毎日、日記をつけている。


いままで、習慣として日記を書いていた時期はいくつかある。
子供の頃に書いていた日記は論外だ。あれは、学校によって宿題として課されていたものであり、書いていてちっとも楽しいものではなかった。確か「生活記録帳」とかいう名前で、提出が義務づけられていた。当然、先生が読むことを前提としている。だからいきおい、「先生に読ませるための日記」となる。僕はそういう理不尽に敏感なガキだったから、わざと事実無根の架空日記をつけて、先生を困らせていた記憶がある。

大学院のころに、このたくつぶを書き始めた。僕がいたアメリカの大学街は、まぁ、大学以外に何もない、陸の孤島みたいな所だった。当然、夜や週末にヒマを持て余す。そこでアメリカでの生活を日記のように書き綴るようになった。
思えば、たくぶつも途中から「人に読ませるための日記」になった感がある。当時、地球の反対側で遠距離恋愛をしていた今の嫁に、毎日の生活を知らせるための日記になった気がする。今でも、当時の日記記事を読み返すと、読まなければならない論文を放ったらかして、いそいそとBlogの更新をしていた頃のことを思い出す。

今でも、僕はたくつぶの他に日記をつけている。Blogではなく、紙の日記を書いている。たくつぶと違うことは、絵日記であること。僕は文房具好きなので、定評のある文房具をつい買ってしまう癖がある。世に好評の「ほぼ日手帳」(ほぼ日刊イトイ新聞刊)というものを買ってみたのだが、使い道がない。そこで落書きのように絵日記をつけはじめた。これがまた嫁に好評で、いつのまにか嫁に見せる絵日記になってしまった。僕の日記の宿命として、どうも「誰かに見せるもの」になってしまうらしい。


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日記帳として大変つかいやすい。 


嫁は僕の絵日記に、勝手に『トド記』と名付けて、年ごとに保存している。前のことを思い出そうとして絵日記を読み返すと、その日に何をやっていたのかを思い出してなかなかおもしろい。
しかし、その「おもしろさ」は、ちょっと普通の意味とは違う気がする。

絵日記に書いてないことを思い出そうとしても、なかなか思い出せない。昔のことを思い出そうとすると、自分の記憶にあることと、絵日記に描いてあることが、違うことがある。僕の記憶は、僕目線での、いわば「一人称」の記憶であるのに対し、絵日記に描いたのは、他者の目線で自分を描く「三人称」の記憶だ。その目線の違いがひきおこす記憶との齟齬が、なかなか面白い。これは、日記を描いている本人しか分からない面白さだろう。紙に記録として残したことは、あくまでも保存された情報であり、本当にあったこととは違うのが普通なのだろう。



話は突然変わるのだが、中島敦に『文字禍』、芥川龍之介に『西郷隆盛』という小説がある。


中島敦のほうは有名だろう。代表作のひとつに数えられることもある。
舞台は古代アッシリア。この設定だけでも尋常ではない。普通の日本人になじみのある生活感の設定ではない。主人公は、宮廷に仕える博学者のナブ・アヘ・エリバ。彼は粘土版に彫られた文字を研究しているうちに、文字が意味のない記号の連鎖に見えるような、奇妙な気分を体験する。もしかすると、これは「文字の霊」の仕業ではないか。

人に話を聞いてみると、文字を覚えた途端に人が能力を落とす事例が報告される。文字を覚えてから急に蝨を捕とるのが下手になった者、眼に埃ほこりが余計はいるようになった者、今まで良く見えた空の鷲の姿が見えなくなった者、空の色が以前ほど碧くなくなったという者。文字を覚える以前に比べて、職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損うことが多くなった。

中島敦の筆致は格調高く、特定の事件が起こる訳でもない抽象的な「感覚」を描いていながら、まったく澱みがない。おそらく中島敦は、文筆で生計を立てる身でありながら、文字に対して、かたちのない「畏敬の念」を持っていたのではないか。誰でもうっすら感じることなのだろうが、それをひとつの物語に結実させる創作能力は、感嘆に値する。同じ文字を繰り返し読み書きしているうちに、意味のない線のかたまりに見えてしまう現象は、現在の認知科学では「ゲシュタルト崩壊」としてよく知られている。しかし、そういう用語もなかったであろう時代に、そういう現象を拾い上げる感性は、並大抵のものではあるまい。

