舛添都知事辞職 見限られた末の遅過ぎた決断
(2016年06月16日 読売新聞社説)
舛添都知事辞職 苦い経験を次に生かせ
(2016年06月16日 毎日新聞社説)
混乱を深めた舛添知事の遅すぎる辞職
(2016年06月16日 日本経済新聞)
舛添氏の辞職 人気投票の後任選び許されない
(2016年06月16日 産経新聞社説)
舛添知事が辞職 東京は教訓を学べるか
(2016年06月16日 東京新聞社説)


舛添要一東京都知事が、ようやく観念した。政治資金の私的流用問題を理由に、都議会議長に辞職願を提出した。それに対しての各社の社説。
ことが重大事件だけに、各紙が競って気合の入った論説を載せている。特に、毎日、産経、東京の3紙は、社説全段をぶち抜きでこの記事に充てている。

どの記事も、経過説明と今後の教訓を均等に配した記事で、内容はそれほど乖離していない。まぁ、平均点前後に散らばった社説と言えるだろう。不祥事の責任を糾弾する記事は、書き手が「正義の味方」になり切って暴走する傾向があるが、今回に関してはそれほど極端な記事は見られない。

僕が今回の舛添問題を見るに、今後につなげるために考えなければならないことは3点あると思う。

(1)与党・自民党と、都議会・都庁の管理責任
(2)マスコミの果たした役割
(3)政治家の資質を見るための一般市民の眼

まず(1)の責任問題だが、今回の直接の原因が舛添要一個人の資質に帰するべきものであることは論を待たない。しかし、舛添ひとりをフルボッコに叩いたところで、第二、第三の舛添が出てくる抑止力にはならない。

毎日新聞が指摘しているように、舛添要一はもともと自民党を離党した人間だ。それを都知事選に際して、袖にされたはずの自民・公明は舛添を支持する選挙戦を取った。知名度が高い舛添に勝機あり、と名ばかりの候補者を擁立する無節操さは、与党として失格だ。折しも今夏の参議院選に、自民党は民進党を見限った谷亮子を擁立する構えだ。知名度を頼りとする選挙戦は、国民を馬鹿にするにも程がある。

自民党の管理責任は、毎日新聞が厳しく触れている。

自民、公明両党は、知事の公私混同問題が浮上した当初、責任を追及する姿勢に乏しかった。とりわけ自民党は集中審議の開催にも煮え切らない態度をとり続けた。

ところが、国民の関心が高まり、与党にも火の粉が降り注ぎそうになると対応を一変させた。参院選にも影響しかねないとの空気が自民党本部に広がり、収拾に走った。ただし、自民党が政治とカネをめぐる問題を本気で正そうとしているのかどうか疑問だ。
(毎日社説) 

自民党のこうした煮え切らない姿勢は、明らかに舛添問題と夏の参議院選を絡めた上での方策だったのだろう。しかし、自民党は有権者の感情を軽視した。そこが誤算だっただろう。まさか、ここまで舛添憎しの有権者感情が膨らむとは、思っていなかったのではないか。

これで、11年4月に石原慎太郎氏が4選されて以来、5年半で都知事選挙が4回行われることになる。カネの問題による更迭が1度なら個人の資質で済むだろうが、こうまで同じ不祥事が続くと、都議会や都庁の監視体勢に疑問符がつく。石原元都知事も言及していたことだが、都知事の出張予算や運用方法は、基本的に都知事ひとりでは決められない。数多くの職員が手分けをして予算配分を行う。ここまでの不祥事につながったということは、実際の予算運用に至るどの段階においても、都庁内から「待った」がかからなかった、ということだ。予算運用の監視体勢が機能していないことは明らかだろう。

舛添は東大助教授を務めた経験があり、マスコミにも太いパイプをもつ。産官学に多くのコネをもつ舛添の言いなりになっていれば、都庁の役職者は天下り先には困らない。そうしたズブズブの利権関係が、今回のチェック機能の甘さにつながっているのではないか。


(2)のマスコミの役割については、今回の問題発覚の経緯に不自然さが感じられる。東京新聞が指摘しているように、今回の舛添の資金運用問題が明らかになったのは、週刊文春の調査記事がきっかけだった。なぜ文春の記事が、ここまでの大問題に発展したのか。

