2006年10月
「1か月読書せず」49%、若者の本離れ進む
(読売新聞)
ちゃんとした読書の動機づけが進んでるようですね。面白けりゃいいんです。
もし読書が、忍耐と努力の必要なつまらないものだったら、長続きしません。
学校教育において読書の週間をつけさせるためにしている「家庭で読書の習慣を身につけさせる」って、要するに宿題でしょう。「読んでこい」って言って終わりですか。そんなんじゃ子供が読書を好きになるわけがないと思います。国語の時間を削っておきながら子供をより本に親しませようってのは、無茶な話だと思います。
そんなことよりも気になるのは読売新聞の表題の付け方。「若者の本離れ進む」というには4, 5年くらい一定して読書人口が下がり続けなければならないと思う。実際は、去年よりは多少下がったものの、ここ10年くらいの変動の波の範囲内だ。これをもって「本離れ進む」というのは、意図のある煽りではないか。
僕は小さいころから読書は好きだったなぁ
(読売新聞)
読売新聞社の「読書」に関する全国世論調査(14、15日実施、面接方式)で、この1か月間に1冊も本を読まなかった人は49%だった。
前年調査より3ポイント減ったものの、過去10年、50%前後を推移している。年代別では、20歳代で「読まなかった」が前年より7ポイント増の48%となり、この質問を開始した1980年以降では最多だった。若者の「本離れ」が浮き彫りとなった。一方、50歳代、60歳代で「読まなかった」は、それぞれ49%(前年比6ポイント減)、51%(同10ポイント減)に減少し、「本回帰」となった。
本離れの歯止め策について聞いたところ、「家庭で読書の習慣を身につけさせる」51%、「学校で読書教育に力を入れる」47%――などが高かった。
また、本を読む理由は、「面白いから」38%が最も多かった。類似の質問をした過去2回の調査では、最多は「知識や教養を深める」だったが、初めて「面白い」がトップとなった。
ちゃんとした読書の動機づけが進んでるようですね。面白けりゃいいんです。
もし読書が、忍耐と努力の必要なつまらないものだったら、長続きしません。
学校教育において読書の週間をつけさせるためにしている「家庭で読書の習慣を身につけさせる」って、要するに宿題でしょう。「読んでこい」って言って終わりですか。そんなんじゃ子供が読書を好きになるわけがないと思います。国語の時間を削っておきながら子供をより本に親しませようってのは、無茶な話だと思います。
そんなことよりも気になるのは読売新聞の表題の付け方。「若者の本離れ進む」というには4, 5年くらい一定して読書人口が下がり続けなければならないと思う。実際は、去年よりは多少下がったものの、ここ10年くらいの変動の波の範囲内だ。これをもって「本離れ進む」というのは、意図のある煽りではないか。
学力低下 「ゆとり教育」を責める前に
(2006年10月29日 毎日新聞社説)
全文を晒した。
上記社説の中で、毎日新聞が陥っている勝手な思い込みがある。
それは何か。
ある論旨を反論するときには、別に主張を全否定する必要はない。むしろそういう挑戦的な姿勢は己の論旨の破綻を招く。どんなムチャな論説でも、最初から最後まで首尾一貫してすべておかしい論説というのは珍しい。必ずいい点を突いている部分が少しはある。
だから、反論をするためには、ポイントを絞って矛盾や思い込みを突けばいい。問題点や矛盾点が本質的な場合もあるし、論説の意図からすれば瑣末な場合もある。それを見分けられるようになるのは経験だろう。
毎日新聞の思い込みが見える段落は、主に下の段落。
なぜ、ゆとり教育を棄却したら、とるべき選択肢が「30年以上前の教育に戻す」しか残っていないのだろうか。
毎日新聞は、現在の「ゆとり教育からの脱却」を、即、「30年前の教育に戻すこと」に直結させている。ゆとり教育か、30年前の方法か、の二者択一だ。
僕は30年前の教育がどういうものだったのか知らないが、それがやたらと詰め込み教育だったとしたら、たしかに弊害が多かろう。現在のゆとり教育よりも悪いかもしれない。授業数も今に比べれば多かっただろうし、そのすべての教科でやたらに暗記を強いられれば、それは落ちこぼれも多くなるに違いない。
