2006年05月
大学受験の数学では、定理を証明無しで使ってはいけないことになっている。
「定理」とは、公理から導ける証明可能な命題のことを言う。
仮に、Aという公理から出発して、
AであればB、BであればC、CであればD、DであればE
ということが証明可能であることが一般に知られているとしよう。ところが、この各ステップの論証を省いて、最初と最後だけをつなげて、いきなり「Aだから、E」とやってしまうのは答案のルール違反になる。
たとえば、行列の問題を解くときに便利な定理に「ケーリー・ハミルトンの定理」というのがある。
という行列があったとき、0を要素がすべて0の行列、Iを単位行列とすると、
A2 - (a11 + a22)A + (a11a22 - a12a21)I = 0
が常に成り立つ。
大学受験でこの定理を使うときには、「ケーリー・ハミルトンの定理より」と書いて、あたりまえのように使ってはいけない。ちゃんと展開して、式が成り立つことを示さなければならない。
さて
関数や数列の極限に関して、以下のことが知られている。今はどうか知らないが、僕が高校生のときには3年の数学で習ってた。
要するに、「ふたつの関数が等しい極限を共有するとき、そのふたつの関数の間にはさまれた関数もまた、同じ極限を共有する」ということだ。これはcの値が有限でなくても成り立つ。
これは受験数学で「はさみうちの原理」として知られている。問題を解くときに、直感として「こりゃ任意の定義域のなかで極限を定数に収束させる問題だな」と感じたときは、だいたいこの原理で解ける。
僕が高校のときに不思議だったのは、この「はさみうちの原理」だけは、証明なしで使ってよい、とされていたことだ。
だいたい「原理」って何だ。公理なのか定理なのか。命題の性質からして、概念を定義しているわけではないので、公理ではあり得ない。よって、証明可能な定理なのだろう。
定理であれば、論証の途中できちんと証明しなければならない。ところがこれを証明しなくてもいい、ということは、定理として扱っていないことになる。授業でもはさみうちの証明は教わってない。
はさみうちの原理を証明するときには、ちゃんと基本事項の定義に帰らなけらばならない。「関数f(x)がαに収束する」とは、一体どういうことなのか。
実は、高校の数学では「収束」について、きちんとした定義を与えない。直感的に「終点に近づく」のようなイメージをもたせるだけであって、それが形式的にはどう定義されるのかについてはスルーしてしまう。
これが「収束」の定義になる。つまり、正の実数εがどれほど小さかろうとも、その数に対して常にNが存在する。
この定義では、直感的な「収束」の理解に使われる「できるだけ近づく」とか「めっちゃくちゃ大きくなる」とか「チョー増える」などの、定義が曖昧な言葉が使われていない。そのかわり、「任意の」という概念を導入したεが使われる。
この定義の読み替えを「ε-δ論法」という。これは大学の1, 2年の解析学で習う論法であって、高校数学の範囲には入っていない。
ε-δ論法に基づくと、はさみうちの原理はあっさり証明できる。つまり、定理として扱える。
なんてこたぁない。
個人的には、はさみうちの証明は、高校のうちに教えるべき内容ではないかと思う。この証明が高校で教えられないのは、要するに「無限大」「無限小」という概念を使わずに収束を教えることが困難だからだ。
数学史では長い間、「無限」という概念は「実数の範囲では定義できない」とされていた。この壁はかなり分厚かったらしく、ニュートン、ライプニッツ、オイラーでさえこの壁を破れなかった。
収束が極限に関する概念である限り、無限大、無限小の概念なしで議論するのは困難を伴う。これはまぁ、わからんでもない。カール・ワイエルシュトラウスによってε-δ論法が確立し、無限という概念なしで収束や連続を議論できるようになったのは、1860年になってからのことだった。