日本では多くみられる現象だが、政治家が失脚するのは、「政治的能力が無能である」という理由ではなく、「有権者に嫌われる」という理由が多い。金や女にだらしないことは、政治的な無能よりも罪が重いとされる。舛添が退職に追い込まれたのも、つまるところ「有権者に嫌われた」のが原因だろう。

僕も、舛添の資金運用問題を報じた一連の週刊文春の記事を読んだが、批判の仕方は一様に「猾い」「セコい」「汚い」であって、「無能だ」ではなかった。文春は、いったん資金運用問題を明るみにすれば、舛添が見苦しい自己正当化を並べることを予測していたのだろう。

文春の読みは、気味悪いくらい的中した。

航空機のファーストクラスや高級ホテルのスイートルームを利用しての豪華海外出張。必要な場合もあるだろうが、批判に対しての反論は「トップが二流のビジネスホテルに泊まりますか。恥ずかしいでしょう」。居直りである。あるいは、公用車を使っての神奈川県湯河原町の別荘通い。それへの釈明は「公用車は『動く知事室』。緊急の連絡態勢があり、危機管理上も問題ない」。さらに、家族旅行の宿泊代に政治資金を充てた公私混同ぶり。支出の事実を認めながら、開き直ったように「客室で事務所関係者らと緊急かつ重要な会議をした。これは政治活動です」。

舛添氏の一連の発言を振り返れば、自己正当化を繰り返し、保身を図ろうとする意図がくっきりと浮かぶ。そこには都政も、都民も不在だった。都民の常識はそれを見逃さなかったのである。
(東京新聞社説)

個人的には、世論が舛添弾劾に転じたのは、舛添都知事が新宿区の保育施設建設予定地を、韓国人学校のために貸し出した件がきっかけだと思う。
新宿区矢来町の土地、約6千平方メートルを韓国政府が韓国人学校を建設する為、有償で貸し出すと発表した。この土地は前年、新宿区が保育施設を建設する為、借り入れを申し入れたが拒否された場所だ。つまり日本人の保育施設建設を拒否して韓国人学校を建設することになる。折しも保育施設の不足が社会問題化している時勢に、韓国への土地供与など何事ぞ、という不満が相次いだ。

そもそもこの土地供与は、2014年7月にソウルで朴槿恵大統領に招かれて韓国大統領府で会談したときに要請されたものだ。その際に「90%以上の東京都民は韓国が好き」と発言したことが、不満噴出の伏線になっている。

おそらく文春は、こうした一連の「燃料」が十分に蓄積されたことを見計らって、一気に舛添都政の暗部を暴露したのだろう。政治家が脇の甘さを攻撃されるのはいつものことだが、ここまで一気に国民感情が「舛添憎し」一辺倒に傾く有様は、公平に見て異常といっていい。

文春としては、舛添に関する暴露記事が売れに売れる方策として、そのようなタイミングを見計らったに過ぎない。内容に齟齬はなかったわけだから、これは文春の優秀さと敏腕ぶりを示すだけのことであって、文春を非難するにはあたらない。
問題は、その文春の意図通りに感情を煽られた読者の側にある。今回、舛添を口撃する有権者のうち、はたしてどれくらいが「もしかして自分は文春に操られているのか?」という自覚があるだろうか。マスコミの報道以外のソースに基づいて、自分の頭で考え、その上で都知事の資質を評価している有権者はどれだけいるのだろうか。

舛添は先の都知事選で、実に211万票を獲得して当選した。その211万人のうち、マスコミから得られる「印象」だけで投票した有権者は、少なくとも舛添を弾劾する資格はあるまい。 (1)で、自民党の選挙戦が国民を馬鹿にするにも程がある、と書いたが、馬鹿にされるほうも馬鹿にされるほうなのだ。


(3)は、そうしたマスコミと有権者意識のつながりを懐疑的に見るために必要なことだろう。舛添が都知事として不適格な人間だったのは間違いないが、不適格性にも種類がある。(1)でも触れたように、いま有権者が舛添を弾劾する理由は「猾い」「セコい」「金に汚い」であって、「無能だ」ではあるまい。

舛添の辞任を受けて、これから都知事のやりなおし選挙が行われる。ここでまた有権者がろくに候補者を知ろうとせず、知名度にひっぱられて「なんとなく」投票をするのであれば、同じことの二の舞になる。選挙は、候補者の知名度ではなく、政治運用能力と個人的資質をもとに投票しなければならない。