しかし、毎日新聞は第3の選択肢、「暗記重視から脱却しつつ豊富な授業時間を確保し、いままでにない新たな教育のあり方をつくっていく」という選択肢を全く考慮していない。そして、これが正解だと思う。おそらく、毎日新聞は知識の暗記以外に教育が成さなければならないことを考えられないのだろう。
暗記ばかりでなく、反復訓練をくり返すことによる長期にわたる基礎学力の徹底、ふんだんに時間をかけた国語力の訓練、思考力や発想力を伸ばす新たな方法論、プレゼンの能力や時代に対応した知識に対応する授業など、必要なことはたくさんある。それらを徹底しようと思ったら、授業の絶対時間数はどうしても増やさざるを得ない。現行のゆとり教育枠での時間配分では不可能だ。
いま教育を考えるときにするべきことは、過去に失敗した方法論の比較などではない。いまの現状を打開し妥当な教育を提供できる、いままで行われていなかった指導要領を考えることだ。その部分に関する新たな提言がない限り、意見としては屑だ。
要するに、毎日新聞の主張は「30年前の暗記教育と、ゆとり教育を比べたら、まだゆとり教育のほうがマシじゃないか」と言っているに過ぎない。そのどちらでもない、新たな教育のあり方など、全く考えていない。
毎日新聞の社説は、単に過去の教育と現在の教育との比較論に過ぎない。「いまの教育に何が必要なのか」「これからの教育はどうあるべきなのか」という提言では全くない。社会科の必修科目に対する各学校の対応など、ゆとり教育のさまざまな問題が指摘されているいま、なぜこんな社説を書いたのか意図が分からない。
ゆとり擁護っぽかったからどんな論旨なのか期待して読んだのに
(2006年10月29日 毎日新聞社説)
「教育再生」をうたう安倍晋三・新政権発足に合わせたように、学校教育現場の問題や矛盾が相次いで露呈している。中でも必修規定を無視して大学受験を最優先させる高校の実情は、改めて学力をめぐる論議を刺激するに違いない。
ここでまた「ゆとり教育」がやり玉に挙がろうとしている。問題の高校の校長らは「授業時間が減ったので、入試に関係のない科目をする余裕はない」と弊害を言う。著書「美しい国へ」で「ゆとり教育の弊害で落ちてしまった学力は、授業時間の増加でとりもどさなければならない」と記す首相はいっそう意を強くするだろう。
だが、ゆとり教育排除を急ぐ前に、その精緻(せいち)な分析検証をすべきではないか。そもそも学力をどう見極めるのか。それも十分に論議されてきたとはいい難い。
ゆとり教育の始まりは約30年前。経済成長や技術立国政策を背景に学習内容が膨れ、授業についていけない子が増える一方、知識詰め込みの弊害が指摘された。勉強嫌いを生み、また暗記中心で、自分で考えて判断し対処する力が育っていないという反省である。
1977年の学習指導要領改訂で「ゆとりの時間」が登場し、今日まで曲折を経ながら教科学習量をスリムにする路線が続く。現在週5日制で、教科学習ではない「総合的な学習の時間」が小・中・高校の授業に組み込まれている。
確かに各種の部分的調査は学力低下傾向を示している。だが、客観的で明快に割り切れる物差しはなかなかない。学力の定義もまちまちなうえ、判断の土台になるデータも少ないという事情もある。
例えば、03年国際比較調査で15歳の読解力が前回の8位から14位に落ちた。これをどの程度深刻に受け止めるべきか。04年の学力調査では、新学習指導要領で学ぶ子がむしろ前の世代より高い成績を出した。どう解釈すればいいか。
確かに、ゆとりが目覚ましい成果を上げたという実感はないし、若者の学習意欲や教養面で退行を感じる人は多いだろう。読み書き計算という最も基礎的な力が危うく、分数もできない大学生が珍しくないという指摘も深刻だ。
ただこれが本当にゆとり教育のせいか。学校の授業を30年以上前に戻せば解消されるだろうか。
実態を見すえよう。学力が落ちているとしても、授業を削減したことだけが原因とは思えない。価値観や少子化など社会環境、産業構造の変動といった多面的要素を踏まえ分析しないと、見えてこないものがあるのではないか。
一律のペーパーテストに頼る調査は学力の一部しか見ない。ゆとり教育が目指した「自分で考え、解決する力」という学力はどこまでできたのか、できなかったのかも検証してほしい。それには、現場の先生たちの体験・意見集約や子供たちの追跡調査のような手間をかけた方法が必要だ。
