しょせんギャンブルってこんなもん大勢に逆らう気質

2017年02月03日

身分を捨てる決意

かつて、東京大学入試問題(日本史)で、次のような問題が出たことがある。

守護大名と戦国大名のちがいは、室町幕府が戦国時代においても存続し、戦国大名の多くが将軍から守護に任命され、みずから守護と称したこともあって、形式的には必ずしも明瞭ではない。下記の文章は、『今川仮名目録』のなかの条文の一部を現代文に訳したものである。ここで、戦国大名今川氏は、みずから「守護(使)不入地」に対する位置づけの相違を通して、両者の違いを明らかにしている。これを中心にして、守護大名と戦国大名のちがいを、6行(180字)で述べよ。


「もともと「守護使不入」といのは、将軍が全国の支配権をもち、諸国の守護を任命していた時代のものである。(ところで、そのような政治体制のもとでは)守護使不入であるといっても、(将軍から守護使不入の特権を与えられた者が)不入地に対する将軍の干渉を拒否することはできないであろう。(それと同じ理屈で)現在は、一般に(大名が)自分の力で国法を制定し、両国内の秩序と平和を維持しているのであるから、(大名が認めてやった守護使不入地に対し)大名の干渉をまったく許さないということは、あってはならないことなのである。」
(東京大学 1988年)



表向きは「守護大名と戦国大名の違いは何か」という問題だが、実際のところ東大の出題意図は「戦国大名、戦国大名って簡単に言うけど、戦国大名っていったい何なのか、ちゃんと定義して覚えているのか?」というところだろう。


「戦国」大名というからには、そうでない大名もいる。それが「守護」大名なわけだが、その違いを問う問題。一般常識の盲点を突く良問だろう。
しかもご丁寧なことに、この問題では、盲点の突き方が二重になっている。引用資料が「今川仮名目録」。戦国大名のひとりである今川義元が発布したものだ。



ImagawaYoshimoto

今川義元(1519〜1560)。
駿河国及び遠江国(現在の静岡県)一帯を支配した「戦国大名」。
名前だけは有名だろう。

「戦国大名のなかで、誰が一番好き?」と聞くと、おおむね武田信玄、上杉謙信、織田信長、毛利元就、徳川家康、伊達政宗などの勇猛知将を挙げる人が多い。昨今ではご当地ブームによって、生まれ故郷の戦国大名を贔屓にする人が増えている。NHKの大河ドラマで取り上げられようものなら、地元に大いに経済効果をもたらしてくれる。

そんな中、好きな戦国大名として今川義元を挙げる人はほとんどいない。静岡県の人であってもそうだろう。おおむね、今川義元のイメージは「桶狭間で織田信長に殺された敗者」というものではあるまいか。

実際には今川義元は、群雄割拠の戦国時代において「京に最も近い戦国大名」とされていた。武田信玄が最も怖れた戦国大名としても有名だ。武田信玄の甲斐国(現在の山梨県)は、今川義元の駿河と、上杉謙信の越後(現在の新潟県)に挟まれた位置にある。今川と上杉から挟撃されたら、武田は簡単に滅ぶ。そこで武田信玄は、今川義元と和睦を結び、上杉謙信と戦った。その反対ではない。実際に武田が戦ったのが上杉、ということは、武田は今川のほうをより怖れていたことになる。

今川家は源氏の末裔にあたり、室町将軍である足利氏の分家にあたる。つまり血筋が良い。血縁関係による領地支配の気風が多少は残っていた時代にあって、その毛並みの良さは一目置かれた。今川義元自身、京の公家文化に精通しており、白化粧やお歯黒など公家の格好をして京風文化に染まっていた。現在では織田信長のやられ役として、バカ殿のような風貌で揶揄されることが多いが、その格好は当時としては京に通づるものとして誰にでも許されるものではなかった。

