たくろふのつぶやき

食欲の秋の季節がやってまいりました!o(^▽^)o

2005年01月

人のせい

津波警報なく「日本に失望」 タイ閣僚発言に大使館抗議


自国の災害警報を日本が出すべきだといわんばかりの姿勢。タイはいつから日本の属国になったんだ。ちなみにタイは日本からの津波援助を断ってます。援助を断るくらいなら警報がどうのこうのという話にはならんだろうに、姿勢が一貫しとらん。

言わされているのかも。背後に中国が見える気がするのは気のせいかな。
最近、アジア各国の外交モラルが激落ちしてるような気がします。

おこない

えー

読者のみなさま、お久しぶりでございます。たくろふです。


最近、"Diary"のカテゴリーでたくろふの日記があまり更新されておりませんでしたね。
ええ、理由は明白で


日記に書くようなことが何も起こってないからなんですが


むしろ油断して書くと爆発する地雷が一杯埋まってる風味というか。



冬休みが明けてアメリカに戻ってくるときに飛行機が遅れに遅れ、ひでー目にあったたくろふですが、その後にもいろいろと災難が続きまして。

いま、先のセメスターに書き上げた論文を手直しし、鍛え直し、パワーアップしてGeneral(←日本でいうと修士論文にあたるのかな)につなげようとゴリゴリと読み書きをしているところであります。しかも学会に提出する論文の締め切りも近くてかなりバタバタしてました。気がついたら春セメスターがいつのまにか始まってるし。とりあえず提出する論文をさっさと片付けようと思って、それにつきっきりでした。

よく、「日頃の行ない」という言葉がありますね。

なんか良いことが起こると「日頃の行ないが良いから」、悪いことが起こると「日頃の行ないが悪いから」などと言います。お天道さまはすべてお見通しといいますか、天網恢々粗にして漏らさずと云いますか、なんとなく人の行ないともたらされる結果はおおむね一致するのでしょうね。太陽

論理的ではありませんが、そういう「日頃の行ない」による功徳というのは、やはり有るような気がいたします。だから時差ボケを直す気もなくだらだらと昼夜逆転の生活を続けてたり、読まなきゃいけない論文を積んだまま放ったらかしていたり、授業の課題論文を前日になって慌てて読み散らかすようなことばっかりやっていると


論文提出直前にWordが吹っ飛ぶような事態に陥ります。


いや、
ほんと、
マジで


泣けますよ。

「マーフィーの法則」は確実にある。絶対にある。


僕は論文で多くの図や数式を使うので、しょっちゅうObjectを挿入します。
週末の昼間っから部屋にこもって、かたかたと論文を打ってましたらですね、

ぱち っと音がして

Wordがいきなり終了。

( ゚д゚)


再起動してみたら

保存できないし
数式が消えてるし
フォントが文字化けしてるし
PDFに変換できないし


(;゚д゚)


何が起きたの、俺のPowerbook!?
俺が一体何をした。


とりあえず論文を片付けるのが先ということで、バックアップをとってあった外付けHDからOSを起動させ、とっとと論文を先に終わらせました。
しかるのち、本体のアプリケーションを根こそぎ引っこ抜いて全取っ替え。


ええ、日頃の行ないを顧みたらですね

思い当たる節が

ありすぎまして(泣)。


これを機に、生き方を変える所存でございます。
あ、明日からね。とりあえず今日はパス。<このへんに原因が。

歴史から学ぶための能力

アウシュビッツ 内なる悪魔を忘れまい
(2005年1月30日 朝日新聞社説)
アウシュビッツ
(2005年1月31日 毎日新聞「余録」)


1月27日にアウシュビッツ解放60周年式典が行なわれた。

ナチス・ドイツによって作られた殺人工場。100万人以上のユダヤ人が虐殺された。人類の負の軌跡として世界遺産にも登録されている。普通に歴史を学んでいれば当然知っておかねばならない、常識の範囲だ。なかにはこういうバカもいるが言語道断というべきだろう。

しかし、僕はいつもこの「アウシュビッツの教訓」に懐疑的だ。
ほんとうに現在の歴史教育は、ナチスの誤謬を正しく教えてるのだろうか?

アメリカの新聞には、社説欄がふたつある。ひとつは新聞社の論説委員が執筆するeditorial、もうひとつは読者からの投稿によって意見発表が行なわれるopinion。これらの論説を読んでると、ことあるごとに話題になる特定のテーマがいくつかある。

そういうトピックのひとつに性差問題がある。男女差別、同性愛などテーマだ。おもしろいことにこれらのテーマについては主張内容に地域格差がある。僕はアメリカの新聞を東海岸から始めて中部、西海岸へと順に読んでいるが、東海岸の新聞はおおむね進歩的。それが内陸に行くに従って「同性愛などけしからん」などと保守的になっていく。そして西海岸になると再び進歩的な論調になる。海のある港町の新聞は多様な人が入り乱れるので様々な意見に寛容的になるんだろうか。

そういう性差問題によく見られる主張に、次のような論旨がある。


A.
「男女の差異は、しょせん生殖器官と多少の筋力の違いに過ぎない。世間でよく言われている差異、つまり攻撃的性格の有無、幼児の保育能力、空間把握能力、数学能力などというものは、教育環境や家族制度などの社会制度によって作られた後天的なものである。よって、男女の違いを先天的なものと決めつけて性行動や役割の性差を認めるべきではない」

