たくろふのつぶやき

春は揚げ物。

2006年08月

はいはい。

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「アイツだけは許せん!」亀田興毅がランダエタ抹殺宣言=10.18WBA世界戦



ボクシングWBA世界ライトフライ級王者の亀田興毅(協栄ジム)が31日、都内ホテルで記者会見を開き、同級1位ファン・ランダエタ(ベネズエラ)との初防衛戦を10月18日に有明コロシアムで行うと正式に発表した。

 “浪速乃闘拳”がついに重い口を開いた。2日に行われたWBA世界ライトフライ級王座決定戦でランダエタと対戦。判定ながら見事勝利を収め、悲願の世界王座を獲得したものの、微妙な判定を巡って一部から厳しい批判を浴びた。だが、興毅は20日に試合を控えていた二男・大毅が試合に集中できるよう配慮し、これまで沈黙を守ってきた。

 批判報道の影響か、会見場にピリピリムードが漂う中、協栄ジム金平桂一郎会長と会見場に現れた興毅は、「とりあえずアイツだけは許せん。アイツごときにああいう試合をしたことに納得していない。とりあえず次はつぶすよ」と豪快にKOを宣言。

 前回は減量苦での苦戦が伝えられたが、「一回やったから分かっている。今回は違う調整でやるしな。この前は最悪だったし、あれ以下はない。減量がうまくいったらあいつ死ぬな。ベネズエラまで吹っ飛ぶよ」とコメント。詳細こそ明かさなかったが、新たな調整法で初防衛戦に臨むことを明かした。

 「オレはオレのボクシングをやるだけ。寝てても勝てるよあんなヤツ」といつものビッグマウスも飛び出したが、会見中はうつむき加減で腕を組み、質問にも終始厳しい表情で答えていた。

 会見の最後にはファンに向けて、「前回は悪いことした。ファンも納得してないやろうけど、オレが一番納得してないからな。今度は、みんなにスカッとしてもらうような試合を見せるよ」とメッセージを送った興毅。果たして、批判を吹き飛ばす豪快なKO勝利を見せることができるのか!?

■WBA世界ライトフライ級王座防衛戦
10月18日(水) 東京・有明コロシアム 開場16:00 第1試合開始17:00

[同級王者]亀田興毅(協栄ジム)
[同級1位]ファン・ランダエタ(ベネズエラ)



ほほう、見せてもらおうじゃないの。



今回も試合前に「亀田親子特集」で引っ張るのかな

ジレンマ

「右の頬を打たれたら左の頬をも向けなさい」は無抵抗主義ではなく、強い抵抗を示す行為
(Tech総研)


「あれ?ふつう右利きの人がほとんどですよね?だとしたら、右の手で相手をぶつんだから、(頬をぶたれる側の人からすれば)左の頬を打たれることになるんじゃないですか?最初に、右の頬を打たれたらってヘンじゃないですか?」という疑問を眺めたのです。…確かに、不思議です。世の中の90%くらいの人が右利きだということを考えると、ぶたれる頬は「左頬」が自然です。相手から「右頬」を打たれる、というのは何だか不自然です…?

そこで、Wikipedia の"Turn the other cheek"の項や、「右頬を…」という言葉を解説した文章を読んでみると、とても興味深い(もっとも支持されている)説を知りました。それは、この言葉で勝たれているのが、「右手の甲で相手の右頬を打つ」という状況だった、ということです。確かに、右手の甲で相手の顔を払うように打つのであれば、(頬をぶたれる側からすれば)右頬が打たれることになります。そして、古代のユダヤ世界では、「手の甲で相手の頬をたたく」ということは、非常に相手を侮辱する行為で、自分より「階級・地位」が下である者に対してのみ行うことが許されていた、というのです。また、当時は左手は「悪い」側の手とみなされていて、自分の主張などを行う際には使うことができませんでした。だから、「右手の甲で相手の頬を打つ」というのは、「自分より地位が下のものを、侮辱しつつ叱責する」という目的で「ごく自然に行われていた」行為であった、というわけです。

「左の頬を向けられ」たら、(右頬を打った)相手はどうするでしょう?左手は使えませんから、左の手の甲で「左頬」を打つことはできません。だとすると、右手の掌で相手の左頬を打つことになります。…しかし、(自分より相手の地位が下だとみなす行為である)手の甲で相手を打つのではなく、「掌で相手を打つ」ということは、相手を自分と対等だとみなすことです。つまり、「自分より身分が下」だと蔑んでいる相手を、「自分と同等の人間である」と認める行為になってしまうわけです。(頬を打った側の人は)大きなジレンマを抱えてしまうことになるのです。

 つまり、この言葉は、単なる「相手の暴力・差別に対して服従・無抵抗になれ」という意味ではなく、「暴力は使わず、根本の意味におけるより強い抵抗を示せ」という言葉であった、というわけです。



僕は右の頬を打たれたら左の脇腹をぶっ飛ばします。



あるいは蹴りです。

レポート盗作

期末レポートの盗作を見つけるプログラム


バージニア大学の教授が自作のコンピューター・プログラムで、期末レポートの盗作を行なった122名の学生を特定した。

 『物体の作用のしかた』という物理学の入門講座を担当するルイス・ブルームフィールド教授がこのプログラムを書いたのは、「同じ内容のレポートが何度も提出されているという噂を聞いて」からのことだ。

