今年、ももいろクローバーZが紅白歌合戦に呼ばれたら、どうするんですかね。


そろそろ年の瀬が近づいて参りましたが、たくつぶ読者のみなさまにおかれましてはいかがお過ごしでしょうか。
年末年始の予定を考えたり、忘年会の予定が入ったり、いろいろと年末的な行事が入ってくる季節ですね。
NHKの紅白歌合戦の当落も、年の瀬らしいニュースといえましょう。

去年の2015年、ももいろクローバーZが紅白歌合戦に「落選」して話題になった。報道では、高圧的なマネジャーがやたらとももクロの演出やら出演方法やらにいろいろと注文をつけ、それにブチ切れたNHKが「そんじゃ出なくていい」と落選にしたんだとか。それに対してももクロ側が「紅白歌合戦を『卒業』します」と声明を出し、紅白ファンから顰蹙を買った。

「卒業宣言」まで出してしまったのだから、普通に考えれば、今年紅白に呼ばれても拒否するだろう。しかしこればかりはいろいろと思惑が錯綜して、本人達の思うようにいかないのが世の中というものだろう。最初から呼ばれないなら呼ばれないで困ったことだろうし、呼ばれたら呼ばれたで去年の言動との辻褄合わせに苦労する。ご苦労なことだ。

そういう時、ももクロのファンとしてはどういう反応になるのだろうか。
僕はアイドルのファンをした経験がないので、追っかけに近いファンの方々の反応のほうが気になる。アイドルのファンというのは、時間も金も使ってアイドルを楽しんでいる方々なので、紅白の当落に際してのファンの気持ちはいかばかりか気になる。

AKB48のような大きなグループでも、ファンの気持ちの持ち方が不思議になることがある。
AKBでは、グループ全体が好き、というよりは、自分一押しの「推しメン」というのがいるファンのほうが多いそうだ。AKB48側でもそれをよく分かってて、総選挙だのじゃんけん大会だの握手会だの様々なイベントで、各メンバーの人気度をランキングする試みを行っている。

たとえば宮脇咲良はAKB48とHKT48を兼任しているが、宮脇が押しメンであるファンは、AKBとHKTの両方のコンサートにも握手会にも行くだろう。そういう時、「純AKB48ファン」から、裏切り者呼ばわりされることはないのだろうか。
AKBとHKTであれば、まぁ、同系列のグループだからまだいい。これがたとえば、AKB48のファンとももクロのファンを兼ねている人が、両方のコンサートに行くことは、「ファンの仁義」としてどう捉えられているのだろうか。


話がまったく変わって申し訳ないのだが、有史以来の人間の知的活動の歴史を紐解くと、中世ヨーロッパを席巻した「スコラ哲学」なるものに行き当たる。
名前だけは世界史や倫理の授業で習ったことがあるが、それがどういうものであるのかは知らん、という人が多いのではあるまいか。

スコラ哲学は、要するにキリスト教の教義の正当性を体系化した学問のことだ。学問とは言っても、「哲学」なる名称を冠していても、その実体は学問でもなければ哲学でもない。
教科書的な知識としては、スコラ哲学の目的は、キリスト教の正当性を追求すること、ということになっている。それは裏を返せば、それに叛くものは「異端」として扱う、ということだ。こっちの見方のほうがスコラ哲学の本質を理解しやすい。

スコラ哲学の成立背景には、内的要因と外的要因がある。
内的要因は、キリスト教が巨大化し過ぎ、各地でそれぞれの生活実体に即した信仰のあり方が分岐したことだ。「○○派」と呼ばれるローカル派閥がいろいろと発生して、ローマの意向とはかけ離れた信仰に向かう宗派もあった。
そもそもキリスト教は395年にローマ帝国が分裂して以来、ローマ・カトリックと東方教会で、ほぼ違う宗教として独自に発展する下地ができあがっている。聖書が編纂されるよりも前の話だ。こうして多岐に渡った教義のあり方を、ひとつの宗教としてみなすには、最初から無理があっただろう。

これはアイドルファンに例えてみれば、「俺は○○ちゃん押しだ」「いや△△ちゃんこそ至高」のような言い争いや、「AKBファンであればHKTに『浮気』するなど邪道」「いや同系列であれば良いはずだ」などという論争に相当する。

外的要因としては、7世紀からキリスト教の「脅威」となったイスラム教の存在がある。イスラム教を「異教徒」「蛮族」と決めつけるためには、「自分達の宗教こそ正当」という理論武装が必要になる。
これはアイドルで言えば、「AKB48ファンであれば、ももクロなどものの数ではない」のような言い方になる。

