大学入試問題を見ていたら、変な英文を見つけた。


To succeed financially without inheritance or advantages in an economic meritocracy lent individuals a sense of personal achievement that the nobleman of old, who had been given his money and his castle by his hater, had never been able to experience. But, at the same time, financial failure became associated with a sense of shame that the peasant of old, denied all chances in life, had also thankfully been spared.
(一橋大 2010年)


経済的能力主義のなかにあって、相続財産も有利な条件もなしに経済的に成功することによって、個人ひとりひとりは、父親から財産や城を譲り受けた昔の貴族では決して経験しえなかったような個人的な達成感を得られるようになった。しかし同時に、経済的な失敗は、人生におけるあらゆる機会を奪われていた昔の農民がありがたいことに感じずにいられていた、恥の意識と結びつけて考えられるようになった


まぁ、構文と文法の知識がない人が、単語だけのイメージから文の意味を理解しようとしても、決して読めない類いの英文だろう。
いまの高校では、ちゃんとこの文が読めるようになる程度の英語の授業を行なっているのだろうか。

この文を読むために知らなければいけない文法事項はふたつある。まずひとつめは、動詞denyとspareの語法だ。
これらの動詞を覚えるときに、安易に単語帳に頼って、「deny: 拒否する」「spare: 〜なしで済ます」と覚えているだけでは、この英文はまったく手も足も出ない。

一橋大学がこの英文読解を課した意図は、おそらく「動詞はちゃんと構文まで含めて覚えていますか」ということだろう。動詞を覚えるときには、単語単独で切り離した「意味」だけでなく、文のなかでどのように使われるかという「構文」まで覚えていなくては、実際には使えない。

denyとspareは、両方とも第4構文(SVOO)がとれる。第4構文をとる動詞は、通称「授与動詞」といって、意味はおおむね「誰かに、何かを、渡す」という意味になることが多い。「渡す」のニュアンスには「伝える」「知らせる」「もたらす」など様々なバリエーションがあるが、ふたつの目的語にヒトとモノをとり、何かを相手に渡す、という意味になることには変わりない。

denyとspareはそれが否定になった語だ。だからdenyは「誰かに、何かを、与えない」、spareは「誰かに、なにか嫌なことを、押し付けない」という意味になる。ともに目的語としてヒトとモノをとり、その授与がブロックされる、というイメージをもつことが大事になる。
ここまでが、一橋大学が受験生に要求している「あたりまえの知識」に相当する。

ところがこの英文ではこれらの動詞のとる構文に、若干の変化が加えてある。一橋大学が要求している知識のふたつめ、「受身(受動態)というのは一体何なのか」という根本的な理解だ。

大学生に「受身って一体何なのか、説明しなさい」と問うと、ほとんどの学生が「何々されること」のように答える。要するに、意味を答えようとする。
受身というのは文の構造を変化させる文法事項だから、受身を定義するときは、文の構造に基づいた答えをしないと、その本質を理解したことにならない。

本当のところ、受身というのは「行為者が不確定なときに、目的語を、主語の位置に移したもの」だ。中学で受身を習うときに、よく能動態を受動態に書き換えるような練習問題をする馬鹿な教師がいるが、両者の構文は発話状況がまったく違う。I ate the apple.と The apple was eaten.は、表している状況がまったく違う。

I ate the apple.という文の場合、リンゴを食べた人間がはっきりしている。だから「僕がそのリンゴを食べた」でよい。しかし、受身というのは「行為者が不確定のとき・わかっていないとき」に使う。そういう時には、文の主語がはっきり定まらない。そういう困った時に、目的語の「リンゴ」を主語にもってきたものが受身だ。だからThe apple was eaten.の正しい訳は、「誰かがこのリンゴを食べた」である。受身の意味上の主語を「by 誰々」と書くのは、「あいつでもない、こいつでもない、誰でもない、他ならぬ私によって食べられたのだ」のように、行為者を他と対比する、一種の強調構文だ。発話の状況を無視して乱雑に両者を書き替えるような授業をしておいて、「コミュニケーション重視の授業」が笑わせる。

