たくろふのつぶやき

春は揚げ物。

2006年09月

可能世界の狭間

以前、「リアリティを感じること」についての記事を書いたことがあった。


阿刀田高のエッセイで、カルチャーセンターで小説の書き方を講義したときの話を読んだことがある。小説というのは、リアリティーがなければならない。読者が、「うむ、これは実際にありそうな話だ」と、違和感なく読めるようでなければならない。

ところが受講者のほとんどは、「リアルであること」と「リアリティーがあること」の違いが分からないそうだ。受講者が書いた小説を読んでみて、「読んでてあまり現実味が感じられませんね」と評すると、「そんなわけはありません。これは私が実際に体験した話なんですから」と言う。

これに対する阿刀田氏の見方が面白い。リアルに実体験したことを書けば、その物語がリアリティーあふれるものとなるとは限らない、というのだ。逆に現実には絶対に起こりえないことでも、書き手の技量によって「これは、もしかしたら本当の出来事じゃあるまいか」とリアリティーを感じさせることは可能だという。出来事がリアルであることと、書かれたものにリアリティーがあることとは、別なのだ。

1973年のウォーターゲート事件で、ニクソン大統領、大統領法律顧問ジョン・ディーン、首席補佐官ホールドマンの三人が交わした会話記録が下院司法委員会に提出された。この「ウォーターゲートテープ」は、現実の会話が文字化されて公表されたものとしては最も有名、かつ長大なものだ。この会話記録を文字化した記事を読んだ読者は驚いたという。日常会話を文字化して記述すると、こんな変な感じがするのか、という違和感があったからだ。文脈が読めないような、意味のない文の連発に見える。



この話はよっぽど僕の興味を引いているらしく、ことあるごとに僕はこの話を思い出す。


人間は世の中の出来事を認知し把握し理解するときに、ありのままの出来事を透明な心で認識するのではない。主体が人間である限り、その人間の経験、感性などが影響を及ぼし、自分なりの咀嚼をした上で世界のありようを認識するのが普通だ。

小さい子供は手品を見せられても驚かない。物理法則や、世の中がどうなっているのかの常識が身に付いていないからだ。我々が手品を見て度肝を抜かれるのは、目の当たりにしている現象が、我々が人生経験で得てきた常識から逸脱しているからだ。

つまり、「実際の世界」と「我々が認識している世界」は、同一ではない。人間の感覚は騙されやすく、人は経験から常識を思い込む。そういうバイアスに歪められ、人は世界をクリアにあるがまま認識することができない。


ちょっと話は硬くなるが


現在の理論言語学の意味論の分野で広く認められている作業仮説に、「可能世界意味論」という考え方がある。

ことばの意味を考えるときに、まず「意味」をどう定義するかを決めなくてはならない。たとえば「たくろふ」「富士山」「ビッグベン」などの固有名詞の場合は簡単だ。実際にその存在物を「これ」と指差せば、それが固有名詞の意味を表したことになる。

されば、文の意味とは一体何なのか。
我々が文の意味を理解しているときに、我々は一体何をやっているのか。

形式的な意味論研究においては、文の意味とは「可能世界を入力とし、真偽値を出力とする関数」と定義される。この考え方は合成性の原理に基づいており、「全体」は「部品」と「組み合わせルール」によって成る、という前提に立っている。しかし、まぁ、この説明で「ほほう、なるほど」と理解できる人は天才か狂人のどちらかだろう。

「ドラえもんはタケコプターで空を飛ぶ」という文を考えてみる。
直感的に、真だ。

しかし、文の意味を「我々の生きているこの現実世界で、文の意味が実際に成り立っているか否か」という観点から考えると、この文が真であることが説明できない。実際にはドラえもんもタケコプターも存在せず、そんな架空の道具を使って架空のネコ型ロボットが空を飛ぶなどということは、現実世界ではあり得ない。

この文を解釈しているときに、文を関数として考える。入力となる可能世界は、現実世界である必要はない。仮に入力を「ドラえもんのマンガで展開されている世界」と考えると、この世界において文は真となる。つまり、当該の文に、「ドラえもんの世界」を入力すると、「真」という出力が得られる。

「僕が空を飛べたらすぐ君のところに飛んでいくのに」のような反実仮想、「君はすぐ家に帰るべきだ」のような様相文などの解釈に、可能世界意味論は効果を発揮する。 反実仮想では、条件によって制限された可能世界の集合において後件が真となる。must(ねばならない)を含むような様相文では、すべての可能世界で命題が真にならなければならない。通常の形式論理に翻訳すると、前者は条件節、後者は総称量化子に相当する。


