たくろふのつぶやき

お鍋には熱燗をつけてくれたまへ。

2004年06月

実家にあるCDを片っ端からMP3に変換してマイベスト作成中。

アメリカではCDを買わない。ぜんぶi-Tuneでダウンロードできる。「このアルバムほしいな」と思ったら即ダウンロード。だいたいアルバムだったら一枚3ドル程度。1曲をバラで買いたいときは一曲99セント。100円くらいだから日本のレンタルCDで借りるよりも安い。

ところが日本ではi-Tuneでのダウンロードサービスをやってないらしく、欲しいJ-PopはことごとくCDからMP3に変換しなきゃならない。不便だなぁ。まぁ一枚2分くらいで焼けるけど。

ちょっと昔の曲になったらCDを売ってない場合があって、そーゆー時がすごく困る。最近、D-LOOPのベストが出たらしいですね。僕は昔から"Love me tender"という曲がものすごく好きなので兄に買わせて録ったんですが、アレンジがシングルと違うんだよなぁ。誰か中古でもいいからシングル持ってませんかね。

で、実家にはむかしの曲を集めたBOX-CDがあるので、片っ端から録ってます。

えー、プレイリストの最初のほうだけ見ても

「まちぶせ」
「異邦人」
「ビューティフル・ネーム」
「夢一夜」
「雨音はショパンの調べ」
「防人の詩」
「恋のバカンス」
「秋止符」
「大都会」
「ルビーの指輪」
「夏休み」
「男は大きな河になれ」
「我が良き友よ」






なぜこんなに昭和なのか。





ちなみに「恋のバカンス」は辻加護バージョン。

「屁理屈」という言葉がある。

いったいどういう意味だろう。よく大人が子供を説教するときに、子供が口答えするときに「うるさい、屁理屈を言ってるんじゃない」などと説教をする・・・というのがよくある使い方だろう。

広辞苑で調べると、屁理屈とは「つまらぬ理屈。道理にあわない議論」という語義が載っている。広辞苑にしては淡白な定義だ。ある理屈が面白い、つまらないなどとどうやって決めるんだろう。

そもそも「理屈」とはどういう意味か。一般的には良い意味でも悪い意味でも使われているようだ。「理屈に合う」などというときにはいいもんだし、「理屈をこねる」などという時には悪い意味だろう。

辞書には二系統の意味が載っているようだ。

(1)物事の筋道、道理、ことわり
(2)こじつけの理由。現実を無視して条理、また、それを言い張ること。

それぞれが、いい意味、悪い意味に対応している。

ところが「屁理屈」という語彙には、まぁ、いい意味はない。そもそもの「理屈」に上記(2)のごとく悪い意味があるのだとしたら、悪い意味での「理屈」と、「屁理屈」という言葉にはどういう意味の違いがあるのだろう。

僕が思うに、理屈というのは「現実に即さず、机上の空論だけで成り立つ推論」ではあるまいか。ひとつひとつの論の連鎖には論理上の矛盾はないが、全体としてみてみると実際問題としてありそうにない。そういった「現実を無視した論旨」のことを「理屈」というのではあるまいか。

「風吹けば桶屋が儲かる」という落語みたいな言葉がある。

風が吹く

砂が飛んで人の眼に入る

盲人が多くなる

三味線の需要が増える

原料の皮が必要になるためネコが減る

天敵が減ってネズミが増える

ネズミが桶をかじるようになる

桶屋が儲かる。


まぁ、ひとつひとつのつながりだけ見ればそうなのかも知れないが。実際にそうなるかと言えばそうじゃないわけで。こういうのを「理屈」というのだろう。

では「屁理屈」とは何か。
僕の直感だが、「屁理屈」というのは、そもそも話者が意図していること、会話のスコープとなる前提を一切無視し、会話の前提と関係ない理屈を引っ張ってきて自己の正当性を主張しようとすること、ではあるまいか。

子供が親にゲームボーイアドバンスを買ってもらおうと思ってねだってるとする。実は僕も欲しい。親はあきらめさせようとして、いろいろと根拠を挙げる。


「だってさ、ゲームボーイって面白いんだよ」

「いかんいかん。第一、高いじゃないか。それにソフトだって次から次に欲しくなるだろうし。それにそんなの買ったら勉強しなくなるだろ。今はゲームボーイよりもすることがあるだろう。しかもあんな小さい画面、眼に悪いぞ。視力が悪くなったらどうするんだ。ゲームボーイなんて買ってもいいことなんてなーんもありゃせんぞ。」

