神戸市の香雪美術館に、不思議な屏風絵がある。



レパント海戦



この屏風は、1571年にスペイン王室とオスマン・トルコ帝国が戦った「レパントの海戦」を描いている。
屏風左側の馬車上にはスペイン君主が描かれ「ろうまの王(ローマの王)」と注記してある。屏風の右側はオスマン・トルコ側が描かれており、トルコの外観を象徴するものとして灯台が描かれ、「つうるこ(トルコ)」と注記がある。トルコであることが分かりやすいように、象に乗った兵士まで描かれている。

これが「不思議」な屏風絵なのは、不可解なことが多いからだ。
まず、なぜに日本で描かれた屏風絵の題材が、レパントの海戦なのか。「レパントの海戦」は、大体の世界史の教科書に載ってはいるが、それほど必須の知識というわけではない。世界史を学んだことのある学生さんだって「知らんなぁ」という程度ではないか。歴史の知識としては、Bマイナスくらいの重要度だろう。なぜ戦国時代末期のご時世に、そんな遠い彼方のヨーロッパ世界の戦争が絵の題材になるのか。

さらに、描かれている状況がおかしい。
読んで字のごとく、レパントの海戦というのは、船で戦われた海戦だ。領土拡張を進めるオスマン・トルコが西進し、キリスト教文化圏まで範囲を伸ばした。その端緒としてキプロスがトルコの手に落ちる。それに危機感を抱いたローマ教皇が、スペイン王国の手を借りて、ギリシアのイオニア海でオスマン・トルコ軍と戦った。

しかし、屏風絵ではなぜかこの戦いが陸戦として描かれている。一応、帆船も描かれているものの、ここで描かれている帆船は軍事用の船ではなく、貿易用の商業帆船だ。軍事史的にはレパントの海戦は、ガレー船が使われた最後の海戦として知られている。しかし屏風絵のなかの船の描写は、その事実を反映していない。

さらに、トルコっぽさを出そうとして描かれた灯台の風景もおかしい。この戦場はギリシアなのだから、トルコの沿岸の景色を描いた絵は状況を正しく表していない。
絵の中のトルコ兵は、ご丁寧に象を乗り回して攻撃を仕掛けているが、もともと海戦に象を連れて行くような間抜けな軍はないだろう。

こうしてよく見ていると、この屏風絵が、何のために、どうやって描かれたのか、疑問を感じることがたくさんある。
わざわざ屏風絵に描いてまで、この戦争を後世に広め伝えようとした制作者の意図は、どこにあったのか。


世界史的な知識としては、レパントの海戦の意義は、オスマン・トルコ側ではなくヨーロッパ世界側にある。戦争の結果として、スペインが勝ち、オスマン・トルコが負けた。領土拡張の野心が高いオスマン・トルコのヨーロッパ進出政策はここで頓挫し、両勢力が拮抗する軍事境界線がある程度確立した。

しかしこの敗戦は、オスマン・トルコにとってそれほど打撃だったわけではなく、この海戦以後もトルコは地理的要衝を占める国として依然、勢力を保ち続けた。ロシアの南下政策やヨーロッパ諸国の近代化によってトルコが相対的に弱体し、オスマン・トルコが革命によって崩壊するのは、第一次世界大戦後のことだ。260年続いた徳川幕府は大したものだが、閉鎖された島国と違い、地理的にも周囲に囲まれた環境にありながら、オスマン・トルコは約620年の長きにわたりイスラム圏を統括し続けた。

むしろ、「イスラム勢力を撃退した」という功を上げたスペイン王国が、その名を轟かせるきっかけとなった。スペイン絶対王政を表す言葉として「無敵艦隊」という用語がよく知られているが、そのイメージはすべてこのレパントの海戦の勝利がきっかけとなっている。無敵艦隊というのは、「誰に対して無敵なのか」というと、それは「イスラム勢力に対して」である。イスラム勢力を追い払ったスペイン強し。イスラム勢力を駆逐した艦隊強し。そういうプライドが、「無敵艦隊」という言葉になって今に残っている。

翻って当時の日本の状況を考えてみると、スペインはこの頃、東南アジアをはじめとする地域の植民地化に熱心だった。スペインがもし当時、日本に接触することがあったとしたら、その目的は明らかに「植民地化」だろう。
その目的のためにスペインがとる方法はいつも決まっている。先に偵察隊として、カトリック宣教師を送り込み、現地の様子や人の性質を報告させる。

