夏の読書は古典に限りますな。


古典というのは、主語が省略されたり場面が不明瞭だったり、情報が不足気味の文章がつらつらと並んでおり、きちんと読み解こうとすると非常に苦労する。
しかし、夏の暑い日に、だれた頭でなんとなくだらだらと読むと、この「いいかげんさ」が非常にちょうどいい。

日本の平安時代前後に書かれたもののうち現存しているものは、大抵、女性が書いたものだ。随筆、日記、物語など、ほとんどが女性の手による。
ひとつには、当時そういう物書きが専業の職種として成立していなかった、ということがある。当時書かれたもののうち男性の手に拠るものは、ほとんどがお上の命によって編纂された、政治的事業の側面がある。随筆や日記などのように「なんとなく書いたもの」は、当時の男性の書くものではない。

そう考えるにしても、もうひとつ疑問がある。日記や随筆というきわめて個人的な書き物が、なぜ1000年の長きにわたって読み継がれるのだろうか。
現在でも芸能人やらアイドルやらの日記やBlog, SNSの記事が広く読まれているが、まぁ、たいして面白いものではない。当人の熱心なファンでもなければ、なんの価値もない文章だろう。ましてや、1000年後にも残っている文章かというと、そんなことは決してない。
では、平安時代の女性の日記が、時代を超えて読み継がれているのは、なぜなのか。

この時代の日記ものを読み返してみると、全然面白くない。少なくとも、1000年の長きに渡って広く長く読み継がれるべきほどのもには見えない。
平安三大日記と目される「枕草子(=清少納言日記)」「紫式部日記」「和泉式部日記」を読んでみると、「瓜に子供の顔を描いてみたらチョーかわいい」だの、「蜘蛛の巣に朝露がかかっているとなんかイイ」だの、他愛もないことばかり書いてある。日記だから別に書きたいことを書けばいいのだが、その手の他愛ない内容が1000年も読み継がれる理由とは思えない。

現存している日記ものの共通点は、「宮中に使える女房が書いたもの」ということだ。要するに一般市民の下々の生活実感ではなく、宮中という上流階級の生活が余すところなく書かれている。現在の視点では、むしろ前者のほうが歴史学的価値が高いと思うのだが、そういう市井の人々はまだ識字率の点でも道具の点でも記録を残せる環境にはなかっただろう。

たとえば「和泉式部日記」には、次のような記述がある。

かくて二三日音もせさせたまはず。頼もしげにのたまはせしことも、いかになるぬるにかと思ひつづくるに、いも寝られず。目もさまして寝たるに、拠るやうやうふけぬらむかしと思ふに、門をうちたたく。あなおぼえなと思へど、問はすれば、宮の御文なりけり。思ひがけぬほどなるを、「心や行きて」とあはれにおぼえて、妻戸押し開けてみれば、

見るや君さ夜うちふけて山の端にくまなくすめる秋の夜の月

うちながめられて、つねよりもあはれにおぼゆ。門も開けねば、御使待ち遠にや思ふらむとて、御返し

ふけぬらむと思ふものから寝られねどなかなかなれば月はしも見ず

とあるを、おしたがへたる心地して「なほくちをしくはあらずかし。いかで近くて、かかるはかなし言も言はせて聞かむ」とおぼし立つ


(口語訳)
こうして、宮様は二、三日お便りもくださらない。頼もしいことをおっしゃっていたのも、どうなってしまったのだろうかと思い続けると、眠ることもできない。目を覚まして横になっていると、夜もだんだん更けてしまったのだろうよと思っているときに、誰かが門を叩いている。誰だか見当もつかないけれど、家のものに応対させると、宮からのお手紙であった。思いがけないタイミングに「心が通じたのかしら」としみじみ嬉しく思われて、妻戸を開けて手紙を読んでみると

見ているかね、あなたは。夜も更けて山の端近くに曇りもなく澄んでいる秋の夜の月を

すると自然に月をぼんやりと見やってしまい、いつもよりもしみじみと感じられる。門を開けないままだったのでお使いの物が待ち遠しく思っているだろうな、と思って、ご返事に

