たくろふのつぶやき

この夏、またしてもお化けを捕まえ損なった。

2004年02月

あたりまえ

2足す2は?

答えは4。あたりまえですね。
では、なぜ4なんだろう。
子供に、「なんで2足す2は4なの?」と聞かれたらなんとしよう。

発明王、トーマス・アルバ・エジソンはこの問題に固執したため小学校を退学になった。小学校の算数の時間で、なぜ2足す2が4なのかをしつこく質問する。小学校の先生は「理解力なし、集団教育に対応する能力に欠ける」と判断し、母親に家庭での教育を薦めた。

レベルが違いすぎた、と言わざるを得ない。小学校の先生レベルでは、少年エジソンが疑問に思ったことに答える技量がなかったのだろう。それどころか、エジソンが何を疑問に思っているのかすら理解できなかった。

エジソンは2足す2の計算問題の答えが出せなかったのではない。正確には、「2足す2が絶対に4にしかならず、他の答えにはなり得ない理由」に疑問を感じたのだ。整数同士の加法演算の解がただひとつしか存在しない理由は、整数の定義、数論の基礎、ペアノの公理系などをみっちり勉強してはじめて証明できる。大学の数学科3年生くらいのレベルである。

この疑問を本当にエジソンが小学校低学年の段階で発したならば、それは明らかに少年エジソンがただ者ではなかったことを示している。既存の知識を「あたりまえ」として丸憶えせず、自分の頭で思考して納得するまで考える。幸いだったのは、エジソンの母親が本人に輪をかけてただ者ではなかったことだ。母親はエジソンが疑問に感じていることを正しく理解し、それが小学校の教師には理解できないことを見抜き、学校を退学し自宅で学習させることに何も異を唱えなかったという。自宅で知的好奇心を満たす勉強を重ねたエジソンの幼少時代は、彼が後に発揮する大いなる独創性と無関係ではあるまい。

「あたりまえ」という概念は、人間が世界をありのままに受け入れたときに発する言葉だ。しかし、科学的思考においては「あたりまえ」は禁物だ。すべてを疑うところから哲学や科学は始まる。言葉を憶えたての子供は、「なぜ空は青いの」「なぜ雲は浮いているの」など、多くの「なぜ」を発する。世の中のことを当然と見る常識がまだ身に付いていないからだ。成熟した大人がこういう問いを発しないのは、そういう日常にあふれる疑問点にいちいち興味をもっていては社会生活に支障がでるからだ。そのため、世の中の事象に関して「そうだから、そんなんだ」と理解することによって、余計な思考に迷い込む手間を省いている。

大人は、そういう生活態度を送ることによって、疑問に感じる能力を錆び付かせている。科学の研究において最も重要なのは、答えを求めることではなく、問いを発見することだ。未だに解かれていない謎を見つける為には、既存の現象をあたりまえと思わず、澄んだ目で事実を見、先入観のない思考で考えることが必要になる。

疑問など持たなければ、人生は楽だ。
しかし疑問を持つと、人生は楽しい。

マフラー

バーバリーのマフラーを愛用している。

いろいろとマフラーを使ってみたけど、最後はコレに戻る。グレーのバーバリーチェック。長さといい素材といい、非常に使いやすい。

これは、日本では女子高生御用達の品だ。日本の街中では女子高生と一緒にされるみたいでちょっと違和感を感じるが、アメリカではそうではない。なにせ、学生はみんなCoopで5ドルの大学ロゴ入りマフラーなんぞしてるのだ。ここの世界では、バーバリーのマフラーは

上流階級の証、上品さを醸し出す知的アイテム。

僕と同じ柄で色違いのマフラーをしている人を何人か見かけたが、みんな「大学教授でございます」という出で立ちの紳士淑女。

人間、見栄えがすべてじゃないけどね。スウェットにスニーカーで授業に来る学部生とは違う、ちょっと洗練された格好するくらいはしたほうがいいんじゃないの、大学院生。

コーヒー・ルンバ

コーヒーが好きだ。

勉強をするときには不可欠。徹夜で勉強をするときなどは5, 6杯は飲んでるんではなかろうか。コーヒーは好みが分かれ、味にうるさいひとは豆の品種から入れ方まで徹底的に凝ると聞く。そういう僕も実はコーヒーにはうるさい。かなりのこだわりがある。

インスタントしか飲まない。

どうやら私はコーヒーそのものを楽しんでいるわけではないらしい。論文を読んだり、ペーパーを書いたり、自分でネタを考えているときなどは、どうやら頭の中で思考とコーヒーの味を混ぜ合わせているらしい。猛烈に頭を回転させる必要があるときには、コーヒーの味覚が脳に届いてると脳が滑らかに動いているような気がする。思考の正体は知らないが、どうも知覚しうる感覚との相性というのがあるような気がする。