 不正が明らかになった学生の名前は、学生で運営する自主管理委員会に報告されており、同委員会がこれから調査を行なう。

 「テクノロジーのおかげで不正をするのが簡単になったが、不正を暴くのも簡単になった。私がしたのがまさにそれだ」とブルームフィールド教授は言う。

 バージニア大学には1つだけ制裁規定がある。それは、嘘を言ったり不正や盗作を行なったりして、同じ学生仲間による陪審団から有罪の判決を受けた学生は、永久に退学処分になるというものだ。

 「意図的な不正なのか、それとも何らかの合理的な説明がつくことなのかは、委員会の判断に任せる」とブルームフィールド教授。



なんで大学に入ってまでレポートを盗用するのでしょう。
自分の頭を使うのが嫌なら、そもそもなぜ大学に入ったのでしょう。



「泳げるようになりたいが濡れるのはイヤだ」みたいなもんかな
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くぐるな

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そりゃチケット買わにゃ

ジップの法則

「ジップの法則」というのがある。


花瓶に石をぶつけて割るとしよう。粉々になった破片が飛び散る。その破片は、大きいのもあれば小さいのもある。その大きさに、ある一定の方法が見いだせる、というのだ。

いちばん大きな破片のサイズを仮に1000mm3としよう。すると、
2番目に大きな破片は、だいたい500mm3
3番目に大きな破片は、だいたい333mm3
4番目に大きな破片は、だいたい250mm3
・・・という感じになる。

つまり、「k番目に大きな破片」と、「その破片の大きさ」は、反比例の関係にある。大きさの順位が下がるにつれ、だんだんと1/2、1/3、1/4、・・・と小さくなっていく。大まかな傾向として、こういうことがあるらしい。

この法則はもともとアメリカの言語学者ジョージ・キングズリー・ジップ(George Kingsley Zipf)が提唱した言語学上の法則だ。ジップは英単語の出現率を調べるために、ジェームズ・ジョイスの「ユリシーズ」に含まれる単語(260430個)と、いくつかの新聞記事の語彙数(43989個)を比べてみた。すると、頻出する単語は次のような順位になった。

(1) the (全体の10%)
(2) of (全体の5%)
(3) and (全体の3.3%)


反比例としては、

単語の出現率(%) = 10 / 順位

という関係になる。


この法則は英単語の使用頻度や破片の大きさなどだけではなく、様々な分野で散見される法則であることが知られている。言語の使用人口、都市の人口や、細胞内での遺伝子の発現量、学生の成績、企業の利益金など、おおむね順位と数量との間には反比例の関係があるらしい。

これが本当かを確かめるために、「インターネット・マガジン」は1999年6月号で追試を行っている。『新・社会楽』という連載の『不思議な法則』という記事で、映画の観客動員数がジップの法則にあてはまるかを実験している。1998年12月23日の京都エリアでの映画館の観客動員数は、次のようだった。

 第1位  アルマゲドン         4,300人
 第2位  ジョー・ブラックをよろしく  2,700人
 第3位  6デイズ/7ナイツ      1,500人

きれいに2位が第1位の約半分の人数、第3位が1/3となっている。


経験則としては面白い。人の経済活動や無意識の行動に、こういう傾向が潜んでいるとしたら、それに注目するのは慧眼に属するだろう。

しかし、ジップの法則は「なぜ、そういう法則が成り立つのか」という必然性に基づく原理が説明できるのだろうか。

自然科学と社会科学は、ともに雑多な現象から一般法則を抽出し、現象の予測を可能とする営みであることに違いはない。両者の違いは、その一般法則を「なぜ、そうなのか」という原理に帰着しようとする姿勢があるか、ないか、の違いではあるまいか。

社会科学も法則の由来を理論づけることくらいはやっているのだろう。しかし、「人間の行動」という不確定要素が絡む社会科学の法則と、純粋な自然現象を扱う自然科学の定説を比べると、ある理論が「なぜ成り立つのか」を説明できる可能性は段違いだと思う。これは科学を学ぶ者なら誰もがうっすらと感じている勘だと思う。


しかし、はたして、本当にそうなのだろうか。
社会科学の命題を必然に帰す努力は、そもそも不要なのか、やろうとしてもできないのか。
それとも、なにか、明らかに説明可能な人間の行動原理というものが存在して、その概念は追求可能なものなのではないか。

そうではない、と明確に否定できない限り、可能性は残る。社会科学は一般に、その根本の議論を棚上げしたまま法則の発見とその追試に明け暮れているのではないか。法則を発見したとして、その先には何があるのだろう。

試行錯誤や観察の中から、「もしかしたらこうじゃね?」という法則性を見いだす訓練は、いまの初等・高等教育でも行っているだろう。しかし、その先の段階、「なぜそうなっているのか」を考える方法論、そもそもその議論が可能な命題なのか否かを見抜く能力は、いまの教育ではどうやって培っているのだろう。

問題を解く能力は大事だ。問題を自ら発見する能力も大事だ。しかし、「発見した問題はそもそも解くことが可能なのか」を見極める判断力も、同様に大事だと思う。問いにも、良い問いと悪い問いがある。

そもそも解くことが出来ない問いの袋小路に迷い込むことのないように、問いを評価する能力というのは必要だと思う。その能力を鍛えるには「いづれ収束可能な『解』が存在する」と無条件に信じ込んでいる自然科学よりも、法則が単なる偶然である可能性が高い社会科学のほうが、適しているような気がする。



いま実家にある花瓶を割っちゃって困ってるんですが
ペンギン命

takutsubu

ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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