もしそうであるのなら、今回の政治資金運用問題を取り除いた、舛添の政治能力を公平に評価することが前提となる。はたして舛添は、都知事として「無能」だったのか。

舛添都政が欠点だらけだったわけではない。石原都政の負の遺産だった新銀行東京の他行との経営統合を成し遂げ、障害者雇用や五輪施設の建設費圧縮でも実績を残した。韓国を訪問して朴槿恵大統領と会談するなど都市外交にも積極的だった。
(毎日社説)

「世界一の東京」を掲げて、障害者雇用の促進、水素社会の実現、国際金融センター構想など、様々な施策に取り組んだ。石原都政の負の遺産だった新銀行東京も他行との経営統合に踏み切った。知事個人の問題とは別に、舛添都政そのものはある程度評価できるのではないか。
(日経社説)

政治家の「政治能力」と「個人としての清廉度」は、別物だ。政治的には有能でも、個人としてはどうしようもないクズもいる。また個人としてはとてもいい人でも、政治家としては全くの無能、というケースもあるだろう。

もしこれから行われる都知事選で、東京都民が「今度こそちゃんとした候補に投票しよう」と思うのであれば、人柄が清廉な人だけを選び出す過ちを犯してはならない。政治能力と、個人の資質と、両方のバランスを考えて投票しなければならない。いま舛添を弾劾する大合唱を見ていると、次の都知事選は、能力としては無能でも、「いい人」が優先的に有利になりそうな危険性がありはしまいか。

東京都知事の仕事というのは、石原都知事のように、時には世論を捩じ伏せて豪腕を奮わなければならない場合もあろう。すべてが都民に好かれることばかりやっているわけにはいかないと思う。すべからくリーダーとはかくあるべきで、殊に東京オリンピックという大きなイベントを控えている時にはなおさらだろう。

だからこそ、舛添都知事を総括するときには、負の遺産だけでなく、正の遺産も正しく評価する必要がある。たとえ嫌な奴が行った仕事でも、評価すべきところは評価すべきなのだ。昨今の報道を見ると、そうした継承すべき部分がまったく顧みられることが無い。このままの雰囲気で都知事選に突入すれば、こんどは舛添とは「正反対」の候補者だけが当選してしまうだろう。


僕が今回の舛添騒動を見ていると、なんか有権者は政治というものを「どこかの誰かが、素晴らしい政治を行ってくれる」ことを夢見ているのではないか、という気がする。そういう人は、どこぞの独裁主義国家にでも亡命していただきたい。民主政治というものは、特定の有能な人の資質によって断行されるものではなく、国民ひとりひとりの政治的成熟度が問われるものだ。政治は一握りの政治家のものではない、ということは、すべての国民が政治について責任を負う、ということでもある。今回の舛添のような事例を、舛添ひとりを叩いて悦に入っているような輩は、民主政治の中で生きる資格はない。そういう状況を許した有権者のあり方を恥じ入ってしかるべきだろう。折しも、参議院選挙と東京都知事選という大きな選挙が続く。参政権の役割をきちんと理解せず、知名度ばかりのタレント候補ばかりに投票している限り、日本は「三流の民主主義国」に堕するがままだろう。



ここにきて自民党の選挙対策が堕落しまくってる。



舛添都知事辞職 見限られた末の遅過ぎた決断
(2016年06月16日 読売新聞社説)
都民の信頼を完全に失い、都議会からも辞職を迫られた。追い詰められた末に、ようやく覚悟を決めた退場劇だ。東京都の舛添要一知事が、政治資金の私的流用問題で、都議会議長に辞職願を提出した。21日付で辞職する。知事与党の自民、公明両党までもが不信任決議案に同調した。それが辞職を決めた直接の理由だろう。全会派が一致して不信任案を提出したことから、辞意を表明しない限り、可決は必至だった。政治資金から、家族旅行の宿泊費を繰り返し支払う。趣味の品々を大量に購入する。どう言い繕ったところで、公私混同以外の何物でもないのは明らかだ。

都民から見限られた舛添氏には、首都のかじ取りを担う余力は既になかった。一連の疑惑が浮上してから1か月余りにわたり、都政の混乱が続いた。むしろ遅きに失した辞意表明と言えよう。舛添氏は都議会の閉会に際し、「都政の停滞を長引かせるのは耐え難い」と語ったが、その原因を作ったのは、本人である。公費に対する意識の甘さは、公用車による週末の別荘通いや豪華な海外出張などにも通底する。