猫を膝に乗っけてその背中をなでる感触を楽しみながら物思いにふけるのが好きな人がいる。雨の降る音が聞こえると俄然仕事の能率があがる人もいる。触覚、聴覚、味覚などの感覚は外界を認知するための方法に過ぎないが、その感覚が脳内で知覚された後、他の意識系統にちょっかいを出して影響を及ぼすことがあるのではないか。特定の香りをかいだり、音楽を聞いたときに、その香りや音に関連深い情景を思い出すのは、誰もが経験していることだと思う。

私にとって、コーヒーはあくまでも思考と混ぜる触媒なので、味に個性がありすぎては都合が悪い。脳の中でコーヒーが自己主張してしまい、思考の領域が狭くなるからだ。カロリーメイトが院生に欠かせないストック用食品であるのは、簡単に食べられる便利さもさることながら、あの自己主張しない味が思考を妨げないという理由もあるような気がする。

それ自体の味を楽しんでいるわけではないので、あんまり高いコーヒーはいらない。インスタントの「はい、一応コーヒーですよ」という程度で十分だ。インスタントだと30秒で入れられるので、時間の制約がある場合には非常に都合が良いという事情もある。

そういうコーヒーの飲み方をしていると、外出先でコーヒーを飲んだときに論文の内容や考えているネタがフラッシュバックするのでちょっと困る。友達によると、コーヒーを飲んでいるときの私の会話は「ゆえに」「しかるに」「ではあるが」「というのも」などの論理表現が多くなるそうだ。

茶道でも始めるべきかな。

澄み渡ったいい天気。

今日の学内新聞のトップ記事。

「Mirror Lakeを渡ろうとした学生、湖に落ちる」

研究室のみんなが、「バカだよなー」と言ってさんざんサカナにしてた。

僕?

当然、「まったくだよねー」と適当に調子を合わせてたに決まっておろうが。


あぶねー、セーフ。

手話通訳者

僕がTAをしている学部生の授業に、聴覚障害の学生がひとりいる。

その学生が授業を聴講できるように、手話通訳の女性が毎時間きている。アメリカはこういうことに非常に敏感で、ハンディキャップという理由で不便を感じることのないように至る所に配慮が行き届いている。手話通訳者は大学が雇っている場合もあるし、州から派遣されてくる場合もある。とくに大学の授業となると、そのへんの「手話できます」のようなボランティアでは間に合わないことが多いので、専門の訓練を受けたプロの通訳者が派遣されてくる。

僕の授業に来ている手話通訳のおばちゃんは、いつも授業5分前にきっちり現れる。どこかの筋に提出するんだろう、毎時間、書類にZeljkoのサインをもらっている。非常にきびきびした人で、手話がわからない僕にも、見ててわかりやすいんだろうなー、という手話を操る。変な話だけど、手話通訳者の技量は、手話が分からなくても何となく分かる。大学の講義レベルの手話通訳でも少しのよどみも迷いもなく、はきはきと訳す。

明らかに有能な人なんだけど、ついている学生がどうもそれにそぐわないみたい。その聴覚障害の学生は、明らかにだらしない。着てるものはシャツをパンツに入れずにでれっとしてるし、いつも靴のかかとを踏んで歩いてる。授業にノートもペンも持ってこない。くちゃくちゃガムをかみながら教室に現れ、授業中にグビグビ音を立ててコーラを飲む。
最近は、授業にほとんど来なくなった。学生がサボっても、手話通訳のおばちゃんは仕事だから学生がくるのを待ってる。大講堂で学生の方を向いて、教壇の脇の椅子に座っているので、非常に目立つ。授業が始まって20分すると学生は欠席扱いになるので、20分を確認して後ろのドアからしずかに出て行くことが多くなった。

これって、どうなの。

サボる学生なんぞ掃いて捨てるほどいる。その聴覚障害の学生に関しては、手話通訳の女性がいるからサボってることが誰の目にもわかりやすいに過ぎない。他の学生との差がそういうところで出るのは仕方がないとして、仕事とはいえ自分の為に働きにくる人を放っておいて授業に出てこないというのはいかがなものか。

手話通訳は給料をもらってやっている仕事であって、ボランティアではない。言ってみれば、その学生がサボることで通訳のおばちゃんは一時間タダ稼ぎができるわけだ。しかし彼女にとって、20分待った挙げ句に退室してタダ稼ぎをするのと、学生が必死に勉強するのを助けてフルタイムで手話を通訳し続けるのと、どちらがいい一日なんだろう。

給料に影響がない以上、その学生がサボったところで、通訳のおばちゃんに迷惑をかけているわけではない。しかし、彼がそうやって授業をサボりつづけている以上、授業で身につけるべき知識が身に付かないというだけではない。障害のあるなしに関係なく、社会人となるに必要な、人としてなにか大切なものに気づかないのではないだろうか。
ペンギン命

takutsubu

ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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