、この主張は退けられる。

そこで上掲の文章に戻る。この文章には、主張の具体的な根拠となる客観的な事実が何も提示されていない。ことばのひとつひとつが何の説明もなく、筆者の思い込みだけで使われている。要するに、筆者の脳内で展開するマイワールドを広げているに過ぎない。「それは、あなたがそう思っているだけでしょ?」の一言で終わる。

主張をしたり論述をしたりするときに大切なのは、結論の妥当性だけではない。そもそも出発点の根拠が脆弱であれば、結論もへちまもありはしない。議論の出発点となる事実をしっかり収集し、それを根拠として一般化から仮説を提案し、それを反証可能なかたちで明示する、という、どのプロセスにも弛みがあってはいけない。

●言語というのはコミュニケーションの共有池で最初は誰かと誰かが繋がるために手探りで生まれたものなんじゃないかなあと。

●戦争で勝ったりとか、その言葉が便利だという理由で隣接するコミュニティを占領したり伝播(輸入)していったわけだ。

●たとえば、日本語が生き物だっていわれるけど

●専門用語の発生条件は既に共通言語の下地があるのでメタ(メタって言葉は嫌いだけどしかたないので)ではあるが、言語の発生条件と同じってこと。

●別に仲間じゃなくて、二人とか同じ学校の出身者だけにしか通じない言葉や言葉の意味だってあるわけじゃないですか。

●小説とかでよく出てくる『約束(二人だけの特別な言葉』とか 学者や職人が使う『専門用語(集団にとって特別な言葉)』とかそれの最小公倍数みたいなんが、よーするに母国語ってわけだ。

●そして、その改変が受け入れられると意味が更新され、新しい言葉に生まれ変わって広まる。

●その集団の共通認識を判りやすくしたのが、いわば文法ってヤツといえる。

●共通認識は常に変化するけれど、変化の遅いものがある。単語の意味は変化が速いけれど。言葉と言葉のつながりというのはわりと変化が遅い。



何の具体的な証拠もない。


筆者が「たぶんそれぞれの証拠があるんじゃないかな」という思い込みだけで書いている。しかし、実際に証拠を出せないと説得力はゼロだ。ひとつの主張をするときに最も細心の注意を払わなければならないのは、議論の出発点となる事実の収集だ。その段階をすっ飛ばした主張は、主張ではない。ただの思い込みだ。

事実から出発していないので、事実で反論できない。この筆者は、「どういう事実が提示されたら、自分の主張は覆るのか」という「反証」を、想定できるのだろうか。


 よく、言語学者が
『正しい日本語なんて存在しない。人々が使っていくうちに変化していくのが言葉だからー』
みたいな事を言ったりするけれど



一体どこの言語学者がそんな事を言っているのか。


それらの、客観的な議論に必要な要件をことごとく満たしていないので、この文章は他人の客観的な評価に耐え得る主張になっていない。「事実の解明」を目指しているのではなく、筆者個人の理解のしかた、消化のしかたを綴っている随筆に過ぎない。思想を語っているようなものだ。個人が何をどのように消化しようとそれは個人の自由なので、議論の対象になるものではない。


気をつけなければならないのは、科学的・客観的な議論が不可能だからといって、この文章の存在価値を貶めていい、ということにはならないことだ。世の中は純粋に科学的思考に適合する議論しか発表してはならない、ということでは断じてない。

この筆者が、科学的な姿勢で事実を追求し議論の対象となり得るつもりでこの文章を書いたのなら、それは問題だ。しかし、「僕としてはこう理解しているよ」と、のびのびと個人の内的世界を描くことだけを意図しているのなら、それは何の問題もない。小説や随筆と同じだ。「正しい」も「間違い」も無い。そういう目で読む限りにおいて、この文章は存在意義がある。


はっきり言って僕は筆者が何を言わんとしてるのか分からなかった。だから内容については何も言うことはできないが、自分とは違った背景、違った目的で書かれた文章を読むときのスイッチの切り替えについて、ちょっと考えることがあったので掲載してみた。



「叩かれる主張」というのはそれ以前に「叩ける主張」でもある
ペンギン命
ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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