きょうはちょっと珍しい話題を。
えー、恋愛。
この「たくろふのつぶやき」では恋愛ネタや色恋ネタが少ないが、それはたくろふが恋愛に興味がないからというわけではない。たくろふも人並みには恋愛に興味があるし、清く正しい女好きだ。
ところが、恋愛というのは強度に情緒的な概念であり、言葉で表現するには不適当な情だと思う。言葉で切り取れる程度の恋愛などたいした恋愛ではないと思う。Blogという媒体で僕が好んでネタにするのは、思索をもとに言葉で論理を整合させることがフィットする素材が多いわけだ。僕自身、どちらかというと「恋に焦がれてなく蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす」を信条にしている。
国分町でお姉ちゃんを口説いてる僕を目撃したことがある者は目の錯覚だから速やかに忘れなさい。
で、恋愛。
よく「恋と愛はどう違うの?」という質問がある。僕もそれぞれの時期にそれぞれの答え方というか、消化のしかたがあった。
中学生のときは「『心』が真ん中にあるのが愛。下心が恋。」
生意気なガキだ。
高校の頃は「恋は打ち上げ花火のように華々しく、そして儚いもの。愛は気がつけばそこにあるもの。」
ミスチルは半年ほど聴いてた。
大学生の頃は「恋は晴れ、愛は褻。」
これは一番思ってた時期が長かった。今でもちょっとそう思う。
大学院に入ってからは「相手のために死ねるのが恋、相手のために生き抜くのが愛。」
死ぬことによって他人に与えられるものなど何もないと思い始める。
で、現在僕がよく恋と愛の境界として考えるのが、「セルフコントロール」。
思うに、愛とはセルフコントロールを保った上での情動で、恋とはこの制御を失うことではあるまいか。己を忘れるほど相手にのめり込むのが恋で、自分をしっかりと保ったまま自分と相手でココロを通わすのが愛ではなかろうか。相手に会いたくなったら、理由などない、すべてを投げ出して相手のもとへ一目散に走るのが恋だと思う。メリット、デメリットを比較した上で判断した結果、自分のトクが多いと判断して相手のもとへ行くのは恋とは言うまい。
「結婚は人生の墓場」ではなく、結婚は「恋の墓場」ではあるまいか。結婚して一緒に生きていくようになると、きれいごとばかり言っていられまい。生活上の様々な問題に対処するためには、相手に我を失うほどのめりこんでいては生活に支障があるだろう。夢見てないで目を覚まし、地に足をつけて、自分をしっかりと保ったまま、相手と自分の将来を考えられる必要がある。
須く、相手を想うあまり自分のすべきことも手につかず、恋する人のことが一日中自分を支配する状態が、「恋」だろう。
僕は精神疾患を、「情緒的振幅の幅が大きく揺れ過ぎ、日常生活や仕事に支障をきたす状態」と定義している。鬱病をはじめ、精神的に不調を被っている人はよく泣く。「泣く」というのは自分のコントロールできる限界を越えて情が揺れ動いたときの症状だ。
情緒の振幅をグラフで表すとする。プラスマイナスがゼロの状態が安定。プラスが躁状態、マイナスが鬱状態。この振幅が自分でコントロールできないほど大きくうねりすぎるのが、いわゆる精神疾患だと思う。景気と同じで、己の本分を全うするには、すべからくこの情緒的振幅の差は少ないに越したことはない。
鬱病のようなマイナス振幅だけでなく、プラスにおおきくうねりすぎる落ち着きを欠く気分も、ひとつの疾患だと思う。それが恋だと思うのだ。恋に我を忘れて勉強が手につかない生徒など中学校、高校に山のようにいるだろう。それは日常生活に対する支障であり、疾患と言っていいと思う。昔から言われるように、恋につける薬はないらしいので、我を取り戻すのを待つしかないのだろう。
そう考えると、「愛」というのは「恋」があってはじめて、その対比概念としてのみ意味を持つような気がする。つまり精神的振幅の差が少なく、自分をコントロールし人間関係を円滑に保つ精神状態。普通じゃん。「愛」とは「恋」があってはじめて意味をもつものであり、恋なしに「愛」だけの意味を問うても、その実体は空虚な日常に過ぎないと思う。
というわけで今のたくろふの定義。
「恋は精神疾患。愛などない。」
