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近所に、おいしいインド料理のお店があるんですけどね。


外でカレーを食べるときは、本格派のインド料理店に限ります。日本のカレーとはまたひと味違ったカレーが楽しめます。
店員さんもインド人。カレー以外にも、現地の本格インド料理が多種多様に楽しめます。


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僕のお気に入りはチキンキーマカレー。 


本場のインド料理屋さんでカレーを食べるときは、ライスではなくナンでいただきます。これが本格的な竃で焼き上げるふっくらしたナンで、たいへんにおいしい。
このお店に行くときはいつも


カレーといっしょに食べるとおいしいものはなんでしょうか?

「うん、そうだよ」

いや、だから、なんでしょうか?

「いや、だから、そうでしょ?」


という、噛み合ない会話ごっこを嫁といっしょに楽しむのであります。
しかもこのお店、ナンがおかわりし放題なのです。量を重視するワタクシめにとって非常にポイントの高いところであります。


ところで、このお店の名前は「アグラ」。店の看板には世界遺産で有名なタージ・マハル廟が描かれていて、インドっぽさを醸し出しています。
まぁ、外国でインド人の方々がお店を出す時には、「インドのイメージ」としてそういう表象を使うものなんでしょうね。


こういうお店を見るたびに、僕は非常に不思議なんですが。
インドの人たちっていうのは、これで葛藤とかないんですかね。


まず基本的な知識として、インドは人口の80%以上がヒンドゥー教を信仰している。ヒンドゥー教人口は8.3億人もいて、日本の人口の約6倍だ。キリスト教、イスラム教について信者数は世界で3番目に多く、「世界三大宗教」の一端を担っている。

ところが、インドの象徴ともいえるタージ・マハール廟は、イスラム教の建築物だ。つまり多くのインド人にとっては「異教徒の建物」であり、あまり国民感情にフィットした表象ではありますまい。

しかも、店名の「アグラ」。これは首都デリーの南200Kmくらいに位置する都市の名前で、タージ・マハール廟がある街として世界中から観光客が訪れている。
このアグラという街、16世紀から19世紀にかけてインドを統一していた、ムガル帝国の首都だった。ムガル帝国はモンゴル騎馬民族の末裔で、イスラム教を国教としていた。当時の世界地図でいえば、ムガル帝国はイスラム勢力範囲の東の果てという位置づけだった。

ムガル帝国は、第5代皇帝シャー=ジャハーンの治世下で最盛期を迎える。タージ・マハル廟が作られたのもこの頃だ。愛妃ムムターズ・マハルが死去したことを悲しみ、総大理石の墓廟として建築した。たいした墓だ。タージ・マハルにはモスクや尖塔など、イスラム建築の基本をきちんと踏襲している。あくまでもイスラムの建築物だ。

つまりアグラというのは、歴史上「イスラム教の街」なのだ。ヒンドゥー教徒が大多数を占める現在のインドでは、宗教感情として「これぞインド」という街ではあるまい。
しかもムガル帝国というのは、インド人にとっては征服王朝であり、「よそ者に国を支配されていた王朝」だ。そういう時代の首都と建築物を、インドの表象として使うのは、インド人の国民感情として何の問題もないものなのだろうか。


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これイスラムっすけど、いいんすか


インドの歴史を紐解いてみると、思いのほかヒンドゥー教が政治史に果たしている役割は少ない。インドの歴史上、統一王朝として宗教をヒンドゥー教に定めたのは、グプタ朝(4世紀〜6世紀)しかない。インドの宗教はグプタ朝期を境に二分され、以前は仏教、以後はイスラム教が多い。

「以前」としては、例えばマウリヤ朝(前4世紀〜前1世紀)はアショーカ王が積極的に仏教を保護して信奉した。クシャーナ朝(1世紀〜3世紀)はもともとイランの王朝だが、インドに勢力を拡大した途端に仏教圏に取り込まれている。まぁ、それはそうだろう。今ではインドに仏教徒は1%もいないが、もともとインドは仏教の発祥地なのだ。またグプタ朝の時期は、まだマホメットによってイスラム教が興される前だ。
一方、「以後」としては、怒濤のようなイスラム勢力の東進に押される形で、地域分裂の形でイスラム圏に取り込まれた。小国分裂状態だったインドをようやく統一したのは、ムガル帝国(16世紀〜19世紀)の成立を待たなくてはならない。

ムガル帝国はイスラム教を基盤としていたが、その頃にヒンドゥー教などの土着宗教が衰退していたかというと、そういうわけではない。ムガル帝国は統一王朝ではあったが、成立の頃はまだ支配基盤が強固ではなかったようだ。第二代王のアクバルはイスラム以外の宗教にも寛容策を布いた。ムスリム以外に課せられる人頭税(ジズヤ)を廃止し、他宗教の活動を容認した。アクバルの妻は、ヒンドゥー教徒であるラージプート出身の女性だ。