違法性の有無というより、公人としての資質が問われた。それにもかかわらず、舛添氏は、一連の疑惑の是非に関する判断を弁護士に委ねた。違法性はないとのお墨付きを得ることで、問題の幕を引こうという意図がうかがえた。舛添氏は、納得のいく説明をしないまま、都知事のポストを離れる。参院議員時代から長らく公人の立場にあった政治家として、辞職後も説明責任が残ることを忘れてはなるまい。美術館に偏った視察など、舛添氏に思いのままの行動を許してきた都庁の管理体制に落ち度はなかったのか。問題が深刻化する前に、監視機能を果たせなかった都議会の対応にも疑問が残る。東京五輪・パラリンピックの準備や首都直下地震対策など、都政の課題は多い。都庁、都議会とも、たがを締め直してもらいたい。

医療グループ徳洲会側からの5000万円受領事件の責任を問われた前知事の猪瀬直樹氏に続き、またしても、政治とカネの問題による都知事の辞職だ。異常な事態と言うほかない。今後は都知事選の候補者選びに焦点が移る。安定した都政運営のためには今度こそ、資質に優れた知事を選出せねばならない。擁立・支援する各党にも、徹底した「身体検査」が求められる。


舛添都知事辞職 苦い経験を次に生かせ
(2016年06月16日 毎日新聞社説)
ほぼ全会派から不信任決議案が提出されるという前代未聞の事態の末の退場だ。舛添要一東京都知事が辞職願を提出し、議会も同意した。家族同伴のホテル代に政治資金を充てるなど、公私混同ぶりが相次ぎ、説明責任すら果たさなかったのだから辞職は当然だ。就任から2年4カ月での辞職だ。混乱が都政にもたらした弊害は大きい。都議会与党だった自民、公明両党も責任を重く受け止めるべきだ。

土壇場での対応は見苦しかった。舛添氏は、今辞職すればリオデジャネイロ五輪・パラリンピックと選挙が重なることを理由に、不信任案の提出を待つよう議会に要請した。だが、信頼を失った知事が国際舞台に登場することの方がむしろ東京の不利益になる。

舛添氏は2014年2月の都知事選で、211万票を得て圧勝した。当時の猪瀬直樹都知事が、医療法人から5000万円を受け取っていた問題で辞職したことを受けたものだ。2代続けて知事が政治とカネの問題で辞職を余儀なくされた。舛添氏はクリーンイメージに加え、政策通で介護問題など社会保障にも明るいとして、都民は都政再建に期待を込めたはずだ。

だが、週刊文春の報道に端を発した一連の疑惑は「公と私」の区別に対する感覚がいかに世間とかけ離れているかを浮き彫りにした。舛添氏は、公用車で神奈川県湯河原町の別荘にひんぱんに通っていた。だが、公用車を「動く知事室」とたとえ自らの行動を正当化した。さらに海外出張時のスイートルーム利用も「要人との急な面会に備えて」と強弁し、都民の不信を招いた。その後、ネットオークションでの美術品購入など、自ら依頼した弁護士の調査でも不適切とされた公私混同が次々と明らかになった。舛添氏は第三者の調査を口実に、都民への説明から逃げた。その弁護士による調査も、主眼は「違法性はない」とのお墨付きを得て、続投する狙いにあったと思われる。

こうした問題はテレビのワイドショーでも取り上げられ、劇場化した側面があるのは確かだ。だが、多くの人が怒りを増幅させた真の原因は、ことを甘くとらえ、開き直った舛添氏にある。自民、公明両党は、知事の公私混同問題が浮上した当初、責任を追及する姿勢に乏しかった。とりわけ自民党は集中審議の開催にも煮え切らない態度をとり続けた。

ところが、国民の関心が高まり、与党にも火の粉が降り注ぎそうになると対応を一変させた。参院選にも影響しかねないとの空気が自民党本部に広がり、収拾に走った。ただし、自民党が政治とカネをめぐる問題を本気で正そうとしているのかどうか疑問だ。口利き疑惑で辞任に追い込まれた甘利明前経済再生担当相は国会を長期間、欠席していたが、先月末に東京地検特捜部が不起訴処分にすると、さっそく活動を再開した。自民党は甘利氏の問題についても厳しく臨むべきだ。