ああほらほら、引かない引かない。
えー、恋愛。
この「たくろふのつぶやき」では恋愛ネタや色恋ネタが少ないが、それはたくろふが恋愛に興味がないからというわけではない。たくろふも人並みには恋愛に興味があるし、清く正しい女好きだ。
ところが、恋愛というのは強度に情緒的な概念であり、言葉で表現するには不適当な情だと思う。言葉で切り取れる程度の恋愛などたいした恋愛ではないと思う。Blogという媒体で僕が好んでネタにするのは、思索をもとに言葉で論理を整合させることがフィットする素材が多いわけだ。僕自身、どちらかというと「恋に焦がれてなく蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす」を信条にしている。
国分町でお姉ちゃんを口説いてる僕を目撃したことがある者は目の錯覚だから速やかに忘れなさい。
で、恋愛。
よく「恋と愛はどう違うの?」という質問がある。僕もそれぞれの時期にそれぞれの答え方というか、消化のしかたがあった。
中学生のときは「『心』が真ん中にあるのが愛。下心が恋。」
生意気なガキだ。
高校の頃は「恋は打ち上げ花火のように華々しく、そして儚いもの。愛は気がつけばそこにあるもの。」
ミスチルは半年ほど聴いてた。
大学生の頃は「恋は晴れ、愛は褻。」
これは一番思ってた時期が長かった。今でもちょっとそう思う。
大学院に入ってからは「相手のために死ねるのが恋、相手のために生き抜くのが愛。」
死ぬことによって他人に与えられるものなど何もないと思い始める。
で、現在僕がよく恋と愛の境界として考えるのが、「セルフコントロール」。
思うに、愛とはセルフコントロールを保った上での情動で、恋とはこの制御を失うことではあるまいか。己を忘れるほど相手にのめり込むのが恋で、自分をしっかりと保ったまま自分と相手でココロを通わすのが愛ではなかろうか。相手に会いたくなったら、理由などない、すべてを投げ出して相手のもとへ一目散に走るのが恋だと思う。メリット、デメリットを比較した上で判断した結果、自分のトクが多いと判断して相手のもとへ行くのは恋とは言うまい。
「結婚は人生の墓場」ではなく、結婚は「恋の墓場」ではあるまいか。結婚して一緒に生きていくようになると、きれいごとばかり言っていられまい。生活上の様々な問題に対処するためには、相手に我を失うほどのめりこんでいては生活に支障があるだろう。夢見てないで目を覚まし、地に足をつけて、自分をしっかりと保ったまま、相手と自分の将来を考えられる必要がある。
須く、相手を想うあまり自分のすべきことも手につかず、恋する人のことが一日中自分を支配する状態が、「恋」だろう。
僕は精神疾患を、「情緒的振幅の幅が大きく揺れ過ぎ、日常生活や仕事に支障をきたす状態」と定義している。鬱病をはじめ、精神的に不調を被っている人はよく泣く。「泣く」というのは自分のコントロールできる限界を越えて情が揺れ動いたときの症状だ。
情緒の振幅をグラフで表すとする。プラスマイナスがゼロの状態が安定。プラスが躁状態、マイナスが鬱状態。この振幅が自分でコントロールできないほど大きくうねりすぎるのが、いわゆる精神疾患だと思う。景気と同じで、己の本分を全うするには、すべからくこの情緒的振幅の差は少ないに越したことはない。
鬱病のようなマイナス振幅だけでなく、プラスにおおきくうねりすぎる落ち着きを欠く気分も、ひとつの疾患だと思う。それが恋だと思うのだ。恋に我を忘れて勉強が手につかない生徒など中学校、高校に山のようにいるだろう。それは日常生活に対する支障であり、疾患と言っていいと思う。昔から言われるように、恋につける薬はないらしいので、我を取り戻すのを待つしかないのだろう。
そう考えると、「愛」というのは「恋」があってはじめて、その対比概念としてのみ意味を持つような気がする。つまり精神的振幅の差が少なく、自分をコントロールし人間関係を円滑に保つ精神状態。普通じゃん。「愛」とは「恋」があってはじめて意味をもつものであり、恋なしに「愛」だけの意味を問うても、その実体は空虚な日常に過ぎないと思う。
というわけで今のたくろふの定義。
「恋は精神疾患。愛などない。」
ああほらほら、引かない引かない。