このような可能世界に基づく認識論はライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)に始まる。しかしライプニッツはもちろん理論言語学の道具として可能世界を考案したのではなく、この世の在り方を考察する神学論的な立場から可能世界を提唱したらしい。神の創造し得る世界のうち「現実に創造された世界が、全ての可能世界の中で最善のものである」という直感に基づいていた。

その後、この考え方はクリプキ(Saul Aaron Kripke)によって理論的に体系化される。哲学の分野ではルイス(David Kellogg Lewis)、スタルネイカー(Robert Stalnaker)らが理論を発展させた。言語学の分野ではモンタギュー(Richard Merett Montague)によって統語論と意味論が完全一体となった理論に可能世界意味論が融合された。モンタギュー以降、形式意味論の研究は飛躍的に発展することになる。


僕は大学の学部時代にモンタギュー文法に初めて接したとき、「なんじゃこりゃ」と思った。論文や教科書を何度読んでも、言いたいことがさっぱり分からない。「可能世界」とか「関数」とか「モデル」とか、用語の意味からしてよく分からない。学部生の小僧にとっては、英語の壁も厚かった。

韋編三絶方式で根性勉強した。今考えてみれば、当時は直感的な理解を諦めて、単純に規則とルールだけを丸暗記していたような気がする。やり方を覚えてしまえば、後から理解がついてくるだろう。そんな勢いで勉強してた。

どんなことでも長く続けていれば次第に理解できるようになるもので、僕もようやく自分で論文を書くときに可能世界を「便利な道具」として扱えるようになってきた。当時はやたらと盲信して覚えるだけだった先行研究でも、穴が見えるようになる。その問題点を指摘し、代案を提唱する、という作業はやっててとても楽しい。


しかし、僕は潜在的に、可能世界意味論に対して根本的な畏れがある。


科学の研究の最も重要な特徴に「再現可能性」というものがある。科学は公理や観察をもとに仮説を立て、それを実証する営みだ。そこには時代、地域、個人の違いは影響しない。科学の業績は、後の世代が正しく理解し、踏襲することができる。科学的な真実は、どこでも、誰にでも、いつの時代でも、常に真実だ。

三平方の定理は紀元前にピタゴラスによって発見された(と一応されている)。それは3000年以上経った日本の地でも相変わらず成り立つ。ピタゴラスのような偉大な数学者にとっては成り立つが、たくろふのような一般人には成り立たない、という差別もない。

科学の先行研究を眺めると、法則を最初に発見した人の知的興奮が間接的に経験できる。どんな難解な定理でも、複雑な法則でも、「最初に発見した人はたぶん、こういうきっかけで思いついたんだろうな」という思考の後を辿ることができる。

ところが、「可能世界意味論」については、その観が低い。ライプニッツ、クリプキ、モンタギューがもし思いつかなかったら「オレ様が最初に発見してやったのに」という気が全然しない。少なくとも僕にとっては、可能世界意味論というのはどこかの天才によって必然性もなく編み出されたものであり、その発見に至る過程が追体験できない。理解するだけで精一杯で、それを考えついた人の思考を辿ることがむづかしい。

ライプニッツに限らず、可能世界の概念の確立には、ヨーロッパ伝統の神学、哲学による豊富なバックグラウンドがある。神とは、この世とは、認識とは。そういう伝統的な問いに立ち向かう武器として、可能世界は編み出された。

そうすると、そういう学問的土壌に縁のない極東の地・日本に生まれた身としてはなんとしよう。僕が可能世界意味論を自分の力で思いつくことができない気がするのは、生まれの地のハンデということなのだろうか。キリスト教的な世界観に親しみのない身では、しょせんその派生として生み出された知見の踏襲には限界があるのだろうか。


そんなときに、阿刀田高氏のエッセイをふと思い出した。
「リアルであること」と、「リアリティを感じること」の差を形式的に説明しようと思ったら、どういう理論的装置が必要だろうか。

必要なのは要するに「現実世界と、我々の認識の対象になる世界は、区別して考えなければならない」ということを明らかにすることだ。どういう道具立てを使おうが、どういう名称をつけようが、この芯となる直感を反映しさえすれば、妥当な理論を築ける。

可能世界の研究史を辿っても、なかなか直感的に自分の感性に響くものがない。実際、僕自身のバックグラウンドの中には、可能世界に基づく哲学が辿ってきた思考回路は無いのだろう。しかし、それは僕自身が可能世界の概念に自力で到達する可能性を完全に否定するものではあるまい。違う道、違う足跡から、同一の概念に辿り着くことだってできるはずだ。それはとりもなおさず、その知見が妥当であることの左証となるに違いない。