B.
「最近の遺伝子研究で、男性のX染色体の先端近くにはXq28と呼ばれる領域があり、そこには同性愛者が高確率で共有する特定の遺伝子が発見された。今後、同等の遺伝子は女性にも発見されることが予想される。つまり同性愛は本人が後天的に選択したものではなく、遺伝子的に決定されてる性質なのだ。よって、同性愛を不道徳だとか堕落だとか非難するのは誤りだ」


このA、Bの論旨を批判し、論破できるだろうか。
もしできないのだとしたら、歴史からアウシュビッツの教訓を何も学んでないに等しい。

本当にナチス・ドイツの過ちを正しく学んだのなら、上のA、Bの論旨の誤謬を即座に指摘できるはずだ。しかし、どうも僕はそれを指摘できない人が、思いのほか多いのではないかという気がする。歴史を正しく学ぶということは、同じ過ちを繰り返さないように過ちの原因を正しく理解するということだ。アウシュビッツの位置を世界地図上で正しく示せるだの、ドイツ語、ポーランド語で正しく綴れるだのといった知識は、むしろ枝葉に属することだ。我々がアウシュビッツの歴史から学ぶべきことは、もっと他にあるのではあるまいか。

上のA、 Bの論理は、以下のCの論理と基本的に同一だ。


C.
「ユダヤ人は遺伝子的に劣等であり、アーリア民族は遺伝子的に優秀である。従って、劣等民族であるユダヤ人をはじめ非定住遊牧民族、少数民族、遺伝病患者など、生きる価値のない者はすべて優秀な民族によって淘汰されなければならない」


おわかりだろうか。


ナチス・ドイツが理論的基盤としていた優生学は、現在では完全否定されている。現在では民族間の遺伝子的優越性など存在しないことが明らかにされている。「ユダヤ人を遺伝子的に劣等である」という類いの思い込みが、民族差別のみならず多くの差別の原因になることは、常識に属することだ。ここではそんなことを問題にしているのではない。Cの論理の最も大きな間違いは、優生学的差別観にあるのではない。

Cの真の問題点は、「もしある特徴が先天的に決定されたものであるならば、それを根拠にしてことの善悪を判断しても良い」というロジックにある。ユダヤ人だのアーリア人だの、そういった要素はすべて具体例のひとつに過ぎない。本当の問題は、主張の裏にある普遍的な論理構造にある。

ナチスの場合は、まず前件の「ユダヤ人は遺伝子的に劣悪だ」が間違っているので、どうしても人の注意はそっちに向いてしまいがちだ。しかし、本当の過ちは、「ユダヤ人は遺伝子的に劣悪だ。ゆえに彼らを殺しても構わない」という帰結にある。

A、Bの論理は、「特徴が先天的か後天的か」を基準にしてことの良し悪しを判断しているという点が、Cのナチスの論理と同じなのだ。仮に、レイプ事件を起こす男性犯罪者に共通の遺伝子が発見されたとしよう。もしそうだったら「先天的形質によるものだからレイプは非難できず、容認するべきである」ということになるだろうか。もし仮に男女の能力差を決定づける遺伝子が発見されたら、男女差別は許される、ということになるだろうか。同性愛者の遺伝子の発見が実は誤りだった、という可能性もある。もしその遺伝子が偽物だったら、即座に「やはり同性愛は排斥するべきである」ということになるだろうか。

ナチスの場合はまず「ユダヤ人は遺伝子的に劣悪だ」という事実認識が激しく誤っていたため、多くの歴史教育の現場ではそれを指摘するにとどまっているだけではあるまいか。その奥に潜む、本当に大切な、「事実と価値判断は、論理的に結びつくものではない」ということが教えられないままになっていたのではないか。ナチスの過ちは「ユダヤ人は遺伝子的に劣悪だ」と決めつけたことだけにとどまらない。もし仮に、本当にユダヤ人が遺伝子的に劣悪だったとしても、それを悪と決めつけ虐殺するなど言語道断なのだ。

先天的か後天的か、自然なのか人工のものなのか、そういった基準に基づく善悪の価値判断は非常に脆い。事実と規範を混同しているからだ。「事実としてそうであること」と、「その事実が好ましいものであること」の間には、論理的な必然性は全くない。

「遺伝子的に決定されてるから善」「生後の獲得形質だから悪」「白は善で、黒は悪」「丸は良く、バツは悪」「なめらかなのは美しく、でこぼこなのは醜い」など、所属、由来、形質、色彩などに基づいて道徳的、美的な価値観を決定する立場を「自然主義」という。アウシュビッツが最も伝えなければならない教訓は、「『自然主義』は誤謬である」ということに他ならない。

フェミニズムやジェンダーフリーを安易に振りかざす人々の主張の中に、いまだにA、Bのような論旨があって唖然とすることがある。歴史から過ちを学ぶとは、遺跡を見学すればそれで済む話ではない。本質を見極める論理的思考能力がなくては、いくら年号を覚えても人名を覚えても、ザルで水を掬ってるようなものだろう。何も学んでいないに等しいのではあるまいか。 続きを読む

カンカンカン

歩く騒音公害
(2005年1月30日 毎日新聞「余録」)


そういえば日本にはそういう音があったね。 続きを読む

半額

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いや、半分だから半額って、そーゆー話なのか?
ペンギン命
ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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