そんな今川義元、戦国大名のひとりとして数えることに異論はなかろうが、自分の推しメンが今川、という人はあまりいない。そういう「いまいちマイナーな戦国大名」を出題するあたり、東大が突いている盲点だろう。


東大の出題に端的に答えると、守護大名と戦国大名の違いは、「支配権の根拠」だ。守護大名の場合、将軍が任命して軍事警察権を委託される。ところが戦国大名は、将軍など関係なく、己の実力を行使して腕力で支配権を公使する。

戦国大名の時代というと、「全国を統括している権力がなく、地方によって勝手に戦国大名が乱立している」というイメージをもっている人が多いだろうが、そんなことはない。織田信長によって足利義昭が京を追放され、室町幕府が終焉したのは1573年、今川義元の死から13年も後のことだ。それまでは室町幕府は存続しており、守護は相変わらず「将軍によって任命された者」という位置づけに変わりはなかった。

現在では俗に「守護大名」とよく呼ばれるが、実際に室町幕府で「守護大名」という名称を使っていたわけではない。鎌倉幕府の時代から、守護というのは「任命されるもの」だ。幕府の将軍によって任命され、土地の軍事警察権を委託された。

最初は単なる警察・自衛隊に過ぎなかった守護が、室町時代になるとやや変質する。
守護というのは文字通り「軍事警察権を委任されたもの」であって、経済基盤がない。荘園を取り仕切る地頭と違って、赴任地に自分の所領をもっているわけではない。それが室町時代になると、守護請や半済令などによって守護の権限が強化された。守護は強化された権限をタテに、荘園や公領を侵略し、「自分の土地」を手に入れるようになる。

なぜ室町幕府は、地方分権を招くような守護の権限強化を行なったのか。
歴史の教科書には「地方武士の独立の気風」やら「相次ぐ内乱」など、分かるような分からないような理由がぼんやりと書いてあるが、その大元を辿るとすべての理由は「観応の擾乱」にあるだろう。初代将軍・足利尊氏と直義の兄弟ゲンカだ。実際には尊氏と直義の兄弟はとても仲が良かったらしく、観応の擾乱の原因は、尊氏の執事だった高師直と、直義の配下の権力争いにあったらしい。

内紛が武力衝突にまで発展すると、とりあえず人数が要る。地方武士を動員する必要がある。地方武士を軍事徴用するには、それぞれの土地で軍事を取り仕切っている守護に任せざるを得ない。そのための見返りが、守護の権限強化だった。

歴史的に見れば、この判断は大失敗だっただろう。土地を持たない根無し草だった守護が、守護請や半済令によってガンガン荘園を侵略し、自分の土地にしてしまった。土地を得てしまえば、それを元手に国人を家臣化できる。そうして守護は「あたかも大名であるかのように、自分の赴任地を支配してしまう」という事態になった。これが「守護大名」と呼ばれるものの正体だ。例えて言えば、警察署長が強引に県知事になってしまうようなものだろう。

つまり、「守護大名」というのは、決して幕府の側が名付けた名称ではない。むしろ幕府にとって全然望ましくない事態だろう。軍事警察権を握るだけでなく、基盤となる土地を得て支配実権を握る。
この、鎌倉と室町における「守護」の違いについては、東大は1996年の日本史で出題している。

さて、その守護大名だが、守護である以上、役職としては室町将軍から任命されたものであることに変わりはない。単なる野武士集団とは訳が違う。しかし、いくら守護が基盤となる土地を得たところで、当時の地方武士たちは一揆を形成し、守護からの上からの支配に抵抗した。土地の武士にしてみれば、鎌倉以来の分割相続によって細分化された土地を必死に守らなければならないのだから、自治の気風が強いのはあたりまえだ。つまり守護(大名)にしてみれば、土地の武士というのは家臣として手駒にしにくい状況にあった。

