たくろふのつぶやき

お出かけの時には保冷剤を持つのだ

2004年02月

「お渡しします」

ちょっと気になる敬語がある。

「はい、ではわたくし、たくろふが明日、御社に参りますので、例の書類はそのときにお渡しします

「ええ、大丈夫です。社長は私が駅までお送りします

「明日、報告に参ります。そのときに結果についてはお話ししますので。」

周りの日本人に聞いてみたが、この3つの文はそれほど違和感がないようだ。
上の文の「お渡しする」「お送りする」「お話しする」は、すべて行為者が発話者なので、自敬表現になっている。学校文法でいうところの敬語では、自分の行為を言うときには謙譲語を使うので、この場合は「渡し申し上げる」、「送り申し上げる」、最後は単に「申し上げる」を使うことになっている。「お渡しいたします」「お送りいたします」「お話しいたします」という言い方もあるが、これも最初に「お」という尊敬接頭辞がついているのが気になる。

しかし、「ナニナニし申し上げる」という謙譲表現は、僕の日本語生活ではあまり耳にしない。文章でもあまり見かけない。どうも最近、自分の行為であっても動詞を単純に尊敬語にして他者に対する敬意とする、という敬語表現がまかり通っているような気がする。

気をつけてこの手の敬語を見てみると、すべて第四文型(誰々が、誰々に、何々を、これこれする)の動詞であることに気づく。第四文型が表す出来事は、人と人の間をモノや情報が移動する、という図式で単純化できる。

第四文型について、日本語の「ジョンはメアリーに手紙を送った」と、英語のJohn sent Mary a mail を比べてみると、面白い違いに気づく。日本語の方は、ジョンはメアリーに手紙を確かに送ったが、メアリーがそれを受け取っていることまでは意味しない。ところが英語の場合は、メアリーが確実に手紙を受け取った、という意味になる。だから、「ジョンはメアリーに手紙を送ったが、彼女はそれを受け取っていなかった」とは言えるが、John sent Mary a mail, but she did not receive it.とは言えない。

こう考えると、同じ第四文型でも、日本語と英語では出来事の違う部分を示していることになる。ジョンが手紙を投函し、それがメアリーに届く、という一連の出来事の中で、日本語は「ジョンが手紙を投函する」という最初の部分のみに言及しているのに対し、英語では「手紙がメアリーに届く」という最後の部分にも言及している、と言える。こう考えると「しかし、それが届かなかった」が日本語ではOKで、英語ではダメである事実が説明できる。

で、敬語である。日本語で「僕が社長に手紙をお送りしますよ」と言った場合、文が意味する出来事のうち敬意の対象になるのは、「社長が手紙を受け取る」という部分である。その部分に敬意がかかって、動詞が「お送りする」と敬語化する。これはなんとしたことか。日本語の第四文型が行為者の動作だけを記述し、受取り手の受容行為までは意味しないとしたら、「僕が社長に手紙をお送りしますよ」という敬語が(少なくとも人によっては)容認可能な理由が説明できない。

考えられることはただひとつ。日本語の第四文型の意味が変化してきているのだろう。もともと行為者の行為のみを表していたものが、受け手の受容行為までをもその意味に含むように、日本語の意味が変化しているのではなかろうか。この変化が完璧に行われれば、予測としては「ジョンはメアリーに手紙を送ったが、彼女はそれを受け取っていなかった」という文は容認不可能な文となる。「送る」という動詞の意味として、メアリー(受け手)がちゃんと手紙を受け取る部分までが含まれることになるからだ。

言語は絶えず変化するが、なかでも最も変化しやすい部分は、あまり使われない部分である。言語は知識として使われるものではないので、あまり使われないと、知識を差し置いて自分の頭にある文法で勝手に文を生成するようになる。今の日本では、世代格差や、世代間の人間関係のあり方が変わってきているのではあるまいか。目上の人間に日常的に接する機会が減り、そういう人間に敬意をもって接する緊張感のある人間関係が、今の日本では希薄になってきているのだろう。学校現場では先生に向かってタメ口をきく生徒もいよう。今の日本の、とくに若年世代の人間関係の感覚は、世代差を意識することなくフラットに人付き合いをするようになってきているのではあるまいか。そうなると、自分の行為をへりくだる謙譲語があまり使われなくなる。謙譲表現を使う状況で、それを使う前提となる概念が消失しているからだ。

それは、良い悪いの問題ではない。ひとむかし前の世代の世の中では、従来の敬語に根ざした「きちっとした敬語」を使うような緊張した上下関係が、社会生活を円滑に営む上で重要だったのだろう。現在の世の中がどうなっているのか知らないが、最近では「緊張した上下関係」よりも、「親しみのある同じ高さの目線の人間関係」の方が人間関係が円滑に進むように、時代が変わっているのではあるまいか。学校現場においても、厳格な厳しさを通して生徒を鍛える先生が当たり前だった昔に比べ、最近では家庭環境の複雑化、自己確立能力の低下によって心の歪みを抱える生徒が少なからずいる時代だ。時代がそのように変わったら、厳密過ぎる敬語表現はむしろ望ましい人間関係を阻害する。最低限に必要な敬語表現を残して、敬語が変化しているのは、そういうことではなかろうか。私は現在、アメリカの大学で、プロフェッサーと話すときにはお互いにファーストネームで呼び合っている。日本も、そういった文化気質に移行しつつあるのだろう。それが良いことか悪いことかは別問題として、事実としてそうなっている気がする。

