メンデル



グレゴール・ヨハン・メンデル(1822-1884)

オーストリアの修道士。「メンデルの法則」として知られている優性の法則、分離の法則、独立の法則を発見し、「遺伝学の祖」とされている。

当時、遺伝という現象があること自体は知られていたが、生命体の形質は液体のように混じり合って遺伝すると考えられていた。メンデルはエンドウ豆の交配を観察することによって、形質は粒子状の物質(遺伝子に相当するもの)によって遺伝する、とする説を唱えた。

普通の修道士であればおとなしくエンドウ豆を栽培していればよいものを、遺伝の形質に気づいたことから、メンデルはかなり自然科学に興味をもっていたことが分かる。
実際、メンデルの所属していた修道院は、哲学、数学、鉱物学、植物学などで当時の最先端に匹敵する研究を行っている、一種の学術研究機関だった。またメンデルは、2年間ウィーン大学に留学して、物理学、数学、解剖学、生理動物学などを学んでいる。どう考えても普通の修道士風情ではない。

エンドウ豆の交配実験によって遺伝の法則を形式化したメンデルは、論文を、当時の細胞学の権威であった研究者に送る。しかし、浮世と離れて科学を独学していたメンデルは、当時としては斬新な、数値による計量的分析を独自に行っていたために、論文を黙殺されてしまう。ひとつには、数学的で抽象的な概念が理解されなかったからだという。当時の大学に跋扈していた学術主義や派閥意識も、外様の研究者を受け入れることを阻んでいただろう。

遺伝の研究を黙殺されたメンデルは失意に沈んだかというと、そうではなく、その後も修道院での業務に忙しい日々を送った。のちには修道院長に就任している。修道士としてもかなり優秀な人材だったらしい。
独学による科学研究も続けており、気象観測や天文学の研究でも成果を上げており、死去した時にはむしろ気象学者として知られていた。

メンデルの遺伝研究は、死去およそ15年後に、フリース、コレンス、チェルマクという3人の学者によって、偶然再発見された。この3人の学者はそれぞれ独自に遺伝学の研究でメンデルと同様に仮説にたどり着いており、自分たちの仮説をすでにメンデルが発表していることを同時に知った。3人は、遺伝法則発見の栄誉はメンデルが浴するべきである、と考え、メンデルの研究成果を広く再発表した。


現在、高校の生物の授業でもメンデル遺伝は教えられている。まぁ、話としてはよくできているし、遺伝というメカニズムをシンプルに提示するモデルケースとして題材に採り上げるのは分からないでもない。
しかし、メンデルの逸話から本当に我々が汲み取ることは、その遺伝法則の内容ではないような気がする。

実は、メンデルの法則は、それに該当しない事例が多く観察されていることが知られている。
メンデルが遺伝実験にエンドウ豆を使用したのは、品種改良が人為的に操作しやすく、純系からの交配が安定しているからだ。エンドウ豆という素材自体が、遺伝操作に絡む雑多な要素を排した「理想化された品種」と言える。

しかし、多くの生物はそのような「純系」を抽出することが困難で、遺伝に絡む様々な要素が含まれる。学校の試験では「摩擦はないものとする」と理想化していても、実際の世の中には摩擦があるように、エンドウ豆でうまくいった交配実験が世の中すべての生物に適用できるわけではない。

さらに、メンデルの実験には致命的な弱点があった。
たとえば、分離の法則には、つるつるのエンドウ豆と、皺のあるエンドウ豆の形質発現が問題になる。
メンデルは、このふたつの種類のエンドウ豆を、「感覚」で区別した。実際には第2世代、第3世代のエンドウ豆になると、ツルツルともシワシワともつかないような「中間形質」が多く現れる。メンデルはこれらの曖昧な形質を、「なんとなくこっち」と、自分の直感に基づく感覚で区別した。

このような感覚に基づく分類は、当然ながら再現性がない。他の人がその実験を追試してみても、同じような結果を出すことができない。
これは、黄色と緑のエンドウ豆の色彩区別の実験でも同様の結果が出ている。黄色とも緑ともつかないような「黄緑色」をどっちに区分するか、かなり感覚的に分けてしまっている。

メンデルの研究が当時理解されなかったのは、数値に基づく計量的な立証方法が理解されなかったからだが、その計量方法それ自体にすでに誤りがあった。いくら「ツルツルのエンドウ豆が○○個」「シワシワのエンドウ豆が××個」と数値化して考察したとしても、その数値の根拠が個人の感覚では、科学研究の土台として失格だ。