「そんなことないよ。今、日本は景気が悪いんだよ。」

「・・・?」

「景気を良くするためには、みんながお金を使わなきゃいけないんだよ。ゲームボーイは高いし、ソフトだって買わなきゃいけないけど、そうやってお金を使えば日本の景気が良くなっていくんだよ。父ちゃんはゲームボーイを買ってもいいことなんてなんもないって言うけど、そんなことないよ。日本の景気を考えれば買うことはいいことなんだよ。」


と、まぁ、こういうのが「屁理屈」だろう。
父親が「ゲームボーイを買うことはいいことではない」という根拠は、ひとえに子供一人の成長過程を鑑みての言葉だ。ここで話題になるのは、当該の子供ひとりにとって良いか悪いか、である。それが「会話のスコープ」となっている。ところがそれに反論する子供は、その会話の前提を外れて「日本の景気」などという、会話の前提の外にある事例を根拠として持ち出している。こういう、そもそも会話がどのレベルを話題としいいて行われているのかを無視してとんでもないところから根拠を持ち出し自分の主張を正統化するような物言いが「屁理屈」だろう。

だから父ちゃんの立場からすれば、ゲームボーイ購入が日本の景気に及ぼす影響の議論などに付き合う必要はない。「屁理屈言っとるんじゃない。今、日本の景気の話なんかしとらん!」と一喝すればいい。あくまでも話題の土俵の上で話をすればいいのであって、場外乱闘を目論む子供の屁理屈に付き合ってはなるまい。

すなわち、「今、そんな話をしてるんじゃない」というのが屁理屈だろう。屁理屈も理屈のひとつだから、一応論理の筋は通っている。ところが日常会話においては「論理の筋が通ってる」イコール「妥当な言明」というわけではない。会話には話題の領域というものがある。その領域を無視して「理屈は通ってるぞほれほれ」という物言いが「屁理屈」だろう。

そういえば最近、理屈をこねてないなぁ。

ちょっと前に、和歌の技法「折句」について書いた事があった。

高校の教科書なんかを見ると、折句が出てくる定番は、おおむね『伊勢物語』第九段。俗に「東下り」と言われる物語らしい。

主人公(おそらく在原業平)が失恋し、傷心旅行に東へ向かう。友人どもが2, 3人同行し、やいのやいのと旅をしているうちに三河(愛知県)の八橋まで辿り着いた。そこに咲いていた美しいかきつばたを見た一行は、主人公に「かきつばたをネタに歌でも詠めよ」と迫る。しかも注文付きで、「かきつばたという五文字をそれぞれの句の上に据えて詠め」とのこと。

主人公はそれを受けて立ち、歌を詠む。

らごろも
つつなれにし
ましあれば
るばるきぬる
びをしぞおもふ

この歌がよく教科書にとり上げられるのは、折句だけではなく他の技巧が乱れ撃ちに使われている修辞カタログみたいな歌であるかららしい。「唐衣」は「着る」の枕詞、「唐衣来つつ」が「馴れ」の序詞。「唐衣、着、馴れ、褄、張る」が着物の縁語。「つま」は「妻」と「褄」の掛詞。「はるばる」が「遥々」と「張る張る」の掛詞。

よくこんな歌を作れるなぁと思う。僕自身、枕詞や序詞、掛詞などはなんとなく使えるような気がするが、折句に至ってはどうやって作るのか想像もつかない。

僕が和歌を読んだり(←「詠んだり」じゃないぞ。詠めないから全く)、文学作品などを読んだりするときに一定の評価の基準になるもののひとつに、「作り方のプロセスが見えるか、見えないか」というのがある。いかな世間の評判の高い作品であろうとも、「ははぁ、たぶんこのネタが出発点になったんだな」というプロセスが見えるものはあんまり感銘を受けない。僕は松本清張をあまり高く評価してないが、それは読むと物語を組み立てたときのプロセスが分かるような気がするからだ。『点と線』だったら「東京駅のホームには一日でたった4分間、3つのホームを見通せる時間がある」、『砂の器』だったら「東北地方の一部と中国地方の一部で、偶然に同じ語彙を使う方言がある」、というあたりがネタのおはじめだったのではなかろうか。そういった雑学的知識を強引に推理小説につなげている気がする。牽強付会の観が甚だしく、全体的に統一された完成度というものをあまり感じない。ひとつの小ネタのインパクトだけがいびつに膨らんだ作品に見える。