「最近の若者は敬語ができなくてけしからん」ではなく、「最近の若者は敬語を使うべき状況を察することができなくてけしからん」のほうが合っていると思う。個人的には、日本のようなきっちりとした上下関係には、人材育成が円滑に行われる、危機管理の際に意思決定責任が明確になる、など良い部分もあると思う。日本の縦社会のそういう良い部分を保つためには、敬語を使うべき状況と日常の状況を、敬語によって区別する能力は必要だと思う。

春休みまであと一週間

3月の第2週は春休み。

だいたいどの授業も、春休み明けにterm paperの第一稿を出せ、という宿題がある。春休み明けの後半戦の間、担当の先生とディスカッションを重ね、学期末までにちゃんとしたterm paperに仕上げて最終稿を提出する。

春休みに入ってからネタを考えたのでは遅いので、今のうちからネタ探し。phonologyとacquisitionはなんとかネタが固まってきた。semanticsはそもそも新たに書く必要がないくらい書き貯めてあるので、「どれをだそうかなぁ」という感じ。無難にdeterminerとadjectiveの意味比較のペーパーでも出しておくか。

問題はsyntax。最初、aspectで書こうと思ってたんだけど、どうもクセで思考が意味寄り意味寄りに傾いていっちゃう。accoumplishment verbの結果含意について日英間の比較でもやろうと思ったんだけど、どうもあれって構造が原因じゃなさそうだしなぁ。Williamに聞いてみたら英語で結果を含意しないっていうのは非常に微妙らしいし。

いっそのこと、ぜーんぶチャラにしてCaseでもやるか。日本語のNominative object (「たくろふはピアノが弾ける」のような文。目的語に主格が来る)は絶対にTPがCase licenserじゃなくて、nominativeはdefault caseで、格付与の順列からしたら一番後だろう。構造格以外にも形態的に格を付与されるってのはどうせ必要だしなぁ。そのネタだったら英語よりもむしろアイスランド語との比較になるか?

できればcaseってやりたくないけどね。
はーあ、Marantz '91 読まなきゃか。

まず5つ頑張ってお読みください。

麻原被告判決 死刑でも納得できぬ気分
(2004年2月28日 産経新聞社説)
[“教祖”死刑判決]「惨劇の教訓は生かされていない」
(2004年2月28日 読売新聞社説)
「現代の狂気」を裁いた麻原死刑判決
(2004年2月28日 日本経済新聞社説)
松本被告に死刑 教団の「闇」が未解明でよいか
(2004年2月28日 毎日新聞社説)
教祖に死刑判決??何がオウムを生んだのか
(2004年2月28日 朝日新聞社説)

読売が一番ポイントを押さえている。

今回の判決を受け、記述するべきポイントは大きく分けて3つある。

1. 判決文の趣旨と意義
2. 裁判長期化に対する問題提起
3. 一連の事件を受けた教訓が生かされているかの検証

1. に関しては、被告が一連の事件の首謀者であると断じた点が重要だ。こうした組織ぐるみの犯罪の場合、責任の所在が明確になりにくい。この点、被告に一連の犯罪の責任があるとしたところをまず意義として認めることが重要だ。この点はさほど裁判でも争点とならなかったのか、扱いは各紙とも薄い。「あたりまえじゃないか」という読者の感情を想定したものだろう。

2.が最も重要なポイントだろう。判決を受けての社説なら、まず裁判のあり方そのものを問題にするのは王道だ。今回の裁判は、各紙が糾弾している通り、迅速とはとても言いがたい。このポイントと落とすようだと社説の意義は著しく損なわれる。裁判遅延の原因を指摘し、遅延の責を明らかにする必要がある。

3.に関しては、「このままでよい」「このままじゃマズい」のどちらかと言えば、明らかに「このままじゃマズい」の方だろう。教団は存続しており、それへの対処の仕方も不明確だ。その危険性を指摘し、なおかつ対処の必要性を問う必要がある。

上記の3点を最も的確に捉えているのは読売新聞だろう。もともと読売は論理が一貫した社説というよりは、強い言葉を使って断罪するような文体の社説を得意とするが、今回の裁判に関してはきっちりとポイントを分け、理路整然とした文章となっている。

産経は紙面の制約か、1.と2.のポイントだけに絞っている。産経の社説は問題点を見抜く目と文章構成の巧さが非常に評価できる。高校生が小論文を書く参考にするのなら、産經新聞の複眼的な視点が参考になると思う。今回も、総合的な内容では読売に一歩譲るものの、1.と2.のポイントに関しては読売よりも少ない字数で強い主張を可能にしている。3のポイントについても最後に触れており、紙面が許せばこの部分をきっちり書くんだろうな、という構成が見て取れる。ややもすると裁判についての記事から教団そのものについての記事に流れがちな素材を扱う中で、紙面の都合で省くとしたら、今回の裁判とは直接関係のない3.を削ろう、という判断ではないか。

