以前、「リアリティを感じること」についての記事を書いたことがあった。
この話はよっぽど僕の興味を引いているらしく、ことあるごとに僕はこの話を思い出す。
人間は世の中の出来事を認知し把握し理解するときに、ありのままの出来事を透明な心で認識するのではない。主体が人間である限り、その人間の経験、感性などが影響を及ぼし、自分なりの咀嚼をした上で世界のありようを認識するのが普通だ。
小さい子供は手品を見せられても驚かない。物理法則や、世の中がどうなっているのかの常識が身に付いていないからだ。我々が手品を見て度肝を抜かれるのは、目の当たりにしている現象が、我々が人生経験で得てきた常識から逸脱しているからだ。
つまり、「実際の世界」と「我々が認識している世界」は、同一ではない。人間の感覚は騙されやすく、人は経験から常識を思い込む。そういうバイアスに歪められ、人は世界をクリアにあるがまま認識することができない。
ちょっと話は硬くなるが
現在の理論言語学の意味論の分野で広く認められている作業仮説に、「可能世界意味論」という考え方がある。
ことばの意味を考えるときに、まず「意味」をどう定義するかを決めなくてはならない。たとえば「たくろふ」「富士山」「ビッグベン」などの固有名詞の場合は簡単だ。実際にその存在物を「これ」と指差せば、それが固有名詞の意味を表したことになる。
されば、文の意味とは一体何なのか。
我々が文の意味を理解しているときに、我々は一体何をやっているのか。
形式的な意味論研究においては、文の意味とは「可能世界を入力とし、真偽値を出力とする関数」と定義される。この考え方は合成性の原理に基づいており、「全体」は「部品」と「組み合わせルール」によって成る、という前提に立っている。しかし、まぁ、この説明で「ほほう、なるほど」と理解できる人は天才か狂人のどちらかだろう。
「ドラえもんはタケコプターで空を飛ぶ」という文を考えてみる。
直感的に、真だ。
しかし、文の意味を「我々の生きているこの現実世界で、文の意味が実際に成り立っているか否か」という観点から考えると、この文が真であることが説明できない。実際にはドラえもんもタケコプターも存在せず、そんな架空の道具を使って架空のネコ型ロボットが空を飛ぶなどということは、現実世界ではあり得ない。
この文を解釈しているときに、文を関数として考える。入力となる可能世界は、現実世界である必要はない。仮に入力を「ドラえもんのマンガで展開されている世界」と考えると、この世界において文は真となる。つまり、当該の文に、「ドラえもんの世界」を入力すると、「真」という出力が得られる。
「僕が空を飛べたらすぐ君のところに飛んでいくのに」のような反実仮想、「君はすぐ家に帰るべきだ」のような様相文などの解釈に、可能世界意味論は効果を発揮する。 反実仮想では、条件によって制限された可能世界の集合において後件が真となる。must(ねばならない)を含むような様相文では、すべての可能世界で命題が真にならなければならない。通常の形式論理に翻訳すると、前者は条件節、後者は総称量化子に相当する。
このような可能世界に基づく認識論はライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)に始まる。しかしライプニッツはもちろん理論言語学の道具として可能世界を考案したのではなく、この世の在り方を考察する神学論的な立場から可能世界を提唱したらしい。神の創造し得る世界のうち「現実に創造された世界が、全ての可能世界の中で最善のものである」という直感に基づいていた。
その後、この考え方はクリプキ(Saul Aaron Kripke)によって理論的に体系化される。哲学の分野ではルイス(David Kellogg Lewis)、スタルネイカー(Robert Stalnaker)らが理論を発展させた。言語学の分野ではモンタギュー(Richard Merett Montague)によって統語論と意味論が完全一体となった理論に可能世界意味論が融合された。モンタギュー以降、形式意味論の研究は飛躍的に発展することになる。
僕は大学の学部時代にモンタギュー文法に初めて接したとき、「なんじゃこりゃ」と思った。論文や教科書を何度読んでも、言いたいことがさっぱり分からない。「可能世界」とか「関数」とか「モデル」とか、用語の意味からしてよく分からない。学部生の小僧にとっては、英語の壁も厚かった。
韋編三絶方式で根性勉強した。今考えてみれば、当時は直感的な理解を諦めて、単純に規則とルールだけを丸暗記していたような気がする。やり方を覚えてしまえば、後から理解がついてくるだろう。そんな勢いで勉強してた。