要するにメンデルは、正しい統計データの取り方を知らなかったのだ。統計データの基本は、そこで使用されている諸概念の定義をきっちり行うことだ。その定義は、再現可能性を保証するために数値化する必要がある。
たとえば「シワシワのエンドウ豆」を、「皮角表面との屈曲率が表面積全体の○○パーセント以上のもの」などと定義しなければならない。ひとつひとつのエンドウ豆について、その定義に照らし合わせて「シワシワなのかどうか」を決めなければならない。そのように数値化された定義を使ってはじめて、実験に再現可能性が保証される。

統計データの信憑性をきちんと保証する訓練を積んでいれば、直感で決めるエンドウ豆の形のような「似非データ」の危険性を排除できるはずだ。
たとえば、頻繁に行われる似非統計に「都道府県の幸せ指数」「幸福度の高い国ランキング」のようなものがある。このようなランキングの上位は、大都会から遠く離れた郊外地方が軒並み選ばれる。

しかし、実際に「何をもって『幸せ』とするのか」という構成要素をひとつひとつ見てみると、「人口ひとり当たりの公園面積」「道路の広さの平均」「保育園の待機児童の少なさ」のような、恣意的なものばかりだ。それが本当にひとの「幸せ」につながるかどうかは一切無視。勝手に幸せのあり方を押し付けられているように見える。

そのような公的インフラのような数値がいくら束になって掛かろうとも、おそらく「年収1000万」ひとつのほうが幸せ指数は高かろう。そして、地方企業よりも大都市に集中している大企業のほうが、収入の高さは期待できる。
「幸せ指数」のようなランキングは、そもそもの目的が「人口を地方に分散させて、大都市への人口集中を防ぐ」というものだ。「地方はこんなにいいところですよ」という、行政府による打ち上げ広告に過ぎない。だからそもそも「地方都市が上位でなければならない」という、はじめから目的ありきの似非統計なのだ。

このようなインチキ統計に引っかからないためには、「正しい統計データ」をきちんと見分ける訓練が必要だ。中学、高校などの中等教育では、これを教えるのは社会、理科、数学にまたがる分野になる。資料集に乗っている表やグラフが本当に統計的に妥当なものなのか、ひとつひとつ検証する癖をつけなければならない。


そこへメンデル遺伝である。高校の生物の授業では、メンデルが実際に収集した数値データとその根拠を開示せず、いきなり「ツルツルの豆と、シワシワの豆が、○○対xxの割合で発現」などと教えてしまう。そのデータの信頼性については一切触れない。本来であれば正しい科学的思考の方法論を教えるべき理科の授業で、重大な誤認を犯している事例を覚えさせていることになる。

これは、正しい中等教育の仕方として妥当なのだろうか。日本人は統計に騙されやすいところがある。その原因は、初等・中等教育の段階でこのような「正しい統計データの取り方」を教わっていないところにあるのではないか。

以前、僕の講義を受講していた学生が、期末に「戦争というのは本当に惨禍だけをもたらすものなのか」というテーマで課題レポートを書いてきたことがある。戦争というのは歴史的に悪いだけのものではなく、戦争があったからこそ世の中が進歩した、という面もあったのではないか、というレポートだった。
その結論を導くために、その学生はデータとして、歴史の教科書に載っているような戦争をひとつひとつ取り上げていた。それらの戦争が「益をもたらした」のか、「害しか与えなかった」のか、ひとつひとつ区分していた。

僕は別に歴史学の授業を担当していたわけではなく、その授業は「世界の言語」という言語学の授業だったのだが、そこは別に問うまい。その授業は1, 2年生対象の入門授業だったので、僕は期末レポートの課題として「科学的思考の方法論が実践されていればそれでよし。テーマは言語についてでなくても何でもいい」という出題をしていた。仮に言語についてでなく歴史についてであっても、その方法論が適切でさえあれば、ちゃんと単位をあげる所存だ。