いずれにせよ、現代的な観点、特に僕のような宗教とは縁なき衆生からすれば、くだらない話だ。宗教というのは本来、人が平穏に生きるためのものであって、誰がどういう方法で何を信じようが、その人の勝手だろう。それを宗教の側が「正当派」のあり方を決め、「こういう信じ方をしない奴は異端だ」のように決めつけることが、宗教本来のあり方からして真っ当だとは思えない。
僕のようにアイドルに疎い者にとっては、別にAKB48とももクロが両方好きでも、別に構わないだろうとしか感じない。それを「正しいアイドルファンのあり方とは」などと規定することが、アイドル人気そのものに寄与する姿勢とは、とうてい思えない。

では中世キリスト教では、なぜそのような自分達の首を絞めるようなことをわざわざしていたのか。
中世ではまだ体系だった政治的方法論が確立しておらず、共同体を治める方法論としてはまだまだ宗教のほうが実効力をもっていた。宗教が、単なる生きる為の信念であるのみならず、政治的な役割を背負う必要があった。

また学問も、哲学や科学が「知の包括的な方法論」として確立するまでには、まだまだ時代を要した。世の中はどうなっているのか、世界を統べる法則はどういうものか、そういう理解を得るための方法論が確立しておらず、キリスト教会が示す「答え」を拠り所にするしか仕方がない時代だった。

スコラ哲学は、そうした時代の中で生まれた。宗教、政治、学問という、基本原理がまったく違う3つの営みを、短期間のうちにまとめあげる必要があったのだ。内的要因と外的要因の必要性に迫られ、世界のあり方と「正解」を、人々に示す必要があった。

スコラ哲学は、13世紀にトマス・アクィナスによって編纂された『神学大全』によって大成した、とされている。僕は学生時代に『神学大全』を通読したが、何が書いてあるのかまったく分からなかった。僕はキリスト教徒ではないし、そもそも『神学大全』が何を目的として書かれたものなのかが不明瞭なままこれを読んでしまった。分かるわけがない。
当時の僕は、『神学大全』を、単に人類の知の集積のひとつとして読んでいた。古代に生まれた哲学と、近代に生まれた科学の、間をつなぐミッシング・リンクとしてこの本を位置づけていた記憶がある。

実際のところ『神学大全』は、当時すでに巨大化していたキリスト教の各分派の教義の違いや、イスラム教に対する正当性をでっち上げるための「辻褄合わせ」が全てと言ってよい。敬虔なキリスト教徒にとってはまた違った位置づけができる書物なのだろうが、キリスト教の外側から見る『神学大全』は、その程度のものだ。少なくとも、現代の科学に立脚した思考方法から逆算して、その方法論の進展を補完する役割としては、まったく役に立たない。

たとえば、キリスト教は「人類に普遍的な愛の必要性」を説いてはいるが、十字軍の時代にはイスラム教徒をぶっ殺して全滅させることを命じている。これは矛盾ではないのか。
こうした素朴な疑問に対して、スコラ哲学は、さももっともらしい「正当性」を説いている。何も矛盾していることはありませんよ、すべて神の御心のままに均整を保っていますよ、という理屈がこね上げられている。

スコラ哲学の必要性のひとつに、「権力」を確立する必要性があっただろう。全体の統一を重んじたキリスト教とよく対比される宗教として、インドや南アジアで広まったヒンドゥー教がある。ヒンドゥー教もキリスト教と同様、広い地域に多くの人を取り込んだ宗教なので、多宗派に分岐する歴史を辿っている。

しかし、ヒンドゥー教にスコラ哲学は発生しなかった。ヒンドゥー教は「分岐したけりゃ分岐すりゃいいじゃん」「この辺とあの辺では生活の仕方が違うからな」のように、宗派が分岐することにあまり抵抗感がなかった。いまでは「ヒンドゥー教」と一言で括るには無理があるほど、各地に根付いた土着宗教のように変容している。それは他宗教に対する姿勢でも同様で、同じ地域にイスラム教が浸透した地域は政治的にも独立している。現在のパキスタンだ。

「統一」を指向するのは、そこに「権力」の存在が必要とされるからだ。少なくとも逆は成り立つ。権力を掌握しようとする者は、必ず統一を指向する。中世のキリスト教がスコラ哲学という理論武装によって教義の統一を図ったのは、当時のキリスト教が政治的な役割を負わざるを得なかったという背景によるものだろう。

当然ながら、そういう姿勢は学問にとってはマイナスでしかない。「これが答えだ」と唯一解が強制され、その他の異論が一切認められない姿勢など、学問とは呼べない。
世の中の成り立ちを理解する学問としてスコラ哲学が採用したのは、アリストテレスの哲学だった。アリストテレスという人物は能力の偏りが激しく、博物学的な分類に関しては驚異的な能力を発揮しているが、自然科学の能力は皆無だった。