どんなことでも長く続けていれば次第に理解できるようになるもので、僕もようやく自分で論文を書くときに可能世界を「便利な道具」として扱えるようになってきた。当時はやたらと盲信して覚えるだけだった先行研究でも、穴が見えるようになる。その問題点を指摘し、代案を提唱する、という作業はやっててとても楽しい。
しかし、僕は潜在的に、可能世界意味論に対して根本的な畏れがある。
科学の研究の最も重要な特徴に「再現可能性」というものがある。科学は公理や観察をもとに仮説を立て、それを実証する営みだ。そこには時代、地域、個人の違いは影響しない。科学の業績は、後の世代が正しく理解し、踏襲することができる。科学的な真実は、どこでも、誰にでも、いつの時代でも、常に真実だ。
三平方の定理は紀元前にピタゴラスによって発見された(と一応されている)。それは3000年以上経った日本の地でも相変わらず成り立つ。ピタゴラスのような偉大な数学者にとっては成り立つが、たくろふのような一般人には成り立たない、という差別もない。
科学の先行研究を眺めると、法則を最初に発見した人の知的興奮が間接的に経験できる。どんな難解な定理でも、複雑な法則でも、「最初に発見した人はたぶん、こういうきっかけで思いついたんだろうな」という思考の後を辿ることができる。
ところが、「可能世界意味論」については、その観が低い。ライプニッツ、クリプキ、モンタギューがもし思いつかなかったら「オレ様が最初に発見してやったのに」という気が全然しない。少なくとも僕にとっては、可能世界意味論というのはどこかの天才によって必然性もなく編み出されたものであり、その発見に至る過程が追体験できない。理解するだけで精一杯で、それを考えついた人の思考を辿ることがむづかしい。
ライプニッツに限らず、可能世界の概念の確立には、ヨーロッパ伝統の神学、哲学による豊富なバックグラウンドがある。神とは、この世とは、認識とは。そういう伝統的な問いに立ち向かう武器として、可能世界は編み出された。
そうすると、そういう学問的土壌に縁のない極東の地・日本に生まれた身としてはなんとしよう。僕が可能世界意味論を自分の力で思いつくことができない気がするのは、生まれの地のハンデということなのだろうか。キリスト教的な世界観に親しみのない身では、しょせんその派生として生み出された知見の踏襲には限界があるのだろうか。
そんなときに、阿刀田高氏のエッセイをふと思い出した。
「リアルであること」と、「リアリティを感じること」の差を形式的に説明しようと思ったら、どういう理論的装置が必要だろうか。
必要なのは要するに「現実世界と、我々の認識の対象になる世界は、区別して考えなければならない」ということを明らかにすることだ。どういう道具立てを使おうが、どういう名称をつけようが、この芯となる直感を反映しさえすれば、妥当な理論を築ける。
可能世界の研究史を辿っても、なかなか直感的に自分の感性に響くものがない。実際、僕自身のバックグラウンドの中には、可能世界に基づく哲学が辿ってきた思考回路は無いのだろう。しかし、それは僕自身が可能世界の概念に自力で到達する可能性を完全に否定するものではあるまい。違う道、違う足跡から、同一の概念に辿り着くことだってできるはずだ。それはとりもなおさず、その知見が妥当であることの左証となるに違いない。
可能世界意味論が直感的に理解しにくく、その知見が追体験しにくいのは、多分にこの理論が哲学によって発展してきたという事情による。哲学は世界の認識方法に取り組む学問だが、その方法論は厳密な経験科学ではない。ヘーゲルやカントの著作を読むような隔靴掻痒の観が免れない。
しかしその扱いに熟達すれば、この上なく記述力の高い武器になる。内包論理は直感を越えたところにある認識を対象としているため、直感的理解を目指そうとするのはそもそも矛盾している。
僕も将来、可能世界意味論を次の世代に伝える仕事をしてみたい。そのときに、先人の思考を再現できるように、うまく伝えることができるだろうか。
ちなみに
書いててちょっと気になったので辞書を引いてみたんですが、「証左」「左証」は同じ意味で、両方とも正しい言葉なのだそうですね。こういう例は珍しいんじゃないかな。
僕はタケコプターよりもどこでもドアが欲しいです
阿刀田高のエッセイで、カルチャーセンターで小説の書き方を講義したときの話を読んだことがある。小説というのは、リアリティーがなければならない。読者が、「うむ、これは実際にありそうな話だ」と、違和感なく読めるようでなければならない。
ところが受講者のほとんどは、「リアルであること」と「リアリティーがあること」の違いが分からないそうだ。受講者が書いた小説を読んでみて、「読んでてあまり現実味が感じられませんね」と評すると、「そんなわけはありません。これは私が実際に体験した話なんですから」と言う。