『文字禍』では、文字がもたらす惨禍の例として、「歴史」をとりあげている。
エリバ博士のもとに、歴史を学ぶことに疑問をもった若い歴史学者が尋ねてくる。

若い歴史家は、次のような形に問を変えた。歴史とは、昔、在った事柄ことがらをいうのであろうか?それとも、粘土板の文字をいうのであろうか?
 獅子狩りと、獅子狩の浮彫とを混同しているような所がこの問の中にある。博士はそれを感じたが、はっきり口で言えないので、次のように答えた。歴史とは、昔在った事柄で、かつ粘土板に誌しるされたものである。この二つは同じことではないか。
 書洩らしは? と歴史家が聞く。
 書洩らし? 冗談ではない、書かれなかった事は、無かった事じゃ。芽の出ぬ種子は、結局初めから無かったのじゃわい。歴史とはな、この粘土板のことじゃ。


エリバ博士の言は、乱暴のように聞こえるが、実際の歴史学はまさしくこの考え方を前提にしている。実証的な歴史学が根拠とするのは「過去の文字記録」だけである。今現在、世界史や日本史の教科書に「事実」として書いてある多くの事例は、すべて過去の記録に出典がある。文字記録に残されていないことを推測して書くのは、作り話であり、歴史的事実としては認められない。 中島敦は、文字がもたらす「実体験から遊離した仮想現実」の危うさを、エリバ博士の言を借りて言及している。

物語の最後で、エリバ博士は、「文字の霊」の呪いを受けて死んでしまう。具体的には、大地震の際に書架が倒れ、おびただしい数の粘土版の下敷きになって死ぬ。
この物語が、古代アッシリアなどという素っ頓狂な舞台設定になっているのは、この結末のための伏線だろう。中島敦は、「文字の呪いを受けて死ぬ」という出来事を、具体的な事例に落とし込もうとして、「粘土版の下敷きになる」というアイデアを思いつき、そこから逆算してアッシリアを舞台に設定したのではなかったか。


一方、芥川の『西郷隆盛』のほうは、お世辞にも小説として完成度が高いとは言えない。
テーマは同じく、「文字に書かれたことだけが歴史なのか」という問題だ。

物語は、筆者が「大学の友人の本間さん」という人に聞いた話、という体裁になっている。本間さんは、筆者と同じ大学で、歴史学を専攻している。そして「本当か嘘かは、聞いた人が判断してくれればいいよ」と言って、誰にでもこの話をしてくれる。筆者のまわりでは、この話は「本間さんの西郷隆盛」として有名なのだそうだ。

曰く、本間さんが京都旅行の際に夜行列車に乗ったときのこと。本間さんは窮屈な客車に音を上げて、食堂車に逃げ込んだ。そこで白ワインをちびちび飲んでいると、別のテーブルで、とある老紳士が杯を傾けている。本間さんはどこかでその老紳士を見たことがあるような気がした。するとその老紳士は、本間さんのテーブルに歩み寄り、話しかけてくる。暇を紛らわす話し相手くらいにはいいだろうと、本間さんはその老紳士と話しはじめる。

本間さんが、自分の専門は歴史学だ、という話をすると、老紳士は身を乗り出して語り出す。
君は歴史を学ぶときに書物を読むでしょう。しかし、そこに書かれていることが本当だと断ずることができますか?文字に書かれた記録なんて嘘だらけだ。実際、私はそういう歴史の誤謬を数多く知っている。

本間さんは、自分の歴史研究にケチをつけられたような気分になり、むきになって反論する。すると老紳士は笑いながら、驚くような話をする。
たとえば西郷隆盛。誰もが、彼は西南戦争で死んだと思っているでしょう。でも、もし彼が生きていたらどうします?

本間さんは唖然として、そんなことはあり得ない、と断言する。西郷が死んだことは記録にあるし、多くの人が彼の死体を目にしている。
すると老人は悠然と続けて、「僕はあらゆる弁護を超越した、確かな実証を持っている。君はそれを何だと思いますか。それは西郷隆盛が僕と一緒に、今この汽車に乗っていると云う事です。」

それから本間さんは老紳士に連れられて、一等客車に赴く。
そこで本間さんが目にしたのは、客車のカーテンに寄りかかり、居眠りをしている白頭の肥大漢。まさしく西郷隆盛その人だった・・・。