当時のヨーロッパは絶対王政の時代で、各王室は植民地の開拓に躍起になっていた。その目的は胡椒や銀の輸入だったから、産地であるアジアがよく狙われた。時代が下って、産業革命後の帝国主義時代になると、植民地は「物産の調達地」から「商品を売り込む市場」として利用価値が変わるが、それでも経済力が高かったアジア諸国が狙われたことに変わりはない。

当時、アジアに進出していたヨーロッパ諸国は、イギリス、フランス、スペイン、ポルトガルなどがひしめいていたが、江戸時代、鎖国を敷いた江戸幕府は、唯一貿易の相手としてオランダを選んでいる。これは徳川幕府が当時の世界情勢を正しく把握していたことを示している。植民地を広げる野望が強いイギリス、スペインなどに比べ、もともと母国の王制が盤石ではなく、軍事力がそれほど強力ではなく、もともと貿易によって国の体制を維持していたオランダは、平和的な貿易相手としては理想的だっただろう。もしこれがスペイン相手だったら、皆殺しにされたインカ帝国のようになっただろうし、イギリス相手だったら、市場として搾取されまくったインドや、アヘン漬けにされた挙句に戦争を吹っかけられた清のようになっただろう。

問題の屏風は、小西行長、黒田孝高らの依頼で作成されている。共にキリシタン大名だ。日本にキリスト教を伝えたのはカトリックのイエズス会だから、当時の日本のキリスト教の布教は、カトリックであるスペイン王国が後ろで糸を引いていると考えて間違いない。日本にキリスト教を伝えたザビエルは、スペインの一地方であるバスク地方の出身だ。

すると、この屏風が作られた意図が見えてくる。つまり、布教の権威付けのために、スペインが勢力を誇示するために描かれたのではないか。「いまヨーロッパでは、われわれスペインが覇を握っていますよ」ということを誇示するためのものだ、と考えて間違いなかろう。
単にスペイン王室の繁栄を誇示したいだけなら、別に宮廷の建築画であっても構わないはずだ。それをわざわざ、トルコを破った戦争の絵を題材にした、ということは、「逆らうとお前らもこうなるぞ」という威嚇と考えられる。

おそらく、小西行長や黒田孝高らは、純粋にキリスト教布教のために宣教師に協力する形でこの屏風絵を作成させたのだと思う。しかし、残念ながら彼らは頭が悪かった。スペイン王室の意図を正しく理解することなく、宗教的で崇高な使命感で操られ、宣教師に言われるままに利用され、この屏風を作ったのだろう。限られた情報源からでも対外情勢を正確に把握していた徳川幕府とは、現状認識能力に雲泥の差がある。彼らもろとも豊臣一派が滅んだのは、歴史の流れで見る限り、日本にとっては幸運だった面があるだろう。

そう考えると、なぜこの屏風が史実通りの海戦ではなく、陸戦として描かれたのかがなんとなく分かる。戦国時代には幾多の戦乱が発生したが、そのほとんどは陸戦だ。日本で海戦といえば、壇ノ浦の戦い、文永・弘安の役くらいのもので、それとて地中海の覇権を賭したレパントの海戦とは、規模が全く異なる。

つまり、「植民地化の下地としてスペインの軍事力を誇示する」という目的のためには、史実通りに海戦を描いても、当時の日本人にはあまりピンとこなかったのではあるまいか。戦国時代の戦争に慣れた日本人は、どうしても軍の戦力を、歩兵の数と武器の数で推し量る。海戦をそのまま描くと、どうしても船団の量を描くことに力点が置かれ、そうした「目に見える戦力」を描きにくい。

プロパガンダや広告のような媒体は、事実を描くことよりも、「受け手の目にどう写るか」によって、表現の方法が違ってくる。それはとりもなおさず、表現の仕方をよく検証することで、情報の発信元が意図していることが推測できる、ということでもある。この屏風の描かれ方からその意図を推察し、その目論見が失敗に終わったことから考えると、日本人というのは当時から、芸術的な審美眼の他に、冷静に事実を推察する思考力が備わっていたことが分かる。



ダイエットのCMを見るたびに狙い打ちする顧客層が想像できて面白い。