革命に興味があって、世界史上の革命をいろいろと調べている。


革命というのは、既存の体制に不満をもった民衆が支配層を倒す、一種の下克上だ。ところが面白いことに、革命に成功して「自分たちの新政府」をたてたはずなのに、どう見ても以前よりも民衆が不幸になっているケースが多い。
一応、新政府を樹立できれば革命は「成功」ということになるのだろうが、現代的な観点からみて革命がマイナスに働いている事例が非常に多い。何が理由でそうなっているのだろうか。

思うに、その根本的な要因は「革命を成功させるための力と、新政府を運営する力は、別物である」ということを理解していない人が多かったからではないか。
革命の第一段階は旧体制の破壊だから、そこには暴力的なエネルギーが必要となる。軍事行動やゲリラ戦に長けている人間がリーダーになりやすい。ところが、革命に成功して新政府を樹立して以降は、そういう暴力エネルギーは不要どころか障害になる。新政府のリーダーに必要なのは、国内外の状況をうまく調整して冷静に事態を収束できる行政能力だ。

原始的な革命では、その暴力エネルギーの「熱冷まし」に苦慮し、自らの支持母体である一般市民を抑圧するような本末転倒な愚作を行なった。史上初めての市民革命であるイギリスの清教徒革命では、クロムウェルが独裁主義体制を布いたし、フランス革命ではロベスピエールが文句を言う反対勢力を皆殺しにした。いずれも、革命時に沸き起こした暴力エネルギーを持て余し、その矛先を間違えて発揮してしまった例だろう。

世界史上、「うまくいった革命」というイメージをもたれている革命は、すべてその暴力エネルギーを発散させるための場をもっていた。なければ強引にその場を作った。
清教徒革命の場合は、生贄としてアイルランドが標的にされ、いわれのない「征伐」を受けて虐殺や略奪を被った。フランス革命の場合は、革命が自国に飛び火することを怖れた各国が対仏大同盟を敷いたため、フランスは孤立無援に陥る。それを打ち破るために軍事力を発揮したナポレオンが権力を掌握したのは周知の事実だ。中国の辛亥革命の場合は、革命直後に世界大戦が起きた。また革命の主導的地位をめぐって国民党と共産党で内紛があったため、暴力エネルギーを冷ます暇がなかった。

中世における「王権から共和制への革命」と、現代のトレンドであった共産主義革命では、ともに「革命に必要な暴力的軍事能力」「革命後の社会をつくる行政能力」の両方を備え持つ指導者が少なかった、という共通点がある。現代の共産主義革命の場合は、それに加えて「諸各国に革命政府の承認を得る外交能力」も必要になる。大きく言って、「軍事力」と「行政力」のふたつを併せる指導者の不在は、その国がもともと持っていた教育力による所が多い。

中南米の多くの国は旧支配国からの独立を勝ち取るための革命を経験しているが、そのほとんどは強大な軍事力をもつ超大国に軍事的に対抗するためのゲリラ戦を基本戦略としていた。そういう革命のしかたで国を作ったら、そりゃ軍事政権しか樹立できなかろう。軍事によって作った国は、軍事によってしか維持できない。そういう国にそれぞれのガンディーがいなかったのは不幸だが、インドの場合は例外的な人材に恵まれた希有な例と言えるだろう。

ところが、世界史上の革命家のなかで、ひとりだけ例外がいる。
「軍事力と行政力の両方を兼ね備えていた革命家」ではない。そんな偉人は世界の歴史に存在しない。例外的なひとりとは、「軍事力を公使して革命を成功させたが、自分には行政力がないことを自覚しており、革命後の政権で権力をもつことを放棄した人」だ。




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ジュゼッペ・ガリバルディ(1807-1882)。


めったに偉人を尊敬しないイタリア人から、「建国の三傑」のひとりとして尊敬されている。 世界史の教科書にも太字で載っているが、「イタリア統一戦争」という、わりと隙間の知識であることもあり、あまり知られている革命家ではないだろう。一般的には「Bマイナー程度の重要度」とされている人物ではあるまいか。