これに対する阿刀田氏の見方が面白い。リアルに実体験したことを書けば、その物語がリアリティーあふれるものとなるとは限らない、というのだ。逆に現実には絶対に起こりえないことでも、書き手の技量によって「これは、もしかしたら本当の出来事じゃあるまいか」とリアリティーを感じさせることは可能だという。出来事がリアルであることと、書かれたものにリアリティーがあることとは、別なのだ。
1973年のウォーターゲート事件で、ニクソン大統領、大統領法律顧問ジョン・ディーン、首席補佐官ホールドマンの三人が交わした会話記録が下院司法委員会に提出された。この「ウォーターゲートテープ」は、現実の会話が文字化されて公表されたものとしては最も有名、かつ長大なものだ。この会話記録を文字化した記事を読んだ読者は驚いたという。日常会話を文字化して記述すると、こんな変な感じがするのか、という違和感があったからだ。文脈が読めないような、意味のない文の連発に見える。
この話はよっぽど僕の興味を引いているらしく、ことあるごとに僕はこの話を思い出す。
人間は世の中の出来事を認知し把握し理解するときに、ありのままの出来事を透明な心で認識するのではない。主体が人間である限り、その人間の経験、感性などが影響を及ぼし、自分なりの咀嚼をした上で世界のありようを認識するのが普通だ。
小さい子供は手品を見せられても驚かない。物理法則や、世の中がどうなっているのかの常識が身に付いていないからだ。我々が手品を見て度肝を抜かれるのは、目の当たりにしている現象が、我々が人生経験で得てきた常識から逸脱しているからだ。
つまり、「実際の世界」と「我々が認識している世界」は、同一ではない。人間の感覚は騙されやすく、人は経験から常識を思い込む。そういうバイアスに歪められ、人は世界をクリアにあるがまま認識することができない。
ちょっと話は硬くなるが
現在の理論言語学の意味論の分野で広く認められている作業仮説に、「可能世界意味論」という考え方がある。
ことばの意味を考えるときに、まず「意味」をどう定義するかを決めなくてはならない。たとえば「たくろふ」「富士山」「ビッグベン」などの固有名詞の場合は簡単だ。実際にその存在物を「これ」と指差せば、それが固有名詞の意味を表したことになる。
されば、文の意味とは一体何なのか。
我々が文の意味を理解しているときに、我々は一体何をやっているのか。
形式的な意味論研究においては、文の意味とは「可能世界を入力とし、真偽値を出力とする関数」と定義される。この考え方は合成性の原理に基づいており、「全体」は「部品」と「組み合わせルール」によって成る、という前提に立っている。しかし、まぁ、この説明で「ほほう、なるほど」と理解できる人は天才か狂人のどちらかだろう。
「ドラえもんはタケコプターで空を飛ぶ」という文を考えてみる。
直感的に、真だ。
しかし、文の意味を「我々の生きているこの現実世界で、文の意味が実際に成り立っているか否か」という観点から考えると、この文が真であることが説明できない。実際にはドラえもんもタケコプターも存在せず、そんな架空の道具を使って架空のネコ型ロボットが空を飛ぶなどということは、現実世界ではあり得ない。
この文を解釈しているときに、文を関数として考える。入力となる可能世界は、現実世界である必要はない。仮に入力を「ドラえもんのマンガで展開されている世界」と考えると、この世界において文は真となる。つまり、当該の文に、「ドラえもんの世界」を入力すると、「真」という出力が得られる。
「僕が空を飛べたらすぐ君のところに飛んでいくのに」のような反実仮想、「君はすぐ家に帰るべきだ」のような様相文などの解釈に、可能世界意味論は効果を発揮する。 反実仮想では、条件によって制限された可能世界の集合において後件が真となる。must(ねばならない)を含むような様相文では、すべての可能世界で命題が真にならなければならない。通常の形式論理に翻訳すると、前者は条件節、後者は総称量化子に相当する。
このような可能世界に基づく認識論はライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)に始まる。しかしライプニッツはもちろん理論言語学の道具として可能世界を考案したのではなく、この世の在り方を考察する神学論的な立場から可能世界を提唱したらしい。神の創造し得る世界のうち「現実に創造された世界が、全ての可能世界の中で最善のものである」という直感に基づいていた。
その後、この考え方はクリプキ(Saul Aaron Kripke)によって理論的に体系化される。哲学の分野ではルイス(David Kellogg Lewis)、スタルネイカー(Robert Stalnaker)らが理論を発展させた。言語学の分野ではモンタギュー(Richard Merett Montague)によって統語論と意味論が完全一体となった理論に可能世界意味論が融合された。モンタギュー以降、形式意味論の研究は飛躍的に発展することになる。