一方、「これ、どうやって書いたんだろう」という作品には正直に感嘆する。なんというか、同じ人間の頭脳でありながらその頭の回転の仕方が想像できないとなんとなく落ち着かない。折句はその最たるもので、やれと言われても僕自身がどうやればいいのかさっぱり分からない。こういう言葉の修辞を操れる人というのは、どうやって歌を詠んでいるのだろう。

つねづねそのことを疑問に思ってたら、俵万智さんが『恋する伊勢物語』(ちくま文庫)という本でその種明かしをしてくれていた。この本は『伊勢物語』をひとつの恋愛物語としてわかりやすく説きあかしてくれる本で、書体もやわらかく非常に読みやすい。古典に親しむ上では絶好の入門書だと思う。

僕にとっては折句など「守らなくてはいけないチョー厳しい制約」としか感じられなかったが、俵万智さんは、いや、そうではない、と説く。歌人は折句の制約を、「窮屈な制約と考えるのではなく、言葉を切り取る剣として使う」。

「かきつばた」の歌に関しては、まず「か・き・つ・ば・た」のつく言葉をまず考える。おそらく「つ」のつく「妻」、「た」のつく「旅」あたりが真っ先に思い浮かんだのではなかろうか。「妻」を使うんだったら、それの前につく言葉としては枕詞や序詞がてっとり早い。そこで「か」のつく枕詞を考えると「からごろも」が浮上。都合良く「からごろも」の直後には「着る」がくるから、「き」もクリア。「旅」があるんだったら「はるばる」を見つけるのはそう難しくはない・・・。

こう考えると、「か・き・つ・ば・た」という制約があったのに歌が作れる、のではなく、そういう条件があったからこそこれらの言葉が有機的に結びつくことができたのだ、と俵さんは説明する。


なるほどねぇ。


やたらめったら歌を作ってそれに条件をフィルターとしてかけるんじゃなくて、条件そのものからアプローチすることによって最初に大きく外枠を決めてしまう、というプロセス。こういう思考過程もありなんだろう。

東京の街を歩いていて思うのは、ビルの谷間などの狭い場所にうまーくスペースを使った隙間建築が多いこと。アメリカの空間を無視したおおらかな建築様式を見慣れてると東京の建築様式は神業に見える。あれとて、「建物を立てるときに、狭い場所の制約に従う」のではなく、「そもそも限られたスペースに建てることを前提に設計する」のだろう。そもそも制約があるのであれば、その制約を逆手にとって基本的な枠組みをまず確保してしまう。それが出発点であれば、制約と本来の目的がぴったりとかみ合った作品ができるのだろう。

論文を書くときに、「なんでもいいから自分の好きなテーマで書いてごらん」と言われると途方に暮れる学生が多い。しかし、たとえば「二重目的語構文について従来の研究を批判してごらん」などと条件つきで課題を出されると、具体的に何から始めればいいのかが明らかなので論文が書きやすい。蓋し、条件というのは制約になって自由を束縛するだけではなく、一定の枠を提供し具体的な指針を定めてくれるものにもなり得るらしい。


『恋する伊勢物語』の中で、俵さんが感心したという十代の歌人の歌が紹介されている。

リスマス
んりん響く
ずの音を
ったく無視して
タディーハード

さぁ、この歌はどこから始まってどうやって作られたんだろう。

何もしない人ほど批評家になる


なるほど。おもしろいねぇ。

どのような人が、心のストレスに弱いか。一言でいえば完全主義な人です。,,, ひとたび、挫折を体験すると、もろくも崩れさってしまう弱さがあります。「まじめさ」と、「もろさ」は、出所は心理的に同じなのです。

「自分に自信がない人ほど、高い目標を持ちやすい」それは、自分に自信がないと、スゴイ事をして、周囲から認められたい心理が働くからです。こういう人は、仕事で、成功すると有頂天になりやすく、仲間への感謝やねぎらいの言葉がありません。



妙に納得。こういう人、いたなぁ。


僕の個人的な経験では、精神的に不安定な人ほど、他人にどう思われているかを異常に気にする傾向があったような気がする。誰が自分をどう思ってようが別にどーでもいいじゃんねぇ。