クジラが魚ではなく哺乳類であることを発見したのはアリストテレスだ。そういう観察や分類に関しては現代的にも正しいとされる「答え」を出していたが、化学や物理に関しては全くの無能と言ってよい。「物はそれが本来あるべき方向を指向する。だから物は地に落ち、炎は空に上がる」「あらゆる物質は、土、火、空気、水から成り、それを補完するものとして『第五の要素』が満ちている」「軽い物と重い物を同時に落としたら、重い物のほうが早く落ちるに決まってる」「太陽は地球の周りを廻っている」。こうした、現代では中高生でも間違いと分かるような誤謬を、平気で犯している。現代的な観点から答え合わせをしたら、間違いだらけだ。

驚くべきことは、アリストテレスの間違った世界観が、2000年以上の長きにわたって「常識」とされてきたことだ。人間の知を結集すれば、こんな間違った世界観が2000年もまかり通るほど、人間は馬鹿ではあるまい。それがまかり通ってしまったのは、アリストテレスの知見を「教義」にまで昇華し、それに対する異論をすべて犯罪視した、スコラ哲学の弊害があった。人間は2000年の長きに渡って、アリストテレスの間違いに「気がつかなかった」のではなく、そもそも「疑うことを許されていなかった」のだ。

現代の科学では、先行研究に対して「説明できない事実」を発見したら、科学者は嬉々として論文を書く。「間違い」は科学を発展させるための原動力でこそあれ、科学の権威を貶めるものでは決してない。仮説を立て、それに対する反証を見いだし、それを包括するようなさらなる仮説を立てる。そういう無数の階段を積み上げることで、科学は成り立っている。

つまり、科学の実体とは「何か固定化した知識」という静的なものではなく、「間違いを修正していく営み」という動的な方法論なのだ。だから、科学には「聖典」は存在しない。ニュートンの『プリンキピア』であろうと、アインシュタインの『一般相対性理論』だろうと、それらは単に「途中の階段」に過ぎない。その中の矛盾を見いだし、それを克服する営みは、今もなお延々と続けられている。

ところがスコラ哲学では、「これが答えです。これ以外は認めません」という『聖典』を求めてしまい、かつそれを作ってしまった。その枠から外に出ることを禁じたのだから、学問が発展するわけがない。スコラ哲学の「発展」というのは、あくまでもキリスト教的世界観の中での辻褄合わせが遂行されることを指すのであって、それはいわば同じ屋根の下で延々と動き回るような行動に過ぎない。

中世のキリスト教世界では、分化した教義の統一を図るため、「公会議」というものが何度も開催されている。世界史の教科書では、三位一体説を確立した381年のコンスタンチノープル公会議、十字軍派遣を決定した1095年のクレルモン公会議、教会大分裂(シスマ)を収拾した1414年のコンスタンツ公会議などが有名だ。一番新しいところでは、他宗教との対話を重視する声明を発表した1962年のバチカン公会議がある。

公会議を実施するには、決定の基盤となる聖典が要る。理屈づけのために拠り所となる「正しい理由」が必要となる。その目的のためには、聖書は役に立たない。キリストが指向した原始キリスト教は、そもそも政治的・学問的な目的に基づく教義のあり方を目指していない。スコラ哲学は、そうした必要性に迫られて作られた、いわば「最初に目的ありき」の、理屈の集大成だったと言えるだろう。

政治的、学問的な「権威」を確立してしまったら、それを制度に適用する際に、必ず歪みが生じる。特に人間は権力を握ると、必ずそれを濫用する誘惑に駆られる。キリスト教の権威といえどもそれは例外ではなかったようで、スコラ哲学を背景とした政治・学問的な腐敗が顕著になった。それが16世紀のルターによる宗教改革につながっていく。宗教改革というのは、実際のところはカトリックとプロテスタントという二大流派が生じる「宗教分裂」のことだ。教義の統一を図ったはずのスコラ哲学が、行き着く先として宗教分裂を巻き起こしたのは、皮肉としか言いようがない。


スコラ哲学の実体を調べてみると、「多くの人が集まると、あり方を統一しようとする欲求が生じる」「人は人、自分は自分と割り切って、他者を違うものと認めつつ接するのは難しい」という、人間に普遍的な傾向が見て取れる。AKB48のファンであろうと、ももクロのファンであろうと、自分と他人を切り離して、それぞれのあり方を尊重する、というのは、なかなか難しいことなのだろう。「そんな参加の仕方じゃ、本当のファンとは言えないぜ」という言い方は、有史以来スコラ哲学が発生して権威を得た理由を、現代に反映したものだと思う。

もし今年、ももいろクローバーZが紅白歌合戦の出場を打診されたら、スタッフの間でさぞ盛大な「公会議」が開催されることだろう。過去の言動と、実際の行動の辻褄を合わせ、かつファンが納得のいく形で「教義」をでっち上げなくてはならない。
人間というのは、どの時代でも、やっていることは基本的に同じなのだな、という気がする。



初詣に出かけるタイミングが重要なのだ。