世界史上、宗教王朝が他宗教に寛容な政策をとるときは、土地所有者である異宗教徒から地税を確保する必要性が理由であることが多い。ムガル帝国勃興時も、土地を所有していたのは現地人(ラージプート)の支配階層だった。アクバルは彼らを取り込むためにジズヤを廃止し、他宗教からも人材を登用した。
宗教寛容策が税収入のためであるならば、その基盤が確立し次第、寛容策をとる必要はなくなる。ムガル帝国も、アウラングゼーブ王の統治下で国の領域が最大に達すると、ジズヤを復活させている。

こうした歴史を眺めていると、インドの歴史において、ヒンドゥー教というのは「政治支配の基盤にはならないが、現地人にはしっかりと定着していた宗教」というものだったことが分かる。ヒンドゥー教によって国が成立することはないが、ヒンドゥー教によって王朝が終焉することはある。

ムガル帝国後期にイギリスに対して起きたインド大反乱(セポイの反乱、1859)も、きっかけとなったのは砲弾の薬包に牛脂が塗ってあったことだった。牛を神聖視するヒンドゥー教徒にとって、牛脂の塗られた薬包を噛み切るのは禁忌になる。

現在のインドでヒンドゥー教の影響力が強くなったのは、イギリスから独立するという目的上、インド人が何らかの精神的なつながりを必要としたからではなかったか。インドには東と西の両翼にイスラム教信者が多かったが、西はパキスタン、東はバングラディシュとして、それぞれ分離独立している。しかしイギリスから独立した後のインドが、ヒンドゥー教に基づく宗教国家をつくったかというと、そんなことはない。

おそらくヒンドゥー教というのは、「政治色の薄い宗教」なのではないか。知識として、ヒンドゥー教というものがあるということを知っている人は多いが、実際にヒンドゥー教の教義を知っている人は少ないだろう。
世界史では、キリスト教やイスラム教など、宗教が政治権力に介入して治世を敷くことが多い。しかし、そうでない宗教だってあるだろう。政治とは無縁のまま、宗教として宗教のみを目的として宗教のために宗教を執り行う宗教だって、広い世界のどこかにはあるだろう。ヒンドゥー教というのは、そういう宗教のひとつではないのか。

宗教も政治も、多種多様な人の思惑をとりまとめ、共同体を維持するという共通点がある。世界史上、政治力を公使する宗教が多いのはそのためだろう。しかし、政治を行なうためには、きれいごとばかり通すわけにはいかない。理想とは異なる現実的な施策を強いられることだってあるし、基本方針と矛盾する策を取らなければならないこともある。

ヒンドゥー教は、そういう政治的に必要とされる現実的な方策を、はじめから放棄しているのではないか。教義のために辻褄を合わせるとか、矛盾に関する論争とか、そういう面倒なことをすべて最初から放り投げているかのようだ。政治的な力がないというよりは、はじめから政治など関心がない宗教に見える。
海外に出たインド人が、イスラム教の建築物や都市の名前をインド料理店に掲げるのも、「だから何だ」という、理屈に合わせることに対する無関心によるものではあるまいか。政治的な感覚では、自分の属する立場に与しないものを掲げるのは、矛盾だろう。しかし、そういう現世的、政治的、理念的な「常識」が、世界のどこでも誰にでも、等しく通用するはずだと思うのは、一面的なものの見方でしかない。

僕はヒンドゥー教徒ではないし、ヒンドゥー教徒のものの考え方も知らない。しかし、インドの歴史から察するに、いわゆる西洋的な理念や常識がそのまま通用する観念ではないことは見当がつく。自分がどんな宗教を信奉していようとも、他宗教の表象を店の看板に使って、「それが何か?」で済ませる。考えてみれば、そういう柔軟性のある考え方のほうが、生きていくのは楽だろう。
日本人だって、人のことは言えない。寺社仏閣で初詣をし、クリスマスの時期には浮かれ騒ぎ、教会で結婚式を挙げることを夢見て、神頼みのためにおみくじを引き、葬式のために坊さんを呼ぶ。いったい何教だ。

宗教というものは、理屈や理論による統一性を指向するためのものではない。人のいない自然世界の真実を見るのが目的ではなく、あくまでも人がつくった、人のためのものなのだ。人が生きやすいような生き方を提供できていれば、宗教はいい仕事をしていると言える。信義や教義にがんじがらめになって「したくてもできない」という縛りが多くなるほうが、宗教としては本末転倒なのだろう。たかがカレー屋さんの看板ではあるが、そこから見える宗教の姿というのは、なかなか面白い。 



珍しいお茶も飲めるのでセットで頼むのだ。