政治資金の使い道に法律上制約はない。これがルーズな使用の温床となっている。とりわけ税金が原資の政党交付金は厳しくチェックされるべきである。国民の政治不信を招く制度の改善策について、与野党で議論を深めるべきだ。

舛添氏の後継を選ぶ都知事選は参院選後の7月下旬か8月上旬に予定される。11年4月に石原慎太郎氏が4選されて以来、5年半で都政の顔選びが4回行われる異例の事態だ。20年の東京五輪への対応はもちろん、さまざまな課題で都政の立て直しを迫られる。人口1360万人の首都の顔でもある都知事の役割は大きい。首都直下型地震などの危機に備えた防災対策の取りまとめや、国の経済戦略と連動した中枢機能整備などの担い手でもある。

舛添都政が欠点だらけだったわけではない。石原都政の負の遺産だった新銀行東京の他行との経営統合を成し遂げ、障害者雇用や五輪施設の建設費圧縮でも実績を残した。韓国を訪問して朴槿恵大統領と会談するなど都市外交にも積極的だった。

1995年に作家の青島幸男知事が当選して以来、都知事選は知名度が決め手となり、政党が主導できない状態が続く。かつて自民党を離党した舛添氏を自公両党が支援したのもその知名度を頼ったためだろう。だが、今回の混乱劇は、知名度競争選挙の苦い教訓になった。

人気投票に終わらせず、どんな知事を後継で選ぶべきだろうか。2代続けて都知事が政治とカネで失脚した経緯を踏まえれば、政治とカネにクリーンで、公私の区別に厳しいことは最低限の条件となる。そのうえで、全国の自治体の中でも突出した巨額の予算を扱うに足るリーダーシップが求められる。20年五輪開催都市のトップとしての国際感覚、都市計画や社会保障など、構想力が欠かせない。一方で、舛添氏の失敗は、市民が疑問に思うことをきちんと判断できる感受性の大切さも痛感させた。政党は今度こそ慎重に、重責にたえる人材を有権者に示すべきだ。


混乱を深めた舛添知事の遅すぎる辞職
(2016年06月16日 日本経済新聞)
東京都の舛添要一知事が21日に辞職する。参院選を控えて都議会与党の自民党、公明党からも不信任決議案の提出を突きつけられ、続投を断念した。都政の混乱を深めた今回の舛添氏の判断は、遅きに失したと言わざるを得ない。

都議会での一連の審議を通じても、舛添知事の政治資金の私的流用や公用車の公私混同などに関する疑惑は解消されなかった。知事は千葉のホテルで会談したという「出版社社長」の名前を明かすことを拒み、家族同伴で招かれたという音楽会などについても招待主を明かさなかった。政治資金で購入した美術品の行方などもはっきりとわかっていない。先日公表した弁護士2人による調査結果まで疑われかねない状況だ。これでは都民は納得しない。説明責任を自ら十分に果たさなかったのだから、舛添知事の辞職は当然だろう。

問題の発覚以降、都政の停滞も深刻になった。都庁の担当窓口に寄せられた苦情や意見は3万件を超す。都議会では知事が都政の重要課題に関して答弁できない事態になり、任期が切れる副知事の後任人事も一時、決められない状況に陥った。これで、誰が新知事になろうともその次の都知事選は2020年の東京五輪の開催期間に近くなる公算が大きい。世論に一度火が付いて流れができると、長期的な視点は顧みられなくなる。これが「劇場型政治」の現実だろう。

14年2月に舛添氏は211万票を集めて都知事に初当選した。「世界一の東京」を掲げて、障害者雇用の促進、水素社会の実現、国際金融センター構想など、様々な施策に取り組んだ。石原都政の負の遺産だった新銀行東京も他行との経営統合に踏み切った。知事個人の問題とは別に、舛添都政そのものはある程度評価できるのではないか。

東京五輪に向けた競技施設の整備はこれから本格化する。深刻な待機児童の解消、超高齢社会への対応、環境対策の推進など、都政は依然として様々な課題を抱えている。日本経済のけん引役として東京が果たす役割も大きい。13年12月に辞職した猪瀬直樹氏に続く、「政治とカネ」問題での都知事の退場になる。4年間で3度目の都知事選というのは異常事態としか言いようがない。今度こそ、政治資金にきれいな候補者を選びたい。