「君は今現に、南洲先生を眼のあたりに見ながら、しかも猶なお史料を信じたがっている。しかし、一体君の信じたがっている史料とは何か、それからまず考えて見給え。城山戦死説はしばらく問題外にしても、およそ歴史上の判断を下すに足るほど、正確な史料などと云うものは、どこにだってありはしないです。誰でもある事実の記録をするには自然と自分でディテエルの取捨選択をしながら、書いてゆく。これはしないつもりでも、事実としてするのだから仕方がない。と云う意味は、それだけもう客観的の事実から遠ざかると云う事です。そうでしょう。だから一見当あてになりそうで、実ははなはだ当にならない。」


度肝を抜かれている本間さんを見て、老紳士は笑い、種明かしをしてくれる。
「あれは僕の友人ですよ。本職は医者で、かたわら南画を描く男ですが。」

西郷隆盛本人ではないのですね、と念を押す本間さんに、老紳士は「もし気に障さわったら、勘忍し給え。僕は君と話している中に、あんまり君が青年らしい正直な考を持っていたから、ちょいと悪戯をする気になったのです。しかしした事は悪戯でも、云った事は冗談ではない。僕はこう云う人間です。」と名刺を渡してくれる。肩書きも何も書いていない名刺を見て、本間さんは老紳士をどこで見たことがあるのかを思い出す。
「先生とは実際夢にも思いませんでした。私こそいろいろ失礼な事を申し上げて、恐縮です。」


なんじゃこりゃ、という感じの小説だ。
モチーフとなっているのは、文字がもたらす歴史の誤認。人間が実際に経験したことと、文字情報によって得た歴史認識は、まったく別物である。このモチーフ自体は優れた視点だ。芥川くらいの博学才穎であれば、この手の問題意識は持っていて不思議ではない。

しかし、それを小説として昇華させる腕前に、疑問を感じる。起こったことはなんということはない、「西郷隆盛のそっくりさんを見てびっくりした」というだけの話だ。物語として、それほど面白いものではない。老紳士の正体も、結局は最後まで明らかにされない。全体として、曖昧模糊とした印象のまま話が終わる。芥川の多くの作品に感じるような、すぱっと世の中を斬ったような読後感がない。

しかも芥川は、わざわざこの物語を、入れ子の構造にしている。筆者が「こういう経験をした」という一人称で話しているのではなく、わざわざ本間さんという登場人物を間に入れ、「彼からこういう話を聞いた」という体裁にしている。

この入れ子の構造は、19世紀に小説というものが書かれ始めたときに定番だった手法だ。嚆矢はメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』とされている。この伝奇小説は、はじめから最後まで、「北氷洋で遭難していたところを助けられた学者が、死ぬ寸前に、どうしてそうなったのかの経緯を語った話」という体裁をとっている。 この手法には時代背景があり、当時は小説という「つくり話」を読み手が許容する土壌が育っていなかった。科学技術によって作られた人造人間、などという話を書いてしまうと、それを読んだ一般市民は「本当にそういうことがあったのか」と信じ込んでしまう危険がある。教育レベルがそれほど高くなく、無知蒙昧な伝説が闊歩する時代では、独創的なストーリーテラーは、不要な混乱を社会にもたらす危険があっただろう。それを避けるために、「・・・という話を誰々さんから聞いたの」という伝聞の体裁をとる。

しかし、芥川の『西郷隆盛』は、わざわざ入れ子の構造にする必然性が見えない。なにせ、語った事件自体が真に迫ったものではない。作中に登場する本間さんは「本当か嘘かは、聞いた人が判断してくれればいいよ」などともったいぶっているが、そもそも真偽を云々するほど、中身は大した話ではない。

芥川の小説は、時期によって書き方がかなり異なり、しかも劣化に向かっていったのは周知の事実だ。傑作は初期の作品に多い。しかしこの『西郷隆盛』が書かれたのは、初期の1917年。『鼻』『芋粥』が1916年、『蜘蛛の糸』『地獄変』『奉教人の死』が1918年だから、最も創作意欲が旺盛だった時期の作品といってよい。そんな時期の作品に、こんな駄作が紛れていること自体、ひとつの疑問になり得る。

おそらく、中島敦と芥川龍之介では、モチーフを形にするためのアプローチの仕方が、逆だったのではあるまいか。
中島敦の『文字禍』では、「文字とは何か」から話を始めている。文字が意味のない羅列に見える。文字(=間接体験)を覚えると、能力(=直接体験)が疎かになる。そういう話の筋で、文字がもたらす惨禍の最たるものとして、「歴史」を取り上げている。