My hat has been sat on. という文を学生に訳させると、「私の帽子が座られている」という答えが多い。自分で何を言っているのか分かっているのだろうか。
受身の本質「主語が不確定」ということがちゃんと理解できていれば、「誰かがぼくの帽子の上に座っている」と、きちんと訳せる。

A tree is know by its fruit. という英文は、いままで授業で誰一人きちんと訳せた学生がいない。おおむね「木はその果実によって有名になる」のような誤訳が多い。
これも文が受身になっている理由「主語が不確定」というニュアンスを汲み取れば、「(誰だか分からない不特定のヒト)が、木を知る。それは果実によってである」という意味から、「木は、果実を見れば名前が分かる」と訳せる。

この国ではフランス語を使っています」を英訳しろ、という程度の、簡単な英作文が書けない大学生が本当に多い。いちばんひどいのは This country uses French. というへんてこ英文。国が喋るものか。しかもuseは目的語に道具がくるもので、少なくとも目的語に言語をとれない。
たとえ英作文であっても、「行為者が不特定のときには受身を使う」という基礎的なことが分かっていれば、French is spoken in this country. と素直に英訳できるはずなのだ。

当該の入試英文では、denyとspareの両方が受動態で使われている。denyのほうは形容詞的過去分詞、spareのほうは分かりやすく受動態になっている。
これらの構文をもとに、denyとspareの、SVOO構文のふたつの目的語がどこに行ってしまったのか、きちんと復元できるかどうか。それが、一橋大学が問うている問題だ。

この文の主文そのものは簡単だ。
[financial failure] became associated with [a sense of shame]
という、単純な構文。「経済的な失敗は、恥という感覚に、結びつけられた」という意味。これで文は終わっている。これ以下の部分は、関係代名詞thatに導かれてshameという名詞を修飾し、どういう「恥」なのか、を延々と説明している部分になる。

そのうしろに the peasant of old 「昔の農民」という名詞が出ているが、はじめて出てくる言葉なのに冠詞のtheがついている。これは「後ろにちゃんと説明がありますよ」という、修飾節による説明をつけるときのtheだ。その説明が、denied all chances in life になる。

denyがSVOOの構文をとることを知っていれば、形容詞的過去分詞になったときに「目的語がひとつ抜けてるな」という構造が簡単に見抜ける。ようするにもとの文では

denied (the peasant of old) all chances
「昔の農民に、あらゆる機会を、与えない」

という構文だったことが分かる。そのうち、直接目的語のthe peasant of oldが被修飾節として飛び出してしまっただけだ。だからここまでの部分で「人生であらゆる機会を与えられていなかった昔の農民」という長い名詞句が完成する。

これだけでも充分に入試問題としては難問の部類に入るだろうが、一橋大の問題が鬼なのは、これにさらにもうひとつ受身の構文を重ねていることだ。先に完成した長い名詞句が主語となって、述語のspareがさらに受身になっている。この文はsparedで終わっているため、SVOO構文の目的語が、ふたつともどこかへ行ってしまっている。

目的語のひとつめを見つけるのは簡単だ。受身なのだから、文の主語がもともとの目的語だ。それがthe peasant of oldに相当する。
もうひとつの目的語を探すときには、この文がもともと関係節にあることが分かればいい。関係代名詞thatの節が修飾しているもの、つまりa sense of shameがもうひとつの目的語になる。
だからspareの構文を復元してみると

spare (the peasant of old) (a sense of shame)
「昔の農民に、恥の意識を、味あわせない」

という意味構造になる。これを関係詞節として修飾的に訳すと、

「人生であらゆる機会が与えられなかった昔の農民が、ありがたくも味あわなくて済んでいた、恥の意識」

という長い名詞句になる。
これが、主文の動詞 became associated with の目的語に相当する。


一橋大学がこのような英文解釈を出題しているということから、昨今流行りの「コミュニケーション重視の英語教育」なる代物に対する、一橋大学の明確な姿勢が見て取れる。一言で言えば、「そんなの知るか」だろう。
大学というのは、英会話学校ではないのだ。大学で英語が必要である理由は、日常会話や挨拶表現をするためではない。学問のために英語で論文を読み、論文を書くためだ。そのためには、英語という言語のシステムをきちんと体系的に理解し、それを使いこなせるレベルまで把握していなければならない。

