女児略取ーよりによって警官とは
(2004年2月24日 朝日新聞社説)
朝日の社説によくある書き方だ。
誰にでも書ける。
この社説で論じていることは、畢竟、「警官がこんなびっくりする事件を起こしました。警察の体制は何をやっているんでしょう」というだけのことだ。感想文のレベルである。
社説とは、「事実を伝えるのが使命」の報道機関が、特定の社会事象に対し、社としての立場と見解を伝えるものだ。そこでは論理を一貫させ、筋道の通った議論を展開するべきだ。ともすれば論理的な文章に触れる機会のない人々に、「なるほどこう言われると一理ある」と論理的思考のお手本となるようなものでなければなるまい。また、普通の人が気づかない視点や切り口から事象を見ることの大切さも、社説が重視しなければならない点だろう。ひとつの事件に対し、誰もが思うことをつらつらと並べるだけではなく、多くの人が見落としがちな陥穽を指摘し、多面的な視野を持つことの重要性を啓発する役割も期待したい。
で、今回の女児略取事件についての社説である。
始めの6段落は、要するに事件のあらましの紹介だ。こんなに行数をかけることはない。この内容は1段落で足りる。非常に字数稼ぎの印象を受ける。
真ん中の、問題の警官についての疑問は、朝日に特徴的な意味の無い指摘だ。「私生活が乱れたり、勤務態度が悪くなったり、といった予兆はなかったのだろうか」はないだろう。勤務態度も良好、私生活も問題のない警官が起こした事件だからこそ衝撃的なのだ。そういう特殊性を無視している。朝日の社説には、「今回の事件は、大部分の不祥事と同様に、私生活の乱れや勤務態度に注意を払っていれば防止できたものですよ」という前提がある。はたしてそうだろうか。大部分の不祥事はそれで対処可能だろうが、今回の女児略取事件は、そういう従来の姿勢では決して萌芽を摘み取りにくい類いの不祥事なのではないか。そもそも今回の事件が特記に値する特殊性を無視し、議論すべき段階を一段下げるような不毛な内容だ。少年犯罪然り、公務員の不祥事然り、日常生活や外面に問題なく見える「まさかあの人が」という人の起こす類いの犯罪に対処する為には、従来の犯罪防止の認識とは違うレベルの意識に基づく相互監視のあり方が必要だ。「いままで通りの管理体制とは違った、別種の視点からの管理も必要なのではないか」ということこそ指摘すべき点だろう。
しかも、社説の最後に至っては、「警察よ、そんなんで大丈夫かね」のようなため息をつくだけで終わっている。そんなこといちいち社説に書くな、と言いたい。この事件をもとに新聞社が最も世間に問うべきことは何か。その最も重要なポイントが一行も書いてない。
今回の事件を通して、朝日が世に問うべき最も重要なことは、「地域と警察がどう付き合うかを再考する必要性」の提言ではあるまいか。この事件後も毎日毎日、子供たちが危険にさらされる犯罪は起こりうる可能性がある。そんな中、早急に地域住民が認識しなければならないことは、「自分たちの中で警察をどのように位置づけ、犯罪防止のために警察とどのように連携するか」を改めて考え直すことだろう。今回の事件の持つ意味は、「今まで盲信的にその位置づけを疑わなかった警察も、絶対ではない」という明白な事実を通し、それを踏まえて今後の地域住民の防犯のあり方を再考する契機となり得ることだ。それを書かずして何を書くか。朝日の書き方は、「地域住民は今まで通り、なにも意識を新たにする必要はありませんよ。警察がしっかりしてくれればいいだけの話です」という態度だ。のんきすぎはしないか。
一貫するほどの論理もない。提言するほどの主張もない。事件から真に見いだすべき意義も見落としている。全く意味の無い社説だ。レベルが低すぎる。
大学入試によく出る新聞なんでしょう。
論理的思考の訓練をする中高生に、この社説を要約させてみたい。
「おまわりさんがわるいことをしました。いいひとだったのにびっくりしました。こういうことはよくないです。けいさつはしっかりしてほしいとおもいます」
