寒い日が続きますな。


今年は例年と比べても寒波の襲来が多いらしく、関東でも大雪注意報が発令されるなど、近年になく気合の入った冬となっておるようです。
センター試験も終わり、受験シーズン本番を迎える学生さんたちは体調に気をつけて頑張ってほしいものです。

冬になるたびに思うんですが、ちょい数ヶ月前に感じてた、あの夏の鬱陶しいほどの暑さは、記憶のどこに消えてしまったんでしょうか。
夏になったらなったでまた逆のことを思い、「ほんの数ヶ月前までは、冬の寒さに凍えていたんだよなぁ」などと思うことしきりです。

日本には四季がある、というのは日本文化の隅々まで影響を及ぼす天候上の制約ですが、それを肯定的にとらえている日本人は少ないようですね。
よくある巷の問答として「夏と冬、どっちが好き?」というのがあります。人の好みをどちらかに寄せて考えよう、という質問ですね。こういう質問は、「常夏の国か、北方の雪国か、家を買うとしたらどっちがいい?」という類いの質問のようです。

僕もたまにこういうことを訊かれますが、おおむね「どっちでもいいけど、両方あったほうがいい」と答えることにしています。まぁ、だいたい変な顔をされます。先の質問は、両方の季節があるからこそ成り立つ質問なわけですが、その前提こそが得難い環境だと思っています。同じ国で、狭い地域内で、夏にサーフィン、冬にスノボーを両方楽しめる国というのは、世界的に見ても珍しいですからね。



話は突然変わるんですが、日本人のなかで松尾芭蕉の価値を理解している人が、非常に少ないような気がします。


basho


松尾芭蕉(1644-1694)。
名前だけは誰でも知っている。

大学で学生に「松尾芭蕉ってどんな人?」と訊くと、99%の学生が「俳句をつくった人」と答える。中にはもうちょっと言い方に気を使って「俳句という分野を確立した人」と答える学生もいる。
まぁ、五十歩百歩だ。

まず基礎的な知識として、松尾芭蕉の時代には「俳句」という用語は使われていない。芭蕉自身、自分のことを「俳諧師」としていた。芭蕉が完成した形式は五・七・五の17文字のアレが有名だが、あれはあくまでも連歌の発句として作られたものだ。芭蕉の作った発句は完成度が高く、連歌から切り離して単独でも鑑賞に耐え得るほどの芸術性があったが、芭蕉自身、発句自体よりも連歌を綴るほうを好んでいた。 

「で、その何が凄いの?」と重ねて訊くと、大体の学生はそこで固まる。
もう少し分かりやすい質問をしてあげると、「俳諧は芭蕉以前の時代にもあった。芭蕉は、それまでの俳諧師と何が違ったのか」という質問だ。
ここに至ると、おおむね学生は全滅する。

多くの人が芭蕉の凄さを実感していないのは、芭蕉を「それまでの人よりも、すごく上手な俳句を作ったから」程度のイメージで考えているからではなかろうか。そして、大抵の人はその「上手さ」を実感できない。何が上手な俳句で、何が凡作なのか、判断できる人は少なかろう。
そもそもそういう人は、芭蕉以前の俳諧など、見たこともないのではあるまいか。

俳諧というのは、今でこそ高尚な芸術のように思われているが、もともとは「ことばの遊び」だ。遊びだからこそ、そこには凝った技巧を入れたがる。和歌と同じように、過去の名作の本歌取り、掛詞、見立て、頓知といった、「知ってるぜ」「できるぜ」という、腕前を競い合うものだった。

和歌という表現形を延々と継承してきた日本には、それ相応の地理的要因がある。
日本は島国のため、大陸的な歴史の動乱に見舞われる危険がなかった。要するに「100年前に正しかったことは、今でも正しい」という普遍的歴史観に染まっていた国と言ってよい。気象的にも温暖で、生死に関わる天候被害も少ない。おおむね、生ぬるい条件に恵まれて、平和を謳歌してきた民族と言ってよかろう。

そういう環境で暮らしてきた人間は、当然ながら保守的な傾向が強くなる。農耕民族としては、新しいことに挑戦してすべてを失うよりも、堅実にそれまでのことを繰り返して、来年もまた同じ収穫量を確保することのほうが重要だった。変わることは脅威であり、現状を維持することが安心につながっていた。日本では革命が一度も起きていない所以だ。

保守的な生き方を手に入れると、人は多面的なものの見方を失う。画一的なものの見方しかできなくなり、「他の考え方もあるのではないか」「自分とは違う考えの人もいるのではないか」という柔軟性がなくなる。それが高度に発達し、保守の力によって260年の平和をつくりだしたのが江戸時代だった。