日経は、良くも悪くも「日経らしい」記事だ。日経は従来、論理の一貫性では他の追随を許さない。その利点がありながら、どうも主張が小さくまとまる傾向がある。切れ切れの要素が多重に絡まってもつれて見える情勢を、強靭な論理で切り分け整理するのは日経の得意技だが、今回の裁判のように狭く深い洞察が求められる事件になると「行儀のいい文章」になりがちの傾向がある。今回の裁判についての社説も、3つのポイントをきっちり押さえていながら、「これ以上は日経に求める部分じゃないな」という、なんかピリっとしない印象がある。読売と対極を成す社説、というと語弊があるだろうが、それに近いものがある。

堅実な事実をがっちり固める、悪く言えば退屈な社説を書く毎日にしては、今回の鼻息は相当に荒い。毎日に見るべき特別な点は、「裁判に基づく事実の解明には限界がある」ことを指摘し、「裁判以外でも事実を究明していくことが大事」ということを指摘していることだろう。裁判はその形態に厳しい制限があるため、その制約に沿うものしか究明できないという、いわば手段が結果を制限する側面がある。裁判のそういった側面を指摘したところが評価できる。

朝日はなんだろう、これは。
明らかに他の4誌とは書き方が違う。当然書くべきことを削り、意図の不明な記述を入れている。もともと朝日の社説は「おはなし」が多い。論理に沿ってポイントを指摘し問題点を提起する、というスタイルをとらない。むしろ筆の進むままに書きたいことを書き並べる、という印象がある。路上でおしゃべりするおばちゃんの会話みたいだ。朝日新聞の社説は大学入試問題の要約問題でよく取り上げられるが、それは、要約が困難な悪文だからだ。漫然と書き連ねているだけだから、真の意図と論理の流れが見えない。ちなみに日経の社説は背骨となるロジックがはっきりして論旨が明白だから入試問題では使われない。朝日の今回の社説で、はじめに教団発足時の流行歌手の話題を振る意図がわからない。「時代に乗り切れない若者」の導入として使う意図があると見えるが、そういう導入のしかたをするのなら、それを締めにも使わなければ意味がないのではないか。「20年が経った現在でも、時代に乗り切れない若者は数多い。教団発足時の危険な世情は、今も変わってないのでは」という論の展開で3.のポイントに結ぶなら、かなり印象に残る文章になると思うが、歌手の話題は導入部分で書き捨てられてる。「最後に締めるつもりで書くのを忘れたのかな」などと思ってしまう。後遺症に悩む被害者や遺族にとっては、不謹慎ともとられる書き方ではないか。致命的なのは、2.のポイントを落としている点だろう。そもそも朝日の社説は裁判に関してではなく、教団に関しての「おはなし」なので、そもそもスタートから視点がずれ、あらぬ方向を向いているのがその原因だろう。裁判の限界、観察処分による信教自由拘束の是認など、部分的には興味深い指摘もある。しかし、いかんせん全体が一貫した「論」を展開していない。要約問題向けの文章だと言えるだろう。

カップラ

買い置き非常食、カップラーメン。

これがまた、よく非常事態になるんだな。
夜食が必要だったり、雨が降って外に出れなかったり。

アメリカにも「カップヌードル」が売ってる。チキンフレーバー、ビーフフレーバー、ベジタブルと売ってる。どのバージョンにもなぜかグリーンピースが入ってる。

まずい。

というよりも味がない。日本で売ってるカップヌードルとは大違い。日本人はもともと濃い味が好みらしい。日本のオリジナルのやつはアメリカ人には濃すぎるんだろうが、これはちょっとヒドいのでは。全然味がしないから。

よい解決方法が見つかった。「ほんだし」かつおのダシのフレークみたいなやつ。これを入れると味が出ておいしくなる。ほんだしはアメリカのいけてない料理をおいしく食べる必殺技になることが判明。

僕がアメリカに渡る前に、兄がくれた餞別袋のなかに、なぜかこの「ほんだし」が一箱入ってた。なんじゃこりゃ、と思ったが、まさか実用価値が出るとは思わなかった。

捏造体質

女子十二楽坊、曲を無断使用 所属プロ「中国では普通」
(2月26日 朝日新聞)
女子十二楽坊を目の敵にする朝日新聞誤報の「裏」
(「ことのは研究室」さん)

最初に朝日の報道を読んだときに「何かうさんくさいな」、と思った。
こういう書き方するから朝日新聞って嫌い。

「新聞と学歴と子どもの成績」(「憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向日記」さん、2004年2月23日)の指摘によると、「朝日新聞を購読している家庭の子どもほど、学校の成績が良い」そうだが、ここで使ってるデータは20年前のものだしなぁ。もしかしたら「こんな文章の書き方をしちゃいけませんよ」っていう素材の為に読んでるのかな。

先入観と煽動の意図がまる見えの新聞は、ちょっと記事が信用できない。
ペンギン命
ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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