ところが芥川の『西郷隆盛』では、最初のとっかかりが「歴史とは何か」だったのではないか。歴史とは事実として過去にあった全てのことなのか、現在の我々が資料から知り得るだけのものなのか。
そこでは、「文字」は、資料を残すための媒体としての位置しか占めていない。物語のなかで老紳士が疑義を呈しているのは「資料の信憑性」であって、「文字がもたらす情報形態」ではない。このふたつは、似ているようで異なる。資料の信憑性を論じるときには、調査方法、資料保存、執筆者の事情など、歴史に関わる「研究作業」が焦点になる。文字そのものの機能や存在意義に関してまで否定しているわけではない。

つまり中島敦と芥川では、どっちの端をスタートにして、どっちの端をゴールにするのか、線の引き方が逆なのだ。文字から始めて歴史を論じるのと、歴史から始めて文字資料を論じるのでは、話の奥行きが異なる。ともに歴史を捉える視点をもっていることは共通しているが、彫り方によって完成品の出来が大きく違ってしまった、ということだろう。


そこまでの話を是としても、まだ芥川には疑問がある。
芥川はモチーフの芽を嗅ぎ出して、それを作品に昇華する技としては、天才的な技能をもっていた。少なくとも初期の作品では、ただのお話に過ぎない昔の説話を、鮮やかな小説に作り変えている。
その芥川が、「歴史とは何か」という大きなテーマを扱う際に、料理の仕方を誤るようなヘマをするだろうか。

僕が芥川の全作品を読んだ印象としては、時期によって出来・不出来の差があるのは確かとしても、全作品に共通する特徴がある。それは「人とは何か」「人は社会にどう関わればいいのか」という、人の内面や生き方を描いている点だ。問題作品として議論されることが多い『河童』などは、ほとんど告白小説に近い。

おそらく芥川は、自分の内面を堅固につくりあげることに苦心し続けた作家ではなかったか。そして、それに失敗して自ら命を断った。不安定な自己の内面に直面する努力を続け、それを描くことに創作能力の全てを注ぎ込んだ。

そういう「内面への視点」は、歴史学などという客観的記述を是とする思考作業とは、まったく思考回路が異なる。世の中を大きな流れとして捉え、自分をその流れをつくる要素のひとつとして適切に配置する。世の中における、そういう客観的な自己の置き方は、芥川のような孤高の巨星には、難しかったのだろう。

一方の中島敦は、幼少の頃から喘息を煩い、自分の命が長くないことを早くから悟っていた。「将来に対する漠然とした不安」を感じていた芥川とは異なり、自分の命と使命を早くから悟り、醒めた眼で己と世界を視ていた。そういう達観が、文字と歴史という大きなテーマを追求し切る客観性につながったのではないか。

中島敦は作品の絶対数が少ないが、芥川と同じように、人の内面を鋭く抉る傑作も書いている。『山月記』『李陵』などはそちら側の作品だろう。古典に題材を得ているところも芥川に通じるものがある。技法としては共通、技量としては互角、しかし、作家として書き切ることができる世界の幅が違かったのだろう。

いわば芥川は「ひとつのアプローチ法を突き詰めた一点突破の作家」であり、中島敦は「知的作業そのものに意義を見いだし、幅広い対象に興味を感じる作家」だったのではないかと思う。能力の差というよりは、タイプが違う作家だったのだろう。芥川は幅広い知識を誇り、食事の時でも本を読んでいるような勉強家だった。しかし、得た知識を作品に活かす段になると、その生き方と考え方が、己の作品の幅を狭めてしまった感が否めない。
芥川は終世、長編小説を書き上げることができなかった。その理由についてはいろんな人がいろんなことを言っているが、最も根源的な理由は、ひとの生き方を貫く大きな幹になるものが、自分自身の中に備わっていなかったからではないか。


記録されたことだけが事実なのか。文字がもつ力を人は使いこなせるのか。哲学的には面白いテーマだが、文人が小説にするには抽象的過ぎるテーマだろう。私小説が全盛だった時代に、このようなテーマに取り組むこと自体、ふたりの能力の特異性を示してあまりある。しかし、「記録された文書」と「現実世界」の遊離を描く際には、その一端である「現実世界」をどう生きたか、という作者の人生背景が色濃く影響を及ぼしているような気がしてならない。



なぜ僕の日記が嫁の本棚に並んでいるのだ。