多くの人々から、素敵なリプライをもらいます。でも、一部の人ですが、恐ろしく攻撃的なリプライもあり驚かされます。「何言ってるんだ。お前が考えるほど組織は甘くない。バーカ!」これは意見と言うものではなく、何かに苛立っている。
 「この人は何に苛立っているのだろう?」と正直、首を傾げたくなるほどに感情的です。この人は、なぜ、一つの意見、一つのモデルパターンとして「サラッと、とらえることが出来ないのだろう」と残念な気持ちになります。すっーと聞き流せないくらい無意識で何かが許せないのです。




あーはっはっはっはっは

今回の記事には2点、推理小説のネタばらしが含まれてます。本格派推理小説ファンは読み飛ばしてください。推理小説のエチケットには反するけど両作品とも著名な作品なので許してねハート


今日も今日とてシャーロック・ホームズ三昧。
「まだらの紐」はやっぱり名作だと思う。

蛇は耳がほとんど聞こえないので口笛では呼び戻せないとか、蛇はは虫類でミルクは飲まないとか、いろいろとつじつまが合わないところはあるがまあそれはよかろう。事件をおこす犯人を待ち伏せる恐怖の張り込みの夜の緊迫感がこの作品の命だろう。

そうはいっても、この話には最初から気に入らないところがある。原作者のコナン・ドイルが悪いのではない。翻訳の工夫がほしいところだ。
それは題名。

「まだらの紐」の原作名は「スペクルト・バンド」という。実は、この題名は掛詞になっており、ふたつの意味がある。「バンド」というのは「ひも」という意味の他に、「集団、一団」という意味がある。ギターにベース、ドラムにキーボード、ボーカルの「バンド」だ。

つまり「スペクルト・バンド」という題名には、「まだら模様の紐」という意味と、「だんだら模様の服を着た集団」というふたつの意味があるのだ。実際、原作のなかでは事件のおきた家の付近に怪しげなジプシーの一団が野営しており、彼らの犯行でないかと疑われている。題名を原作で読むと、題名そのものがひっかけになっているように作られているのだ。作品の冒頭で犠牲者となる女性の最後の言葉は「ス、スペクルト、バンド...」だが、この言葉もどっちの意味かがわからないようになている。

ところがそれを日本語に訳すと、「まだらの紐」。どっちの意味が正解かをバラしてしまっている。「スペクルト・バンド」という題名そのものが英語の掛詞なので、そもそもこの題名は和訳不可能ということだろう。そのことがこの物語を翻訳で読むつまらなさの原因になっている。このように、ある言語で掛詞をつかると、基本的にその物語は他の言語に翻訳不可能ということになろう。

横溝正史に『獄門島』という作品がある。鐘の下敷きになったり逆さ吊りにされたりと猟奇的趣味の強い作品だ。この作品にも、翻訳不可能な掛詞が謎解きのキーになっている。
とある旧家の三人娘が次々に殺される。そのなかのひとり、花子はお寺の梅の木に逆さ吊りにされて殺されていた。それを見た住職の坊主が

「きちがいじゃが仕方がない」

とつぶやく。それを金田一耕助が小耳に挟み、住職に問いただす。「きちがいだから仕方がない」だったら話は分かるが、「きちがいじゃが仕方がない」とはどういうことか。それを問われた住職は、くわっと大きな眼をむき、痙攣したようにその場に突っ伏し、無言のまま肩を震わせた。

実はこの連続殺人は俳句を踏まえたものだった。件の逆さ吊り殺人も、其角の「鶯の身をさかしまに初音かな」に見立てたものだ。鶯は春の季語。俳句は春の句でありながら、殺人は秋に起きている。住職は「季違いじゃが仕方がない」とつぶやいたのだ。金田一耕助はそれを「気違いじゃが仕方がない」と勘違いした。その言葉を問われた住職は涙にむせび慟哭していたのではない。金田一耕助の勘違いに大爆笑したいのを懸命にこらえ隠していたのだ。

「気違い」そのものが社会的にかなりギリギリの日本語だろう。むしろアウトかもしれない。しかも、日本語の掛詞をつかっているため、いかな名作といえどこの作品は翻訳不可能だ。俳句を使っている時点でかなり翻訳は厳しいが、掛詞を使うに至って完全に不可能と言える。

こういう、言葉そのものにトリックのある本はどうやってもその面白さを訳すことができない。映画の「オースティン・パワーズ」など、字幕で見たってちっとも面白くあるまい。あの映画の下品な言葉遊びの面白さはとうてい訳せるもんではない。

語学を勉強するのに、「そういう作品の妙を味わうため」というのはいい動機づけかも。

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