しかしその学生のレポートは、ある戦争が「益」なのか「害」なのか、その一番大事なところを、本人の直感で分けていた。その学生によると、第一次世界大戦は「害」だが、第二次世界大戦は「益」なのだそうだ。これは適切な統計データの取り方ではない。考察のはじまりがこのような似非統計に基づいてしまうと、その先に考察をいくら組み立てたところで、すべては無駄に終わる。
そのレポートは50枚を超える労作で、時間も手間もかけたのだろうが、問答無用で不合格にした。授業をきちんと聞いておらず、自分の中で決めてあるマイルールに基づいただけの、単なる「お話」に過ぎない。少なくとも、「再現可能性が保証された共有可能な知」としての科学研究の条件をまったく満たしていない。

そういう学生は、メンデルと同じだと思う。決して、悪気があって研究結果を「捏造」したわけではない。単に、「適切な統計データ」がどのようなものか知らなかっただけだ。着眼点がいくら良くても、そこで使われる方法論が間違っていたら、学問的に無価値なものになってしまう。
「無能で十分説明されることに悪意を見出すな」、俗に「ハンロンの剃刀」と呼ばれるこの手の誤謬は、世の中に思いのほか多いのではあるまいか。


かように間違いのあるメンデルの研究だが、僕は個人的に、このメンデルの遺伝研究の仕事について、ちょっと説明しにくい複雑な感想をもっている。
科学的に誤謬が伏在していることは間違いない。しかし、だからといってこの事例を「無価値」として科学史から葬り去るには、ちょっと抵抗がある。

そもそも、なぜメンデルの研究は、発表当時に広く知られず、埋もれたままだったのか。ひとつには、メンデルが行った数値化する科学的思考の概念がまだ不十分だった時代という不運はあるだろう。しかし、僕は当時の生物学をとりまく状況から、メンデルの研究が知られていなかった他の理由を疑っている。

そもそも、メンデルが修道士だったことを忘れてはならない。メンデルは修道士として、キリスト教の価値観のみで作られた世界で暮らしていた。「生命体はすべて神が作り給う」という世界観のなかで、「生命の形質には法則性があるのではないか」という発想をすること自体、かなりの掟破りな破戒行為だったのではないか。メンデルの論文が抽象的で難解だったのは、メンデル自身がそのように、わざと真の意図を隠して曖昧に書いたのであるまいか。

つまり、「知られていなかった」というよりも、「意図的に隠していた」と考えるほうが、当時の時代背景に合うような気がする。神に仕える修道士として、神の意志と関係なく生命体の形質に関して形式的な考察を行うなど、ダーウィンの進化論に匹敵するほどのヤバさだろう。

そう考えると、なぜメンデルが遺伝形質の研究からすぐに離れたのか、その理由も理解できる。メンデルは終世、修道士としての人生を全うした。宗教的信仰のなかで独学で科学研究を行うことは、「信仰」と「科学」の間で折り合いをつける努力の繰り返しだっただろう。天文学を学べば自力で地動説にもたどり着くだろうが、同時期に生きたダーウィンの進化論についてはむしろ宗教界から批判を行う側だったと思う。

また修道院というのは女人禁制の場で、そこでは性や生殖に対する言動はタブーとなる。そのような道徳律の中で、交配による形質遺伝の研究をする、ということ自体、場を支配する道徳律に反するものとして弾劾される危険があったのではないか。

そのような時代背景を考慮すると、メンデルというのは、控えめに見積もっても「宗教上、道徳上のタブーをものともせず、事実を事実として見極めたい求道者」という人物だったのではないか。温厚そうな宗教者としての顔と、冷徹に事実を見極めたい科学者としての顔が、同居していた人だったのだろう。時代と環境の制約の枠にとらわれず、知りたいことを知ろうとする、知的なガッツを感じる。

科学を志す者に必要なのは、「事実を知りたいという知的欲求」と「考察を正しく行う方法論」だ。後者は訓練によって身に付けることができるが、前者は個人の性格が大きくものを言うことが多い。高校まで成績優等生でも、大学に入ってから勉強ができなくなる学生が多いのはそのためだ。メンデルは、その知的欲求が非常に強く、それが為に新たな科学分野を切り開くほどの足跡を歴史に残すことができたのではあるまいか。

惜しむらくは、後者がきちんと備わっていなかったことだ。時代の不幸、環境の不幸、いろいろな理由があろうが、本人がそれを本気で望んで、宗教的信仰よりも科学研究を最上位の価値に置くような人生を送ったならば、おそらく自力でその方法論を編み出せたのではあるまいか。そうなれば、現在におけるメンデル遺伝の位置づけはまた違うものになっていたのかもしれない。



エンドウ豆でビールのむと(゚Д゚)ウマー