夜も更けてしまいつつ眠れないでいたけれど、月を眺めるとかえって物思いがするので、あえて月は見ていません

と読んだのを、宮は意表をつかれた思いがして、「やはりすばらしい女だ。なんとかして彼女を近くに置いて、このようなたわいない和歌を詠ませて聞きたいものだ」と決心なさった。


宮(=天皇)から夜にラブレターをもらって、こんなお便りをしたら気に入られちゃいましたよ、という自慢話。宮の手紙には「月が奇麗ですね」。これは我が日本では古来の昔より「まるであなたのようです」と相手の美貌を褒める際の常套手段だ。夜の会話に「月」が入ってきた時点で、すでに会話の意図は口説きと断じてよい。

それに対して作者の和泉式部は、わざと逆の内容の「月なんて見ていません」と返事をする。そのこころは「見るとあなたを想ってしまうから」。
その結果、宮は「なんとすばらしい女だ」と感心し、この女を手に入れたいものだ、と気が引かれてしまう。

凄いのは、和泉式部が「こういうことを言ったら、宮様が私のことを『すばらしい女だ』と思ったのですよオホホホホ」と自分で書いていることだ。しかも相手は天皇だ。天皇に見初められた、ということは、つまり和泉式部にまつわる一族郎党すべての栄華繁栄を意味する。

つまり、当時の女性作者の筆による日記物語は、すべて「こういうことを言ったら、誰々にとても気に入られましたの」的な、時の権力者に寵愛されたことの自慢合戦なのだ。
清少納言の「枕草子」は、終始一貫して中宮定子に褒められた自慢で埋め尽くされている。定子が香炉峰の雪に擬えて問いかけをしても誰も理解できなかったのに、清少納言ひとりがその意図を察して御簾を上げたら「さすが頭が良い」と褒められた、のような自慢話を得意げに書き連ねている。

一方、根暗で地味で内向的で、壁に向かって独りごとを言う癖がある紫式部は、明るくて開放的な清少納言を徹底的にこき下ろして批判している。しかしそういう紫式部も、中宮彰子に気に入られた話が中心となっており、「ま、こういうことを書くと自慢話になってしまいますけれど」と断りつつも、その自慢話を延々と並べている。

しかし、清少納言や紫式部などは、自慢の原因がしょせん中宮だから、まだ可愛げがある。これが和泉式部になると「わたくし天皇に気に入られちゃいましたのオホホホホ」となる。当時としては大した自慢だ。しかも自分の筆ながら「ワタクシのこういう所に宮様は夢中になってしまいましたの」のようなことを、臆面もなく書き連ねている。
さすがにこうした描写は第三者的な筆によるものではないか、という憶測から、「和泉式部日記」の実際の作者は本人以外のゴーストライターだったのではないか、という説もある。しかし本人の筆によるものでなくとも、そうした内容が広く読み継がれ、1000年もの時代の評価に耐え続けてきた事実に変わりはない。

つまり、当時の女性作家による日記や随筆は、当時の読者にとって「こういう振る舞いをすれば、たとえ天皇でも虜にできますよ」というハウツー本のような役割を果たしていたのではないか。当時、藤原一族による摂関政治が全盛で、その権力の礎は、何よりも当時の天皇に自分の娘を差し出すことにあった。自分の娘が天皇に気に入られるかどうかが、一族の権力を左右する。そういう世の中にあって、その気に入られっぷりを披露する日記物は、権力を欲する政治家、宮中の生活を羨む下級役人、煌びやかな世界に憧れる一般女性など、多くの層にとって必読の書だったのではないか。

過去でも現在でも、他人の日記というものは、読んでみたい欲求が高い割には、実際に読んでみてもつまらないものだ。「なんだ、こんな程度のことか」という、たわいもない内容が多い。日記というのは基本的に人に読ませるためのものではないのだから、それはそれで一向に構わない。
しかし、平安時代に書かれた日記や随筆を読むと、明らかに他人に自慢したい意識で書かれた文章に読める。意図的に、人に読ませることを前提に書かれているような気がする。時の女房共が大挙して日記や随筆を書き残しているところから考えて、そういう行為を推奨した、何らかの政治的背景を感じてしまう。



僕の日記はトドちゃんが登場する絵日記ですが。