僕は、はさみうちの原理をつかって解く大学入試問題よりも、曖昧なことばに基づく直感を排して、所与の概念を明確に定義する方法論のほうが、数学を学ぶうえで価値があると思う。数列や関数の極限問題を解きまくるよりも、はさみうちの原理からε-δ論法を導入し、「収束するとはどういうことなのか」を考えるほうが、数学的思考としては王道なのではないか。
数学とは、定義や公理に基づく論証のみで構築される一連の論理の過程を学ぶ学問だ。その土台は、なんといっても定義にある。それなのに、「無限大」に関する定義も与えず証明不可能な原理を与えて問題を解かせることに、教育上なんら意味があるとは思えない。
高校数学の指導要領がε-δ論法を避けて、はさみうちの原理をがむしゃらに暗記させるのは、そのほうが試験問題を作りやすいからだと思う。そりゃ、概念の基礎となる定義の導入よりも、定理をつかって問題をガンガン解かせるほうが、問題を作りやすいに決まってる。
しかし、「試験問題を作りやすい」ということと、「数学の本質に近い」ということに相関関係はない。議論の土台となる出発点をおろそかにして、実践のみに価値を求めるような姿勢がありはしないか。
ちなみに現代数学では、ライプニッツ時代のような、直感的な無限小、無限大を用いるダイレクトな解析法も発見されている。この流儀では超実数という概念を使う「超準解析」という分野が進展している。
もし高校生がε-δ論法を習ったとしたら、「いや俺はあくまでも『無限』にこだわりたい」と意欲を燃やす学生がいると思う。まるで暴走族みたいだが、こうした高校生の意欲が、自力で超準解析の方法に辿り着く快挙に結びつくかもしれない。そういう可能性を拡げてあげることが、教育の方向性としては正しいのではないか。
どの教科でも、その学問が広く目指すものと、高校教育での指導目的の間には溝がある。「はさみうちの原理」は、そのひずみを如実に示すもののような気がしてならない。
僕も「無限」ってプリントしてあるTシャツもってますよ
「定理」とは、公理から導ける証明可能な命題のことを言う。
仮に、Aという公理から出発して、
AであればB、BであればC、CであればD、DであればE
ということが証明可能であることが一般に知られているとしよう。ところが、この各ステップの論証を省いて、最初と最後だけをつなげて、いきなり「Aだから、E」とやってしまうのは答案のルール違反になる。
たとえば、行列の問題を解くときに便利な定理に「ケーリー・ハミルトンの定理」というのがある。
という行列があったとき、0を要素がすべて0の行列、Iを単位行列とすると、
A2 - (a11 + a22)A + (a11a22 - a12a21)I = 0
が常に成り立つ。
大学受験でこの定理を使うときには、「ケーリー・ハミルトンの定理より」と書いて、あたりまえのように使ってはいけない。ちゃんと展開して、式が成り立つことを示さなければならない。
さて
関数や数列の極限に関して、以下のことが知られている。今はどうか知らないが、僕が高校生のときには3年の数学で習ってた。
3つの関数f(x), g(x), h(x)が
f(x) ≦ g(x) ≦ h(x) を満たすとする。
このとき、xをcに近づけたときにf(x)とh(x)の極限が存在し
であれば、g(x)の極限も存在し、
となる。
要するに、「ふたつの関数が等しい極限を共有するとき、そのふたつの関数の間にはさまれた関数もまた、同じ極限を共有する」ということだ。これはcの値が有限でなくても成り立つ。
これは受験数学で「はさみうちの原理」として知られている。問題を解くときに、直感として「こりゃ任意の定義域のなかで極限を定数に収束させる問題だな」と感じたときは、だいたいこの原理で解ける。
僕が高校のときに不思議だったのは、この「はさみうちの原理」だけは、証明なしで使ってよい、とされていたことだ。
だいたい「原理」って何だ。公理なのか定理なのか。命題の性質からして、概念を定義しているわけではないので、公理ではあり得ない。よって、証明可能な定理なのだろう。
定理であれば、論証の途中できちんと証明しなければならない。ところがこれを証明しなくてもいい、ということは、定理として扱っていないことになる。授業でもはさみうちの証明は教わってない。