松尾芭蕉が行なったのは、そうした時代の常識に真っ向から刃向かう、思想的転換と言ってよい。
世界は変わらないのか。
常識が一変する変化は起こり得るのではないか。
今の世界だけでなく、もしかしたら別の世界があるのではないか。
物事には、すべてその裏側でまったく違う出来事が起きているのではないか。
ひとつの考え方には、必ずその反対となる考え方があるのではないか。

そうした「変化を指向する発想」は、ひとつ間違えれば時代の糾弾を受けて闇に葬られる危険性があっただろう。保守的な世相は、革命的な思想を良しとしない。松尾芭蕉は、世間に一切その危険性を悟られることなく、革新的な世界観の転換をはかる芸術様式を開拓した。

しかも、その為に要した媒体は、たった17文字のことばに過ぎない。
17文字で完結する表現様式のなかに、従来の世界観を裏返すような思想を込める。


古池や蛙飛びこむ水の音

芭蕉入門とでもいうべき代表作。これが静けさを表す俳句であることが、芭蕉のオリジナリティーだ。
普通、静けさを表す時は、無音であることを表現する。音がしないことを描写する。しかし芭蕉は、「カエルの飛び込む音」という動的な要因を無造作に放り込むことによって、その対比として周囲の静寂を描いた。

和歌でいえば、ふつうカエルというのは「鳴くもの」だ。カエルの鳴く音を雅ゆたかに描く和歌もある。しかし芭蕉は、カエルを「鳴くもの」ではなく、「飛ぶもの」としてその動きを描いた。音を出したのはカエル自体ではない。池の水だ。

白い壁に黒ペンキを一点だけ付けると、それまでがいかに「完璧な白さ」だったかが分かる。同様に、静寂の中に動的な音がひとたび混じると、それまでの静寂が改めて認識できる。
「静」の裏には「動」があり、「動」によって初めて「静」が認識できる。「静」から「動」に転換する変化の一点だけを切り取り、その両方を包括する。そのような複眼的視点、多面的視点で、ものごとの両側から世界を認識することによって、画一的な視点から解き放たれた芸術性を作り上げた。

保守傾向、不変の恒久を良しとする風潮などおかまいなしに、芭蕉は「変化」にこそ描写すべき価値を見いだした。不動とされているものにも、容赦なく変化を強いる。のんびりした平和を謳歌していた日本という国で、そのような「変化」を歌うのは、さぞ難しかっただろう。そこで芭蕉は、平穏な世の中に見いだす「変化」として、ひとつの軸を打ち出す。

それが「季節」だ。いくら平穏な日本でも、夏は暑いし、冬は寒い。季節の移り変わりは、人の保守傾向とは関係なくやってくる。季節の変わり目に敏感になることは、平穏な毎日に「変化」を見いだすことだった。俳諧では、それを「季語」という形で方法論のひとつとした。

芭蕉自身の句や、芭蕉一門の弟子の作品を見てみると、思いのほか季語が含まれていない作品も多い。それは、別に「季節を詠むことこそが俳句」ではないからだろう。別に季節でなくても何でもよい。移り行く「変化」の一瞬を捉える視点を備えた姿勢であれば、なんでも俳諧になり得る。
今では「俳句には季語を入れるべし」というルールだと思っている人が多いが、もともとは「季節に注目することで、ちょっとした変化にも気づきやすくなるよ」という、入門者に対するレッスン・ワンに過ぎなかったのではないか。

数学では、連続した関数上で、変化率さえ分かれば、任意の1点が与えられただけで増減が分かる。いわゆる微分だ。ふつう「変化」を捉えるには2つ以上の基準点が必要だが、微分を使うと1点を観察するだけで変化が分かる。
芭蕉が目指したのは、要するに「世の中を微分する視点」だった。その日、その瞬間、その一点を視るだけで、悠久の移ろいを認識する。そう考えれば、蕉風俳諧のなかで季節の果たした役割の大きさが分かるだろう。


夏草や兵どもが夢の跡

今の岩手県平泉で詠んだ句。芭蕉が実際に見たのは、ただ雑草が生えただけの草っ原だ。しかしその風景は、いま自分が見ている世界であって、恒久的に普遍の景色ではない。時代が違えば、そこは数多の強者が、己のため主君のため、命を賭けて戦った戦場なのだ。「いま現在」の姿形だけに世界を狭めず、時間から解き放たれた「世界の全体像」を描こうとする。縦・横・高さの三次元だけでなく、時間をも含む四次元で世界を認識する。夏の暑さのなかでも冬の厳寒に思いを馳せ、冬の大雪にあっても夏の猛暑を念頭に置く。そうした「時間の制約から解放された世の中の見方」を手にすることが、多面的な世界観につながる。


荒海や佐渡によこたふ天河

新潟県出雲崎町で詠んだ句。カエルの句と同じく、これが静寂を描いた句であることに気づかないと、芭蕉の描いた世界は見えない。
日本海の荒海は恐ろしい。多くの漁師の命を奪い、天災を引き起こしてきた。しかし、視点を動かさずとも、同じ景色の中で、水平線を境として、凛とした天の川が静かに佇んでいる。動の反対側には、必ず静がある。静を描くには、その対極である動を知る必要がある。時間のみならず、空間的にも、対比される両端を包括することによって、いま在る世界を視ることができる。