その必要な難儀を避け、手間を省くなら、初めから「無用」と必修科目の教科書さえ買わなかった高校と発想レベルは変わらない。
全文を晒した。
上記社説の中で、毎日新聞が陥っている勝手な思い込みがある。
それは何か。
ある論旨を反論するときには、別に主張を全否定する必要はない。むしろそういう挑戦的な姿勢は己の論旨の破綻を招く。どんなムチャな論説でも、最初から最後まで首尾一貫してすべておかしい論説というのは珍しい。必ずいい点を突いている部分が少しはある。
だから、反論をするためには、ポイントを絞って矛盾や思い込みを突けばいい。問題点や矛盾点が本質的な場合もあるし、論説の意図からすれば瑣末な場合もある。それを見分けられるようになるのは経験だろう。
毎日新聞の思い込みが見える段落は、主に下の段落。
ゆとり教育の始まりは約30年前。経済成長や技術立国政策を背景に学習内容が膨れ、授業についていけない子が増える一方、知識詰め込みの弊害が指摘された。勉強嫌いを生み、また暗記中心で、自分で考えて判断し対処する力が育っていないという反省である。
確かに、ゆとりが目覚ましい成果を上げたという実感はないし、若者の学習意欲や教養面で退行を感じる人は多いだろう。読み書き計算という最も基礎的な力が危うく、分数もできない大学生が珍しくないという指摘も深刻だ。
ただこれが本当にゆとり教育のせいか。学校の授業を30年以上前に戻せば解消されるだろうか。
なぜ、ゆとり教育を棄却したら、とるべき選択肢が「30年以上前の教育に戻す」しか残っていないのだろうか。
毎日新聞は、現在の「ゆとり教育からの脱却」を、即、「30年前の教育に戻すこと」に直結させている。ゆとり教育か、30年前の方法か、の二者択一だ。
僕は30年前の教育がどういうものだったのか知らないが、それがやたらと詰め込み教育だったとしたら、たしかに弊害が多かろう。現在のゆとり教育よりも悪いかもしれない。授業数も今に比べれば多かっただろうし、そのすべての教科でやたらに暗記を強いられれば、それは落ちこぼれも多くなるに違いない。
しかし、毎日新聞は第3の選択肢、「暗記重視から脱却しつつ豊富な授業時間を確保し、いままでにない新たな教育のあり方をつくっていく」という選択肢を全く考慮していない。そして、これが正解だと思う。おそらく、毎日新聞は知識の暗記以外に教育が成さなければならないことを考えられないのだろう。
暗記ばかりでなく、反復訓練をくり返すことによる長期にわたる基礎学力の徹底、ふんだんに時間をかけた国語力の訓練、思考力や発想力を伸ばす新たな方法論、プレゼンの能力や時代に対応した知識に対応する授業など、必要なことはたくさんある。それらを徹底しようと思ったら、授業の絶対時間数はどうしても増やさざるを得ない。現行のゆとり教育枠での時間配分では不可能だ。
いま教育を考えるときにするべきことは、過去に失敗した方法論の比較などではない。いまの現状を打開し妥当な教育を提供できる、いままで行われていなかった指導要領を考えることだ。その部分に関する新たな提言がない限り、意見としては屑だ。
要するに、毎日新聞の主張は「30年前の暗記教育と、ゆとり教育を比べたら、まだゆとり教育のほうがマシじゃないか」と言っているに過ぎない。そのどちらでもない、新たな教育のあり方など、全く考えていない。
毎日新聞の社説は、単に過去の教育と現在の教育との比較論に過ぎない。「いまの教育に何が必要なのか」「これからの教育はどうあるべきなのか」という提言では全くない。社会科の必修科目に対する各学校の対応など、ゆとり教育のさまざまな問題が指摘されているいま、なぜこんな社説を書いたのか意図が分からない。
日本ハム日本一 パ・リーグV4の意味大
(2006年10月28日 産経新聞社説)
日ハム優勝 北からの新しい風
(2006年10月28日 朝日新聞社説)
北海道日本ハム プロ野球も「地方の時代」に
(2006年10月28日 毎日新聞社説)
なぜか読売新聞だけ社説を載せてませんが。
凄いですよね。あの日ハムが優勝まで這い上がったんですから。
「地元密着」は21世紀ビジネスの最重要キーワードですね。