しかし、その軍事指導力とカリスマ性はかなりのものだったらしく、当時、諸国分立状態だったイタリア南部を豪腕でまとめあげている。千人隊(赤シャツ隊)を組織してシチリアの反乱を援助し、イタリア南部の両シチリア王国を滅ぼした。反対勢力をも味方に引き込むほどのカリスマ性があり、「戦うたびに味方が増える」という状況だった。当時、イタリア統一の主導的立場にあったサルディーニャ王国も、イタリア南部の民衆から圧倒的な支持を集めているガルバルディの影響力を無視できなかった。

世界史では俗に「ドイツの軍隊に敗北なし、イタリアの軍隊に勝利なし」と揶揄されるほど、とにかくイタリアの軍隊は弱い。ガリバルディも、何度も革命運動を鎮圧され、そのたびに逃亡を余儀なくされている。これは当時のイタリアに眼を光らせていたのがオーストリアとフランスという二大強国だったため、仕方ない部分もあるだろう。

ガリバルディは、秘密結社カルボナリに加入して共和制を求める反乱を起こしたが、失敗して南米に逃亡する。そこでゲリラ戦の能力を磨き、革命に必要な民衆操作の方法論を身につけた。のちに南米の革命児チェ・ゲバラは、ガリバルディのゲリラ戦術を学んで影響を受けている。
ガリバルディは幼い頃から海上貿易に従事しており、基本的な教育を受ける時期はなかっただろう。それに加えて諸国放浪でゲリラ戦を繰り返していたため、行政能力はほぼゼロだったと思われる。

当時のイタリアは諸国分裂状態だったが、その中で最もイタリア統一に意欲的だったのは、サルディーニャ王国だった。国王のカルロ=アルベルトは自由主義的な国王で、在位中に憲法を制定している。わりと「庶民寄りの国王」と言ってよい。
その子であるヴィットーリオ=エマヌエーレ2世は、宰相にカヴールを重用し、北部イタリアを外交政策によって統一することを目論んでいた。

だから、南部で武力蜂起をおこして両シチリア王国を征服したガリバルディの勢力は、サルディーニャ王国にとって脅威だったはずだ。下手をすれば、イタリアが南北に分裂する危機だった。
しかもガリバルディは、サルディーニャ王国宰相カヴールを、個人的に憎んでいた。カヴールは第二次イタリア独立戦争の際に、フランスの支援を取り付ける密約(プロンビエール密約)を結び、その見返りにサヴォイアとニースを割譲した。ニースはガリバルティの故郷だ。自分の故郷をフランスに売り渡したカヴールは、ガリバルディにとって嫌悪の対象だった。しかもフランスのナポレオン三世は密約を無視し、単独でオーストリアと和平協定を結んでしまう。サルディーニャ王国は、いわばサヴォイアとニースを「取られ損」したことになる。

こうした背景から、北部のサルディーニャ王国と、南部のガリバルディ軍は、いわば水と油の関係だったといえる。統一どころか、支配権力をめぐって武力衝突をしてもおかしくない状態だっただろう。
ところが、ガリバルディは、武力によって制圧した南部イタリアを、あっさりとサルディーニャ王国に「献上」してしまう。革命勢力を動員して打ち立てた新体制を、あっさりと他者に譲り渡す。世界史上の革命において、ほぼ唯一の例外といってもいい行為だ。

1860年、ガリバルディはヴィットーリオ・エマヌエーレ2世と会談する。握手を交わし、自分の軍勢に向かって「ここにイタリア国王がおられるのだ!」と叫んだ。また国王に服従の言葉を誓い、軍職を含む一切の役職や報償を辞した。
もしここでガリバルディが、自力でイタリアを統一することに固執し、サルディーニャ王国を滅ぼす方向に動いていたら、イタリア全土を巻き込む大内乱につながっていただろう。当然、イタリア統一は大きく遅れることになったはずだ。ガリバルディが、自力によるイタリア統一を放棄し、サルディーニャ王国にそれを委ねたのは、いかなる判断によるものなのか。

様々な要因があろうが、一番大きなものは、「自分はゲリラ屋であって、政治家ではない」という判断ではあるまいか。もしサルディーニャ王国と一戦交えて、よしんば滅ぼしたとしても、旧サルディーニャ王国の領域を含む広大なイタリア全土を統治する力は、自分にはない。軍事力を行使して戦争に勝つことはできても、その後の統治ができない。そういう客観的な自己評価が、権力放棄の基本原理ではなかったか。