そこで、当時の守護大名はどうやって土地の武士を支配下に入れたのか。
これはもう、有無を言わさぬ腕力公使だ。「ここの領地は俺のもの」と高らかに宣言し、検地を実施して土地の耕作量や年貢量を登録して農民を実効支配下に置く。そのための基盤として使ったのが分国法だ。つまり、自分の領地での法律を制定し、あらゆる紛争を自分ルールで裁いてしまう。

東大の問題で出されている「今川仮名目録」というのは、その分国法のなかでも最も整備されたものだ。この分国法によって単なる「守護大名」だったものが「戦国大名」に変貌する。つまり、この文章の中に、問題の答えが堂々と書いてある。

「今川仮名目録」に書いてある論理を単純に並べると、次のようになる。

(a)守護も公領内武士も、ともに将軍から任命されている
(b)つまり両者は同格である。
(c)同格だから、公領内武士に守護使不入地が与えられたら、守護はそれを冒すことはできない。
(d)しかし俺は違う。領国の支配権は俺様が実力で得たものだ。幕府の威光は関係ない
(e)だから領国支配の主体は大名自身。最高権力者。法も作れるし、武士に与えられた特権なんぞ知らん。

「守護大名」と「戦国大名」の違いは、つまるところ「守護とはなにか」に帰着する。守護とは本来、将軍から任命される「役職」だった。戦国大名には、それがない。つまり将軍に任命されるとかされないとかに関係なく、実力で領地の支配力を握った存在、それが戦国大名だ。

つまり「今川仮名目録」は、守護大名として初めて、「今後は将軍なんて知らん」と宣言し、幕府と決別して、「戦国大名」として生きていく決意を表したものだ。
東大は、数ある戦国大名のなかで「たまたま」今川を出題に使ったのではない。「今川義元は戦国大名のひとり」なのではなく、今川義元によるこの文書によって、歴史上初めて「戦国大名」が定義されたのだ。

歴史を大きく眺めれば、この文書が、よりによって今川義元によって発布されたというところが皮肉だろう。多くの戦国大名は、たまたま土着の武士だったものが、土地の支配者や守護大名を「下克上」によって打ち倒し、腕力で支配権を得た。
しかし今川氏はそうではない。もともと源氏の血筋で、鎌倉時代から守護を務め、室町時代には土地を得て守護「大名」となり、それが「戦国大名」に転じた、非常に珍しい例だ。本来ならば、下克上によって打ち倒される側だっただろう。それが幕府によって保障されていた身分を捨て、在野からのし上がってきた他の戦国猛将と同じ土俵で戦う決意をした。

幕府の権威におもねず、むしろ弱体化した室町幕府に見切りをつけ、実力行使の世の中に移行する時代の流れが正確に読み取れている。世間一般のイメージと違って、今川義元は、世相を見抜く力があり、既得権益に溺れず慣習を転換する決断力があり、それを行なうに足る実力を持っていた。文字通りの「戦国大名」だったと思う。

惜しむらくは織田信長の奇襲に破れたことだが、あれは織田信長のほうを褒めるべきであって、今川義元を貶めるには足りないだろう。織田信長だって、正面切って戦えば今川に勝ち目がないことくらい、よく分かっていた。だからこそ、あんな無謀な奇襲を試みたのだ。あの奇襲戦法は、日本の軍事史においても唯一無二と言っていい程の例外的な策術であり、失敗確率のほうがはるかに高かっただろう。それを執念で成功させた織田信長のほうが例外なのだ。


「戦国大名」といえば、そうでない大名のことを知っていることが前提となる。守護大名と戦国大名という、時代をつなぐふたつの立場を経た者として、今川義元が出題にあがるのは不思議なことではない。しかし、世間一般の「戦国大名」というイメージは、そういう歴史の本質から乖離して、ドラマ性や英雄譚に安易に傾きがちだ。東京大学は、そういう傾向を戒める目的としてこの問題を出題したような気がしてならない。



家康が死ぬまでトラウマにしてた人だからなぁ。


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takutsubu at 23:10│Comments(0)Philosophy 

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