舛添氏の辞職 人気投票の後任選び許されない お粗末な退任劇、厳しい信頼回復
(2016年06月16日 産経新聞社説)
東京都の舛添要一知事が、政治資金をめぐる公私混同問題の責任をとる形で辞職願を提出した。決断は遅きに失したが、都政はこの問題をめぐって停滞していた。辞職は当然だろう。前任知事の猪瀬直樹氏も医療法人側から受け取った多額の現金についてあいまいな説明に終始し、任期途中で辞職した。2代続けてのお粗末な退任劇で、都政は深く傷ついている。再生の道程は極めて厳しい。2020年には東京五輪・パラリンピックを開催する首都の新しい顔を、今度こそ冷静に、厳格に選択しなくてはならない。

新知事にまず求められるのは、清新さである。3代続けて政治とカネの問題で都政をかき回すわけにはいかない。その上で、山積する課題を一つ一つ解決していく真の実務能力が問われる。舛添氏は抜群の知名度の高さが買われ、自民、公明の都政与党が「勝てる候補」として担ぎ、知事に就任した。そうした安易なやり方は、もう許されない。単なる人気投票の弊害は、十分に思い知ったはずだ。

舛添氏が大会の成功を約束した東京五輪は、新国立競技場の建設計画や大会エンブレムの白紙撤回などで「負のイメージ」ばかりがついてまわる。大会準備や運営費の試算も、膨らむ一方だ。舛添氏は今年3月、五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長、遠藤利明五輪相と費用分担を見直す方針で合議し、今秋にもまとめる運びとなっていた。新知事にはまず、適正なコストを設定する大仕事が待っている。

東京五輪の招致をめぐっては、フランスの司法当局が汚職の疑いで捜査中だ。招致委員会はすでに解散しているが、説明責任は後継の組織委員会と、東京都が負う。舛添氏は不正の疑惑について「都からの支出はない」と否定してきたが、より詳細な調査が必要となるだろう。希望のイベントとして世界から注目される五輪では、開催都市の首長がそのホストとなる。これにふさわしい、明るい印象も求められる。選挙までの短い期間に、これらの条件を兼ね備えた難しい人選を進めなくてはならない。五輪招致を強力に後押しした政府・与党も候補者の選任に大きな責任を負う。4年後、東京で開催される五輪・パラリンピックは、都民ばかりでなく、国民や国際社会がもろ手を挙げて祝福する素晴らしい大会でありたい。知事の選択で、もう失敗は許されない。

もちろん、都政の課題は五輪だけではない。1300万都民の暮らしの向上のために介護や子育てといった社会保障政策の拡充や、防災対策の強化などの施策は、待ったなしだ。これらに正面から取り組み、一つずつ明確な答えを出していくことも求められる。出直し知事選は、7月末か8月の投開票が予定されている。政治資金に対する倫理観を持ち、意欲と指導力を持った候補の選定に向け、各政党は改めて責任の重さを感じてほしい。

高額の海外出張費や公用車での別荘通い、政治資金の公私混同などが次々と明らかになり、都民は激しく舛添氏に反発した。都庁に寄せられた意見は3万件以上に上り、その多くは非難、批判的なものだったという。舛添氏は自ら依頼した弁護士の調査で「違法性はない」とされたことなどから地位に恋々とし、都議会総務委員会の集中審議でも数々の疑惑について説明を拒否してきた。知事選で支援を得た自公両党が不信任決議案の提出に踏み切ったことで、ようやく辞職を決断したとみられる。

だが、舛添氏の説明責任は、辞職でなくなるものではない。少なくとも、政治資金で購入した絵画など全品の確認や、疑惑の焦点となった家族で宿泊して「政治活動」と強弁した千葉県内のホテルに明細の再発行を求めて提示するなど、集中審議で自ら口にした約束は果たすべきだろう。弁護士の調査で「不適切」とされた疑惑の中には、政治資金規正法上の虚偽記載や不記載の疑いをもたれるものもある。知事の座にあろうが、なかろうが、舛添氏には説明責任を全うしてもらわなくてはならない。


舛添知事が辞職 東京は教訓を学べるか
(2016年06月16日 東京新聞社説)
自らの政治とカネの問題で追い込まれ、舛添要一東京都知事が任期途中で辞職する。二代続けてのトップの空回りは残念である。東京は教訓を学ぶのか。  