可能世界意味論が直感的に理解しにくく、その知見が追体験しにくいのは、多分にこの理論が哲学によって発展してきたという事情による。哲学は世界の認識方法に取り組む学問だが、その方法論は厳密な経験科学ではない。ヘーゲルやカントの著作を読むような隔靴掻痒の観が免れない。

しかしその扱いに熟達すれば、この上なく記述力の高い武器になる。内包論理は直感を越えたところにある認識を対象としているため、直感的理解を目指そうとするのはそもそも矛盾している。

僕も将来、可能世界意味論を次の世代に伝える仕事をしてみたい。そのときに、先人の思考を再現できるように、うまく伝えることができるだろうか。



ちなみに
書いててちょっと気になったので辞書を引いてみたんですが、「証左」「左証」は同じ意味で、両方とも正しい言葉なのだそうですね。こういう例は珍しいんじゃないかな。



僕はタケコプターよりもどこでもドアが欲しいです

韓国に王朝復活(?)

韓国に王室が発生した模様です。


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大韓帝国皇室を復活、皇族会が皇位継承式を開催



日本による植民地化のため没落した大韓帝国皇室の子孫が、大韓帝国皇室の復活を宣言した。「大韓帝国皇族会」が29日、ソウル市内のホテルで大韓帝国皇位継承式を行い、義親王・李ガン(1877?1955)の二女、李海ウォン(イ・ヘウォン)さん(88歳)を30代皇位継承者に推挙するとともに戴冠式を行った。(中略)

? 皇族会は「大韓帝国の皇室が日本により侵奪されて100年、祖国の解放から61年となるが、28代英親王・李垠(イ・ウン)の息子である李玖が昨年7月に東京で他界し、英親王家の血筋が途絶えたことから、李海ウォン氏を30代皇位継承者に推挙した」と説明した。李海ウォンさんは女性として大韓帝国皇室を継承し、皇室の代表全権、皇室の維持保存事業権、31代皇位継承者指名権などを持つことになる。

? イ・ソンジュ秘書室長は「今回の皇位継承は大韓民国にも皇室が存在していることを全世界に知らせるためのもの」と話している。皇族会によると、李海ウォンさんは生存している義親王の子女のうち最も序列が高いため皇位を継承することになったとし、女性が皇位を継ぐことも問題はないとしている。

? 大韓帝国皇室の末裔が、没落した皇室の再建に向け具体的な行動を起こすのはこれが初めて。皇族会は今回の皇位継承の事実について、政府と海外の皇室関係者に正式に報告するとともに、海外の皇室との交流も進めていく計画だ。



無視されて終わると思いますが。



【韓国】大韓帝国皇室復活 (『痛いニュース』さま)

25 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん[] 投稿日:2006/09/29(金)
なにこれ
王様ゲーム?


63 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん[] 投稿日:2006/09/29(金)
はやっw
インスタント皇室w


106 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん[] 投稿日:2006/09/29(金)
世界中の王室・皇室から相手にされないこと請け合いw


207 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん[] 投稿日:2006/09/29(金)
これって王室のクーデターってことなのか?
韓国軍が王室に忠誠を誓って官軍、
王室復活を認めないノムヒョン政権は賊軍とかいう展開?


275 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん[] 投稿日:2006/09/29(金)
ほんと、日本になりたくて仕方ないんだな


405 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん[] 投稿日:2006/09/29(金)
大統領制なのにwww
君主を名乗るのなら憲法を改正してから海外に宣言しろよwww



このあいだ秋篠宮親王に悠仁親王が誕生したときに、韓国では珍しく批判めいた論調もなく報道されたそうだ。そのココロは、皇室が国の象徴として機能しており、国民がこぞって誕生を祝福するムードに羨望の感情があったみたい。


それでも「日本、王政時代に戻ったよう」とか「王室は21世紀にも“日本の中心”確認」などといった皮肉まじりの見出しをつけた新聞もあった。「王政に戻った」のではなく日本は明治時代以来、基本的には英国などと同じような「立憲君主制」だし、戦後も天皇つまり皇室は「国民統合の象徴」として国の中心なんですがねえ。ただ共和制になっている韓国人にとっては好奇とちょっぴり羨望(せんぼう)?の対象ではあるようだ