僕は大学の学部時代にモンタギュー文法に初めて接したとき、「なんじゃこりゃ」と思った。論文や教科書を何度読んでも、言いたいことがさっぱり分からない。「可能世界」とか「関数」とか「モデル」とか、用語の意味からしてよく分からない。学部生の小僧にとっては、英語の壁も厚かった。
韋編三絶方式で根性勉強した。今考えてみれば、当時は直感的な理解を諦めて、単純に規則とルールだけを丸暗記していたような気がする。やり方を覚えてしまえば、後から理解がついてくるだろう。そんな勢いで勉強してた。
どんなことでも長く続けていれば次第に理解できるようになるもので、僕もようやく自分で論文を書くときに可能世界を「便利な道具」として扱えるようになってきた。当時はやたらと盲信して覚えるだけだった先行研究でも、穴が見えるようになる。その問題点を指摘し、代案を提唱する、という作業はやっててとても楽しい。
しかし、僕は潜在的に、可能世界意味論に対して根本的な畏れがある。
科学の研究の最も重要な特徴に「再現可能性」というものがある。科学は公理や観察をもとに仮説を立て、それを実証する営みだ。そこには時代、地域、個人の違いは影響しない。科学の業績は、後の世代が正しく理解し、踏襲することができる。科学的な真実は、どこでも、誰にでも、いつの時代でも、常に真実だ。
三平方の定理は紀元前にピタゴラスによって発見された(と一応されている)。それは3000年以上経った日本の地でも相変わらず成り立つ。ピタゴラスのような偉大な数学者にとっては成り立つが、たくろふのような一般人には成り立たない、という差別もない。
科学の先行研究を眺めると、法則を最初に発見した人の知的興奮が間接的に経験できる。どんな難解な定理でも、複雑な法則でも、「最初に発見した人はたぶん、こういうきっかけで思いついたんだろうな」という思考の後を辿ることができる。
ところが、「可能世界意味論」については、その観が低い。ライプニッツ、クリプキ、モンタギューがもし思いつかなかったら「オレ様が最初に発見してやったのに」という気が全然しない。少なくとも僕にとっては、可能世界意味論というのはどこかの天才によって必然性もなく編み出されたものであり、その発見に至る過程が追体験できない。理解するだけで精一杯で、それを考えついた人の思考を辿ることがむづかしい。
ライプニッツに限らず、可能世界の概念の確立には、ヨーロッパ伝統の神学、哲学による豊富なバックグラウンドがある。神とは、この世とは、認識とは。そういう伝統的な問いに立ち向かう武器として、可能世界は編み出された。
そうすると、そういう学問的土壌に縁のない極東の地・日本に生まれた身としてはなんとしよう。僕が可能世界意味論を自分の力で思いつくことができない気がするのは、生まれの地のハンデということなのだろうか。キリスト教的な世界観に親しみのない身では、しょせんその派生として生み出された知見の踏襲には限界があるのだろうか。
そんなときに、阿刀田高氏のエッセイをふと思い出した。
「リアルであること」と、「リアリティを感じること」の差を形式的に説明しようと思ったら、どういう理論的装置が必要だろうか。
必要なのは要するに「現実世界と、我々の認識の対象になる世界は、区別して考えなければならない」ということを明らかにすることだ。どういう道具立てを使おうが、どういう名称をつけようが、この芯となる直感を反映しさえすれば、妥当な理論を築ける。
可能世界の研究史を辿っても、なかなか直感的に自分の感性に響くものがない。実際、僕自身のバックグラウンドの中には、可能世界に基づく哲学が辿ってきた思考回路は無いのだろう。しかし、それは僕自身が可能世界の概念に自力で到達する可能性を完全に否定するものではあるまい。違う道、違う足跡から、同一の概念に辿り着くことだってできるはずだ。それはとりもなおさず、その知見が妥当であることの左証となるに違いない。
可能世界意味論が直感的に理解しにくく、その知見が追体験しにくいのは、多分にこの理論が哲学によって発展してきたという事情による。哲学は世界の認識方法に取り組む学問だが、その方法論は厳密な経験科学ではない。ヘーゲルやカントの著作を読むような隔靴掻痒の観が免れない。
しかしその扱いに熟達すれば、この上なく記述力の高い武器になる。内包論理は直感を越えたところにある認識を対象としているため、直感的理解を目指そうとするのはそもそも矛盾している。
僕も将来、可能世界意味論を次の世代に伝える仕事をしてみたい。そのときに、先人の思考を再現できるように、うまく伝えることができるだろうか。
ちなみに
書いててちょっと気になったので辞書を引いてみたんですが、「証左」「左証」は同じ意味で、両方とも正しい言葉なのだそうですね。こういう例は珍しいんじゃないかな。