はさみうちの原理を証明するときには、ちゃんと基本事項の定義に帰らなけらばならない。「関数f(x)がαに収束する」とは、一体どういうことなのか。
実は、高校の数学では「収束」について、きちんとした定義を与えない。直感的に「終点に近づく」のようなイメージをもたせるだけであって、それが形式的にはどう定義されるのかについてはスルーしてしまう。
関数f(x)と任意の数αがあるとする。
任意の正の実数εに対して、数Nに関して
N < n であるすべてのnについて、|f(n) - α| < ε
となるものが存在するとき、f(x)の極限が存在し、それをαと定める。
これが「収束」の定義になる。つまり、正の実数εがどれほど小さかろうとも、その数に対して常にNが存在する。
この定義では、直感的な「収束」の理解に使われる「できるだけ近づく」とか「めっちゃくちゃ大きくなる」とか「チョー増える」などの、定義が曖昧な言葉が使われていない。そのかわり、「任意の」という概念を導入したεが使われる。
この定義の読み替えを「ε-δ論法」という。これは大学の1, 2年の解析学で習う論法であって、高校数学の範囲には入っていない。
ε-δ論法に基づくと、はさみうちの原理はあっさり証明できる。つまり、定理として扱える。
(「はさみうちの原理」の証明)
の条件から、任意のεに対して、あるδ1, δ2が存在し、
0 < |x - c| < δ1 ならば、|f(x) - α| < ε
0 < |x - c| < δ2 ならば、|h(x) - α| < ε
となる。
δ1, δ2のうち小さい方をδとする。
f(x) - α < g(x) - α < h(x) - α
-ε < f(x) - α < ε
-ε < h(x) - α < ε
なので、もし
0 < |x - c| < δ
が成り立てば、
-ε < f(x) - α < g(x) - α < h(x) - α< ε
となる。すなわち、
|g(x) - α| < ε
が成り立つ。つまり、g(x)もαに収束する。
なんてこたぁない。
個人的には、はさみうちの証明は、高校のうちに教えるべき内容ではないかと思う。この証明が高校で教えられないのは、要するに「無限大」「無限小」という概念を使わずに収束を教えることが困難だからだ。
数学史では長い間、「無限」という概念は「実数の範囲では定義できない」とされていた。この壁はかなり分厚かったらしく、ニュートン、ライプニッツ、オイラーでさえこの壁を破れなかった。
収束が極限に関する概念である限り、無限大、無限小の概念なしで議論するのは困難を伴う。これはまぁ、わからんでもない。カール・ワイエルシュトラウスによってε-δ論法が確立し、無限という概念なしで収束や連続を議論できるようになったのは、1860年になってからのことだった。
僕は、はさみうちの原理をつかって解く大学入試問題よりも、曖昧なことばに基づく直感を排して、所与の概念を明確に定義する方法論のほうが、数学を学ぶうえで価値があると思う。数列や関数の極限問題を解きまくるよりも、はさみうちの原理からε-δ論法を導入し、「収束するとはどういうことなのか」を考えるほうが、数学的思考としては王道なのではないか。
数学とは、定義や公理に基づく論証のみで構築される一連の論理の過程を学ぶ学問だ。その土台は、なんといっても定義にある。それなのに、「無限大」に関する定義も与えず証明不可能な原理を与えて問題を解かせることに、教育上なんら意味があるとは思えない。
高校数学の指導要領がε-δ論法を避けて、はさみうちの原理をがむしゃらに暗記させるのは、そのほうが試験問題を作りやすいからだと思う。そりゃ、概念の基礎となる定義の導入よりも、定理をつかって問題をガンガン解かせるほうが、問題を作りやすいに決まってる。
しかし、「試験問題を作りやすい」ということと、「数学の本質に近い」ということに相関関係はない。議論の土台となる出発点をおろそかにして、実践のみに価値を求めるような姿勢がありはしないか。