車に例えると、大学の英語入試が要求していることは「車を上手に運転すること」ではない。「車をドライバー1本でバラバラにし、再度それを組み立て直せること」なのだ。知識として知っているだけでは何の役にも立たない。それを実践レベルまで昇華する「使える知識」として縦横無尽に駆使できなければ、知っているうちに入らない。

上の英文を解釈する際だって、言ってみれば必要な知識は「denyとspareの語法」「受身」のふたつだけといってよい。しかし、受身ひとつだけとっても、受身の構文をあいまいに理解したままでは決して解けない。「受身というのはどういう文か」だけでなく、「どういう時に受身は使われるのか」「受身になった時の構文の特徴は何か」というところまで、きっちり極めなくては「受身が分かった」とは言えない。

受身の構文は、Microsoft Wordなんかでは、うるさく赤い波線か何かがついて「受身が使われています」などと、まるで文法エラーのように指摘される。大きなお世話だ。大学に入ってからの英語力は、さらにその上のレベルが要求される。
普通に読めば、当該の入試英文は悪文中の悪文だ。一読して意味が分からない、というのは、悪文と断じて良かろう。問題は、筆者が敢えて、なぜそのような分かりにくい構文で英文を書いたのか、だ。 大学受験のレベルではそんなこと気にしなくてもよいが、大学に入ってからは、筆者がこういう小難しい文を書いた理由までが問題になる。

この英文は、文体論的な効果を狙って書かれている。下線部の前に、「親から財産や城を譲り受けた貴族」というのが出てくる。これと対比して「人生であらゆる機会を奪われていた農民」というのを出している。つまり対句になっている。
意味的な対句は、構文的にも対句にするのが英文の王道だ。貴族の箇所では、「貴族ー(修飾節述語)ー項が欠落している述語(関係節述語)」という構造になっている。下線部は、この構文を繰り返して対句の効果を出したものだ。
また、下線部の箇所にはassociated, old, denied, hadなど、意図的にーdの音で終わる音が多用されている。これに締めのsparedをもってきて、韻を踏む効果も狙っている。

大学では第二外国語を必修として課されることが多いが、そのように知識を体系立てて身につける習慣がついていれば、第二、第三の外国語の習得は簡単になる。僕が見るところ、第二外国語の授業の履修に苦労している学生というのは、その言語に限らず、既習のはずの英語や、はては母国語である日本語においても、知識が雑な学生が多い。


文科省が「コミュニケーション重視の英語」なる世迷い事を言い続けて、はや十年以上が経った。はたして、どれだけ今の若年世代が「英語のコミュニケーション能力」が上がったのだろうか。大学というのは観光地ではない。学問をするための場所だ。せめて英語で議論や喧嘩ができる程度の英語力は身に付いているのだろうか。一億歩譲って、そのような「コミュニケーション能力・括弧笑い」なるものが身に付いたとして、そんなものは大学では何の役にも立たないだろう。そういう「コミュ力お化け」が、英語で論文の一本も書けるのだろうか。

大学教育でいう「コミュニケーション能力」というのは、別に外国人観光客を案内したり、カフェでお茶を注文したり、電話でホテルの予約をしたりすることではない。論文を読んで、論文を書いて、研究会で発表することだ。それらが英語でできるようになることを、大学側は求めている。そのへんをきちんと理解せずに、やみくもに日常会話練習ばかりやっていても、少なくとも大学入試には受からないだろう。



高校ではちゃんと英語を教えているのだろうか