報道と反応にふたつばかり。


まぁこの皇位承認とやらは、ジョークか勝手に名乗ってるだけだと思うが、仮に本当だとしたら改憲が必要なのでしょう。韓国は共和制だから、政治的な立場はともかく名目上は君主にあたる皇室は設置できないことになっている。それが立憲君主制を憲法に明記してある日本との違いだ。

韓国王室が最後に途絶えたのは1910年の日韓併合条約調印によって日本に併合されたとき。これによって李氏朝鮮が滅亡したことになっている。李氏朝鮮は1392年に始まる500年ほどの歴史を誇る王朝だが、明と清の時代には中国から冊封体制下で君臣関係に封じられた。事実上は完全な属国だ。

その支配関係から逃れたのは、日本が日清戦争で清に勝ったからだ。1895年の下関条約で朝鮮は清から独立し、1897年に大韓帝国として皇帝をおく君主制となった。しかし、実質上は日本の強い影響化に置かれていたようだ。民族感情としては堪え難いものかもしれないが、現在の韓国の市区画の整備、今に至る幹線道路などインフラ面の充実はこの頃に日本の資本によって行われた、という一面もあった。

ともあれ、1897年から1910年の日韓併合条約までのわずかな期間だった大韓帝国は、最初から日本の影響下に置かれていた。もし仮に現在、韓国で王朝を復活し、それをもって「大韓帝国の復活」というのなら、それは「韓国は日本支配下の時代に戻りますよ」と言っているようなものではないか。そんなんでいいのだろうか。


もうひとつ。この報道に関して嘲笑するような反応をするのは勝手だが、韓国王室が滅んだ原因は日本にあることだけは知っておかなければいけないと思う。

当時は帝国主義全盛時代で、勝ち組のヨーロッパ列強は世界中の国を属国にし、搾取し、王室を潰して廻った。現代の政治理念からすれば、それは許されるものではない。しかし当時の常識では「やったもん勝ち」だった。ヨーロッパの国々は、現在に至るまで、当時属国にしていた国に謝罪はおろか補償すらしていない。

しかし、他国は他国、日本は日本だ。政治補償その他の話は別として、一国の王室を滅亡に追い込んだ自国の歴史は、しっかりと知っておく必要があると思う。

当時の李氏朝鮮は儒教道徳に基づく統治を行った。実際のところ、この理念により身分制度が強化され、誤った差別意識を助長した。また現実に沿わない外交、内政を支配者に行わせる原因となっていたなど、弊害は多かったようだ。こうした王朝の支配のあり方が今日的な観点から良いものであるかどうかは、韓国人が判断すればいいことだ。「ダメな王朝だったから滅ぼしてやった」という態度が許されるわけではない。

歴史の過程をないがしろにして安易にこのニュースを囃し立てるのは、軽佻浮薄の誹りを逃れない。



世界中の他の国はともかく、日本人が笑っていいことではないと思う

歴史

建国と衰亡の歴史


世界史でよく見た表ですが、「どうだ日本はこんな凄い国なんだ」みたいな国威発揚的なことを吹き込まれた覚えも、愛国心を吹き込まれた覚えもありません。「だから何だ」という感じです。



歴史の授業に国策的な意図を感じたことはないなぁ

伊東家的な

くらしの豆知識
(「いぬようび」さま)


絵のクオリティが非常に似ておる



何回かに一回は「なんじゃそりゃ」ってのがあるそうです

中学生の質問

中学生の質問に、ひとこと(約31字)づつ答えてください。


1.国語 なぜ文法や敬語が必要なの? 
なぜ必要と決めつけるのか。「必要」とはどういう意味か。


2.社会 なぜ多数決が民主的なの? 
「民主的」の反対概念を学べばいい


3.数学 なぜ間違いなの? 1+2×3=9
両辺から1を引け


4.理科 なぜ地球は丸いの? 
なぜ丸いと分かる?


5.英語 なぜ外国語が必要なの?  
必要ない生き方だってある。選択の自由もある。


6.音楽 なぜ国歌を立って歌うの?
内容ではなくかたちに意味があることもある


7.美術 なぜ(デジカメやパソコンでなく)手で描くの? 
退屈な人生で構わないのであれば不要。


8.保健体育 なぜ人を殺してはいけないの?  
なぜ人に殺されてはいけないの?


9.技術家庭 なぜ人は結婚して子供を育てるの?
単なる先入観



質問内容は間違いや思い込みが多いけど、質問すること自体は正しい
ペンギン命

takutsubu

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バックナンバー長いよ。
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