最後までまるで駄々っ子の振る舞いだった。都議会が足並みをそろえて辞職を促しても、リオデジャネイロ五輪の終了後まで不信任決議案の提出の猶予をと懇願した舛添氏。給与の全額返上を持ち出して「東京の名誉を守ってもらいたい」と述べた。あきれるばかりである。

確かに、この時期に知事が代われば、二〇二〇年東京五輪と知事選が重なる恐れが生じる。次期五輪の開催都市のトップとして、大会旗を受け取る役目が残されているとも訴えたかったのだろう。しかし、ごく普通の社会感覚からすれば、都民の信頼が失われているのに、世界の祭典の引き継ぎ行事へとのこのこ出かけようとする心情は、およそ測りかねるのではないか。知事失格を自認していたのなら、なおさらだ。こうした言動に、都民の強い怒りを買った大きな要因が象徴的に表れたと言えるのではないか。一貫して独り善がりなのだ。  

航空機のファーストクラスや高級ホテルのスイートルームを利用しての豪華海外出張。必要な場合もあるだろうが、批判に対しての反論は「トップが二流のビジネスホテルに泊まりますか。恥ずかしいでしょう」。居直りである。あるいは、公用車を使っての神奈川県湯河原町の別荘通い。それへの釈明は「公用車は『動く知事室』。緊急の連絡態勢があり、危機管理上も問題ない」。さらに、家族旅行の宿泊代に政治資金を充てた公私混同ぶり。支出の事実を認めながら、開き直ったように「客室で事務所関係者らと緊急かつ重要な会議をした。これは政治活動です」。

舛添氏の一連の発言を振り返れば、自己正当化を繰り返し、保身を図ろうとする意図がくっきりと浮かぶ。そこには都政も、都民も不在だった。都民の常識はそれを見逃さなかったのである。自らの政治資金疑惑の調査を弁護士に委ねたことは、信用失墜を決定的にしたと言えるだろう。「不適切な支出はあったけれども、違法性はない」といった結論は、一人舛添氏にとどまらず、すべての政治家とカネの問題へと憤りを向かわせたに違いない。

折しも、建設会社から不適切な経路で六百万円を手に入れながら、刑事責任を問われないという不条理が発覚した。渦中にある甘利明前経済再生担当相側は、いまだに説明責任を果たしていない。不適切であることと違法であることがかみ合わない。ましてやうそを言えば、政治家失格となる。政治とカネの問題は、政治資金規正法や政党助成法、あっせん利得処罰法といった法の支配が及ばない“聖域”と化している。政治活動の自由を守りつつも、双方が適合する仕組みづくりが緊要だ。  

加えて、舛添氏の振る舞いに学ぶとすれば、カネの動きが適切か、不適切かの線引きは、おおよそ都民、国民の常識に沿ったものでなくてはならない。無論、地方議会議員に支給される政務活動費であれ、公用車や出張旅費であれ、税金のみならず公共性の高いカネの出入りと中身はもはや細大漏らさず、常時ガラス張りを義務付けるべきである。医療法人グループから五千万円を受け取った問題で辞職した猪瀬直樹前知事のケースを併せ考えると、都議会によるチェック機能の劣化も目に余る。メディアの報道が熱を帯びてきて初めて、腰を上げる傾向にあるのではないか。

都道府県議会では最高額の報酬や政務活動費などをもらいながら、首長監視の気構えがさして感じられない。猪瀬氏、また舛添氏との議場でのやりとりを見ても、多くは報道を下敷きにしていた。地方自治には首長と議会の緊張関係が不可欠だ。二元代表制ではどちらも直接選挙で選ばれる。とりわけ与党が首長の暴走を許しては、その政治的、道義的責任は自らに跳ね返ってくる。今度の騒動で証明されただろう。

もっとも、舛添氏の問題は、週刊文春の調査報道によるところが大きかった。自戒を込めて、新聞の使命と役割をあらためて銘記したい。権力の監視は、私たちメディアの大事な仕事でもある。多くの教訓を残して、政界は間近に迫った参院選、そして都知事選に向けて走りだしている。首都のトップが相次ぎ、政治とカネの問題で足をすくわれたという負の歴史を深く胸に刻まなくてはならない。政治家選びで二度と失敗を繰り返さないために。