ガリバルディは、敗走を重ねゲリラに身を投じた経験から、客観的に現状を把握する能力に優れていた。両シチリア王国を滅ぼしたときに、王国を支配していたのはブルボン家だったが、ガリバルディは国王フランチェスコ2世を処刑せず、身柄を保証している。イタリア南部は伝統的に王政が敷かれていた時期が長く、ガリバルディの軍に合流した義勇軍も多くは元王党派だった。そういう民衆感情を汲み取った処置だ。

ガリバルディにとって、故郷を売り渡したカヴールは確かに憎かったが、半面、そういう冷静な措置がとれるカヴールの外交能力を認めてもいたのではないか。当時、イタリアはフランスとオーストリアから圧力を受けており、新興のプロイセンも勢力を拡大していた。イタリアが統一されたら、そういう軍事大国と互角に渡り合う外交能力が必須となる。そして、自分にはその能力がない。この「坊主憎いけどその袈裟なかなかいいじゃん」的な判断は、なかなかできることではあるまい。

現在、カヴールは、ガリバルディ、青年イタリア発起人のマッツィー二と並んで「イタリア統一の三傑」に数えられている。のちのイタリア市民は、カヴールの現実的な外交能力を高く評価しているのだ。ガリバルディは、自分の故郷という個人的な要因に惑わされることなく、「イタリア統一に必要なものは何か」を冷静に、客観的に、判断する能力があったのだろう。

ガリバルディの人徳とカリスマ性は、イタリアのみならず各国でも高く評価されていた。アメリカ南北戦争のときには、リンカーン大統領に北軍の司令官就任を打診されている。
何度敗走しても、民衆からの支持を失わない。それは行動にぶれがなく、信念が揺れていないからだろう。また「革命家が良い政治家とは限らない」ということを自覚しており、自分にできない仕事は請け負わない。いわば「プロの革命家」であり、力を発揮する場と引くべき場を弁えていた人物といえるだろう。


世界史では、わりと早い時期から文民統治(シビリアン・コントロール)の制度が発明されている。しかし、こと革命に関しては、「軍事力、即、権力」となりやすい。革命には民衆をまとめるカリスマが必要だろうし、そういうカリスマは革命後もお役御免というわけにはいかないのだろう。その結果、行政能力が皆無な人物が国の最高権力者の座に就き続けることになる。ゲリラ戦と対国民党軍事行動で辣腕を振るった毛沢東だって、国の政治をさせたら大躍進運動の醜態を晒す有様だった。

それに比べて考えてみると、日本にはわりと軍事力と行政力を兼ね備えた人材が多かったように見える。
誰でも知ってる織田信長。その業績を問うと、多くの人は馬鹿の一つ覚えのように「楽市・楽座」と答える。戦国武将でありながら、後世に伝わっている業績は、行政に関するものなのだ。
日本では三回、幕府が開かれたが、その開祖となった源頼朝、足利尊氏、徳川家康は、いずれも軍事力・行政力ともに高かった。共通点は、幼少期に人質や蟄居などの要因で、学問に励まざるを得ない環境にあったことだ。そういう時に、学ぶべきことをしっかり学んでいたことが、のちの行政力を発揮する際の下地になっていたのではないか。

日本で唯一、「革命」と呼んでもよい政治的転機は明治維新だっただろうが、その際にも明治新政府の指導者の多くは軍事力と行政力を兼ね備えていた。中には西郷隆盛のような武力馬鹿もいたが、そうした人間は日本史上、時代の流れに従って自然に淘汰されている。西郷隆盛はあくまでも「武士の棟梁」であって、「明治新政府を担う政治家」ではあり得なかっただろう。


革命は、旧体制を倒した時点では、道半ばの折り返し点に過ぎない。国を倒すことと、国をつくることは、同様に重要でありながら必要な能力がまったく違うのだ。革命であまり高い理想を掲げ過ぎると、のちにそのハードルが高すぎて自らの首を絞める。革命政権の多くがのちに恐怖政治を敷くのはそのためだ。
そんな中、「自分にできる仕事とできない仕事を見切る」というのは、なかなかできることではあるまい。そういう「歴史に埋もれた事例」を探して、革命史を掘り起こしている。



春休みの自由研究的なおべんきょうで。