江戸時代という恒久的平和の時代にあって、見える世界の裏側を想起し、対極にある概念を包括することで、世界の広がりを鋭く切り取って描く。表現形が伴わなくとも、たいした哲学者だと思う。ましてや、芭蕉はそれをたった17文字という制約の中で表現した。哲学者であるだけでなく、それを表現する手段をも兼ね備えた芸術家でもあった。

日本で「文豪」と言えば、夏目漱石や森鴎外、古くに下れば紫式部などを挙げる人が多いだろうが、松尾芭蕉を推す人は少ないと思う。芭蕉が描こうとした世界を、正しく理解している日本人は、思いのほか少ないのではないか。芭蕉は決して、保守的な芸術様式を固めた堅固な人ではない。時代の常識に逆らい、人の常識に逆らい、変化を求めて飽くなき追求を続けたチャレンジャーだと思う。

そうした芭蕉の業績が理解されていないのは、ひとつの名詞で切り取れる情報形態ではないからだと思う。行なったことがきわめて概念的なことなので、「源頼朝ー鎌倉幕府」「徳川家康ー江戸幕府」のように、教科書の太字だけでは凄さが説明できない。僕は個人的に、日本人が凄さを理解していない3大変革者として、聖徳太子織田信長コチラも)、松尾芭蕉をひそかに挙げている。

「蕉門俳諧」の名が示す通り、芭蕉は多くの弟子をとっていた。後進の指導にも熱心だったと見える。宝井其角、服部嵐雪、森川許六、向井去来、各務支考、内藤丈草、杉山杉風、立花北枝、志太野坡、越智越人は「蕉門十哲」と称される。弟子の中から「十哲」なんぞが成り立つ時点で、かなりの門人数だ。

面白いのは、蕉門の中で、芭蕉と同じ作風を継承している弟子がほとんど見られないことだ。中にはまったく別の方向性に進んだり、師匠の芭蕉を批判して新たな基軸を編み出した弟子さえいる。しかし芭蕉はそうした弟子の言動を一切とがめることなく、穏やかに容認していた。一説には、自身がそうした批評を加えることによって俳諧が形骸化し、単に季語を入れただけの17文字に堕することを怖れたのだという。

しかし本当のところ、芭蕉がそういう弟子の奔放さを容認していたのは、己の作風「変化にこそ世界の本質がある」という哲学に根ざした姿勢だったのではないか。芭蕉は決して弟子として「自分のコピー」を作ろうとはせず、俳諧が発展し、変化し続け、日本の気候風土に合った表現形として定着する土台を作ることに専念した。300年以上経った現在でも、俳句を趣味としている日本人は多い。芭蕉の作った土台が、いかに強固なものだったかが分かる。

松尾芭蕉の紀行の速さを訝しみ、「実は松尾芭蕉は幕府の隠密だった」という説がまことしやかに囁かれることがある。芭蕉の業績の、本当の価値を理解していない人の言うことだろう。ニュートンは国会議員だった時期があるが、彼はあくまでも科学者であって、政治家ではない。仮にアインシュタインが諜報活動を行なったことがあっても、彼は相変わらず科学者であってスパイではないだろう。学者はスパイができるが、スパイに論文は書けない。
それと同じく、松尾芭蕉が仮に隠密活動を行なっていたとしても、「芭蕉は『実は』隠密だった」というには当たらない。芭蕉の俳人としての業績は、そんな隠密活動ごときを上回って余りある。「奥の細道」が仮に地方探索のための旅だったとしても、そこで得られた芸術性は、日本にとって、隠密活動によって得られた情報の数億倍の価値があるだろう。

芭蕉は、日本という風土で、日本という国の、日本人の感性に根付き、それを土台として俳諧の芸術性を完成させた。日本以外の国で、それぞれの芭蕉を擁した国が、どれだけあるだろうか。芭蕉は日本の文学史の中で、外国人にとって最も研究しにくい題材のひとつだ。自分の国でそれを成し遂げた人がいない人にとって、日本が生んだ「天才」を知るのは、そりゃ難しかろう。

俳句を作るのに必要なのは、語句のひねり回しではない。世の中をよく視て、形にとらわれることなく、見えないものを見ようとする、世界の見方だ。毎日のちょっとした変化に思いを馳せ、そういう変化を脅威ではなく肯定的に受け入れ、対極にある概念をともに抱える精神世界の充実がなければ、俳句など作れない。俳句を作るという行為は、代わり映えのない毎日に喝を入れ、常に新しいものを取り込む挑戦だ。そのことを理解していない日本人が多い。



嫁は僕がつまみ食いをするとすぐに気付きます。