既存の人気や既得権にあぐらをかいてる殿様商売のままでは、人気、実力ともに落ちる一方なのでしょう。
集中砲火。
読売新聞はぜひともこれらの論旨を受けて立つような社説を載せてもらいたい。
きっとあれかな、今年の巨人は「たかが選手」を買い集めるのに失敗したのかな。
テレビで放映してなかったら球場に見に行けばいいのだ
(2006年10月28日 産経新聞社説)
日ハム優勝 北からの新しい風
(2006年10月28日 朝日新聞社説)
北海道日本ハム プロ野球も「地方の時代」に
(2006年10月28日 毎日新聞社説)
なぜか読売新聞だけ社説を載せてませんが。
パ・リーグはこれで日本シリーズ4連覇となる。うち3つが福岡ソフトバンク、千葉ロッテ、北海道日本ハムと地域名を冠に頂く球団だ。それぞれ大阪、川崎、東京での球団経営に行き詰まり新天地に活路を求め、球場に足を運んでもらうために各種特典を設け、地域の祭りに参加し、地を這うような努力で浸透していった。
地域への浸透をはかるソフトバンクやロッテは一方で、球団改革にも着手していた。そのひとつがFAなどに左右されない自前の選手養成である。後発の日本ハムは先行球団を手本に、V9巨人の名外野手で元日本ハム監督、高田繁氏をゼネラルマネジャー(GM)に登用し、新戦力発掘、育成のための情報一元化システムを確立して日本一につなげた。
(毎日社説)
ヒルマン監督の存在も大きい。まだ43歳だが、プロの監督歴は16年になる。米マイナーリーグでの12年間は、専門誌から有望な指導者として度々表彰された。移転を前に、チーム再生の目玉としてくどいたのが日本ハムだった。
マイナーリーグはスタッフが少ないから、打撃投手からファンサービスまであらゆることを監督がこなす。その中で実績を残した指導者が大リーグの監督へと階段を上っていく。指導者を育てる仕組みを持たず、現役時代の知名度を優先させがちな日本との大きな違いだ。
外国人監督を支えたフロントの整備も見逃せない。親会社の出向組が幅を利かせがちな球界で、現場のユニホーム組と背広組の責任を明確にして分担を進めた成果でもある。
(朝日社説)
日本ハムは04年から北海道に本拠地を移し、球団名に「北海道」をつけて地域に密着した球団作りに着手した。入場時間に応じた割引チケットの販売、選手たちの学校訪問や野球教室など、東京ではできなかったさまざまなアイデアを実行に移していった。地道なファンの掘り起こしは「新天地」だからこそできたことでもあったのだろう。
(毎日社説)
凄いですよね。あの日ハムが優勝まで這い上がったんですから。
「地元密着」は21世紀ビジネスの最重要キーワードですね。
既存の人気や既得権にあぐらをかいてる殿様商売のままでは、人気、実力ともに落ちる一方なのでしょう。
プロ野球人気の陰りを指摘する人がいる。巨人中心の視点に立てば、確かに今季の平均視聴率は9・6%、1けたに落ち込む危機的状況だ。来季の放映権料交渉に影響は必至といえる。
しかし、目を地方に転じてみると、札幌、千葉、福岡、そして東北楽天の仙台と球場には「地元意識」に支えられた熱気がいっぱいだ。日本ハム日本一によるパ・リーグV4は、野球人気の広がりを表すとともに、プロ野球再生に何が必要かを示している。
(産経社説)
振り返れば、昨年の日本一も千葉へ移り、バレンタイン監督が率いたロッテだった。巨人中心の一極集中から、多様で地域に根ざしたプロ球界へ。近代化と変化を求める風が、ようやく球界の内側からも吹き始めたように見える。
(朝日新聞)
プロ野球はいま、巨人中心の「中央集権」から「地方の時代」に移りつつある。プロ野球だけではない。高校野球では駒大苫小牧が一昨年、昨年と全国制覇し、今年の都市対抗野球は秋田県にかほ市(TDK)が初優勝した。
プロ野球の球団がオーナーの所有物だった時代はとっくに終わった。「ファンあってのプロ野球」に向け、12球団はさらなる改革を競い合ってもらいたいものだ。
集中砲火。
読売新聞はぜひともこれらの論旨を受けて立つような社説を載せてもらいたい。
きっとあれかな、今年の巨人は「たかが選手」を買い集めるのに失敗したのかな。
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