とでも書ければ満点だろう。
(2004年2月24日 朝日新聞社説)
朝日の社説によくある書き方だ。
誰にでも書ける。
この社説で論じていることは、畢竟、「警官がこんなびっくりする事件を起こしました。警察の体制は何をやっているんでしょう」というだけのことだ。感想文のレベルである。
社説とは、「事実を伝えるのが使命」の報道機関が、特定の社会事象に対し、社としての立場と見解を伝えるものだ。そこでは論理を一貫させ、筋道の通った議論を展開するべきだ。ともすれば論理的な文章に触れる機会のない人々に、「なるほどこう言われると一理ある」と論理的思考のお手本となるようなものでなければなるまい。また、普通の人が気づかない視点や切り口から事象を見ることの大切さも、社説が重視しなければならない点だろう。ひとつの事件に対し、誰もが思うことをつらつらと並べるだけではなく、多くの人が見落としがちな陥穽を指摘し、多面的な視野を持つことの重要性を啓発する役割も期待したい。
で、今回の女児略取事件についての社説である。
始めの6段落は、要するに事件のあらましの紹介だ。こんなに行数をかけることはない。この内容は1段落で足りる。非常に字数稼ぎの印象を受ける。
真ん中の、問題の警官についての疑問は、朝日に特徴的な意味の無い指摘だ。「私生活が乱れたり、勤務態度が悪くなったり、といった予兆はなかったのだろうか」はないだろう。勤務態度も良好、私生活も問題のない警官が起こした事件だからこそ衝撃的なのだ。そういう特殊性を無視している。朝日の社説には、「今回の事件は、大部分の不祥事と同様に、私生活の乱れや勤務態度に注意を払っていれば防止できたものですよ」という前提がある。はたしてそうだろうか。大部分の不祥事はそれで対処可能だろうが、今回の女児略取事件は、そういう従来の姿勢では決して萌芽を摘み取りにくい類いの不祥事なのではないか。そもそも今回の事件が特記に値する特殊性を無視し、議論すべき段階を一段下げるような不毛な内容だ。少年犯罪然り、公務員の不祥事然り、日常生活や外面に問題なく見える「まさかあの人が」という人の起こす類いの犯罪に対処する為には、従来の犯罪防止の認識とは違うレベルの意識に基づく相互監視のあり方が必要だ。「いままで通りの管理体制とは違った、別種の視点からの管理も必要なのではないか」ということこそ指摘すべき点だろう。
しかも、社説の最後に至っては、「警察よ、そんなんで大丈夫かね」のようなため息をつくだけで終わっている。そんなこといちいち社説に書くな、と言いたい。この事件をもとに新聞社が最も世間に問うべきことは何か。その最も重要なポイントが一行も書いてない。
今回の事件を通して、朝日が世に問うべき最も重要なことは、「地域と警察がどう付き合うかを再考する必要性」の提言ではあるまいか。この事件後も毎日毎日、子供たちが危険にさらされる犯罪は起こりうる可能性がある。そんな中、早急に地域住民が認識しなければならないことは、「自分たちの中で警察をどのように位置づけ、犯罪防止のために警察とどのように連携するか」を改めて考え直すことだろう。今回の事件の持つ意味は、「今まで盲信的にその位置づけを疑わなかった警察も、絶対ではない」という明白な事実を通し、それを踏まえて今後の地域住民の防犯のあり方を再考する契機となり得ることだ。それを書かずして何を書くか。朝日の書き方は、「地域住民は今まで通り、なにも意識を新たにする必要はありませんよ。警察がしっかりしてくれればいいだけの話です」という態度だ。のんきすぎはしないか。
一貫するほどの論理もない。提言するほどの主張もない。事件から真に見いだすべき意義も見落としている。全く意味の無い社説だ。レベルが低すぎる。
大学入試によく出る新聞なんでしょう。
論理的思考の訓練をする中高生に、この社説を要約させてみたい。
「おまわりさんがわるいことをしました。いいひとだったのにびっくりしました。こういうことはよくないです。けいさつはしっかりしてほしいとおもいます」
とでも書ければ満点だろう。