ちなみに現代数学では、ライプニッツ時代のような、直感的な無限小、無限大を用いるダイレクトな解析法も発見されている。この流儀では超実数という概念を使う「超準解析」という分野が進展している。
もし高校生がε-δ論法を習ったとしたら、「いや俺はあくまでも『無限』にこだわりたい」と意欲を燃やす学生がいると思う。まるで暴走族みたいだが、こうした高校生の意欲が、自力で超準解析の方法に辿り着く快挙に結びつくかもしれない。そういう可能性を拡げてあげることが、教育の方向性としては正しいのではないか。
どの教科でも、その学問が広く目指すものと、高校教育での指導目的の間には溝がある。「はさみうちの原理」は、そのひずみを如実に示すもののような気がしてならない。
左:アルベルト・スギ作『ノクターン1』(1998)
右:和田義彦作『ナイトクラブ』(2000)
洋画家・和田義彦氏、作品酷似で文化庁に調査うける
(SANSPO.com)
今春の芸術選奨で文科大臣賞を受けた洋画家の和田義彦氏(66)が、主な受賞理由だった昨年の展覧会に、知人のイタリア人画家の絵と酷似した作品を多数出展したとして文化庁が調査していることが28日わかった。
「盗作された」とする伊画家に対し、和田氏は「似た作品」と認めながら「同じモチーフで制作したもので、盗作ではない」と主張している。
酷似が指摘される作品は、昨春から三重、東京、茨城を巡回した回顧展の作品のうち少なくとも7点で、昭和56年から平成16年の制作。いずれもローマ在住の画家アルベルト・スギ氏(77)の作品と構図などが酷似しており、回顧展以外にも同様の作品が複数ある。
芸術選奨を主管する文化庁に今月、「和田氏の作品は盗作」という匿名投書があり、同庁が両氏から事情を聴くなどしている。「双方の言い分を検討し、必要なら専門家の判断を求める」(芸術文化課)とし、仮に和田氏の盗作が判明すれば「授賞見直しを検討せざるを得ない」という。
和田氏は「スギ氏とは長年の友人。同じモチーフで制作することは伝えてあった」とし「比べて見れば、違う作品だとわかる」と話している。だがスギ氏は、文化庁の調査で初めて事実を知ったといい「明らかな盗作だ」としている。
これは明らかに盗作だろ
友人だろうが何だろうが、盗作は盗作だ。これで和田氏はスギ氏に絶交されるだろう。そして日本人芸術家の評判が失墜することになる。本人がどう主張しようと、法的にどういう結論が出されようと、世界はこれを盗作と見なすだろう。
そもそもこれを盗作でないと主張するんだったら、一体この作品のどこに和田氏独自のオリジナリティーがあるのか。スギ氏が自作で成し遂げた以外の美術的貢献がいったいどの部分にあるのか。じっくり説明してほしいものだ。
日本の技術や製品が海外で無断コピーされている現状を強く世界に訴えるためには、そもそも日本国内でこういうパクリや盗作に対して毅然とした処置をとらねばなるまい。言い逃れようの無いレベルの盗作なのは明白だ。知的財産権に対する日本の姿勢が問われてると思って、文化庁は厳正な態度で望んでほしい。
川嶋あいがノーバン始球式
(Sponichi Annex)
歌手の川嶋あい(20)が25日、プロ野球のロッテ?阪神戦(千葉マリン)で始球式を務めた。試合前には、親交のあるロッテ・小林雅英投手(32)を訪れ、登板時のテーマ曲として書き下ろした「一秒の光」をプレゼント。「コテコテの応援ソングです」とCDを手渡すと、小林投手は「この歌のためにも、もう(救援は)失敗できないなあ」と苦笑。お返しに投球フォームのアドバイスを受けた川嶋は、ノーバウンドでキャッチャーに届くナイスピッチングを披露。
すみません見出しを激しく誤読しまして凄まじい期待感をもって渾身のクリックをしてしまいました。
だってホラ最近の始球式って こーゆーのとか こーゆーのみたいなイメージがあるもんで。
ペンギン命
takutsubu
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趣味。
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