「なぜ勉強しなければならないの?」という、学生がよく発する質問がある。


僕は勉強が好きなので、勉強する理由など考えたこともないが、学生はそのように思うことが多いようだ。特に学期末の試験期間直前になると、この疑問が湧くことが多いらしい。

正直、僕は学生にこの質問をされるたびに、腹立たしく感じることが多い。それは別に、自分が価値を感じていることを軽んじられたとか、自分の価値観を否定された気がするだとか、そういう理由ではない。僕が勉強が好きなのは、あくまで僕自身の価値観であって、世界の誰もが同じ価値観をもつべきだとは全く思っていない。勉強が好きな人も嫌いな人もいるだろう。そういう人の価値観を否定するつもりは全くない。

僕が腹立たしく感じるのは、入学試験を受けて、学費を払って、大学に所属している立場の学生が、この質問を発するからだ。
例えて言えば、自分が文房具屋さんの店員だったとしよう。そして、ホッチキスを買うお客さんがいたとする。お金を払って、会計を終えてから、そのお客さんに「で、このホッチキスってのは一体何の役に立つんですか?」「私はこのホッチキスを使って、一体何をやればいいんですか?」と聞かれたら、どう答えればいいのだろうか。
自分がもし車販売のディーラーだったら。車を購入した客がいきなり「で、私はこの車でどこに行けばいいんですか?」と訊いてきたら、どうすればいいのか。

つまり、僕が学生に「勉強が一体何の役に立つんですか?」と聞かれて腹が立つのは、「そんなこと知らねぇよ」という気分になるからだ。学生は、学びたいから大学に入ってきているはずだ。そもそも学ぶ意義などというものは人によって異なるし、なぜ学びたいのかという理由はこちらは関知しない。大学教師の仕事はただ、学びたい学生に、その機会と方法論を与えることなのだ。
大学生は、学費という対価を払って、学問を身につけるために大学に入学する。自らそれを希望して入学してきたはずだ。それなのに、自分が金で買った学問の機会を「何の役に立つの?」とは、どういう了見なのだろうか。勉強が役に立たないと思ったら、さっさと退学すればよいのだ。

僕は、勉強が嫌いであれば、義務教育が修了した中学卒業と同時に、さっさと就職して働けばいいと思う。そうすれば学校の勉強なんて一切やらなくて済む。それなのに、わざわざしなくてもいい高校進学、大学進学をしたのであれば、それは本人が望んで学ぶ機会を求めたからだろう。ホッチキスを買おうとしたのは、学生本人のはずだ。

進学の道を自ら断ち切って、中学卒業と同時に就職した人から「勉強が一体何の役に立つの?」と聞かれたら、その質問の意図は納得できるし、尊重できる。そういう立場の人からそう聞かれたら、僕だって正直に「立ちません」と答える。価値観の違う人に、自分の価値観を押し付けるつもりはさらさらない。

しかし、勉強する機会を求めて大学に入ってきた学生が、その質問を発するのは矛盾している。この質問を発する学生からは、もともと自分で機会を求めて入ってきたくせに、それに対応できない能力の不足を、勉強そのものの価値の問題にすり替えて、精神的に逃避する甘ったれた考えが透けて見える。学ぶことの価値を疑わしく思うのであれば、それを振り捨て、さっさと退学して働けばいいものを、そうする度胸もないまま、大学にずるずる在籍したまま文句ばかり言っている。個人的に、「勉強が嫌いな大学生」というのは、「右に左折する」くらいの矛盾した言葉だと思っている。



閑話休題。
最近、ちょっと面白い本を読んだ。


数学が面白くなる 東大のディープな数学
(大竹真一、KADOKAWA出版)

東大数学


最近、類似した本がよく出ている。大学入試や高校入試の面白い問題を集めて、一般の読者にも分かりやすく解説してくれている。
そういう本が、受験参考書ではなく一般書として発行されているあたり、数学を「単に楽しむため」に勉強している層が増えている、ということなのだろう。いいことだと思う。

僕の感覚では、数学が嫌いな人ほど完璧主義者で、「数学の全てを学ばなければならない」と思い込んでいるような気がする。受験時代の呪いがまだ色濃く残っており、数学を「正解を出せなければ、それまでの過程がすべて無価値」と思い込んでいるのではないか。

実際のところ、数学の楽しみは、「答えを当てる」というところにはないと思う。本気で学問をすればすぐに分かることだが、学ぶことというのは、与えられた問題の答えを出すことではない。思考の過程で使う筋道を自ら作り出し、その発想を応用的に使えるまでに昇華させるのが、勉強の醍醐味だろう。正直なところ、僕が数学を勉強するときは、答えの数値が合っているか間違っているかは、わりとどうでもいい。その答えを導くための考え方のほうに興味がある。個人的には、自分の考え方が模範解答通りのときは、かえってがっかりする。

この本は、一応、模範解答を提示してはいるが、そこにはそれほど重点は置かれていない。高校数学の範囲から逸脱した解法さえ平気で載せている。むしろ重視しているのは、過去の東大の問題から、「東大はこの問題で学生に何を求めているのか」を深く掘り下げることだ。 

僕もこのBlogでたまに東大や京大の問題をとり上げることがあるが、それは別に東大、京大という名前の威を借りるためではない。単純に、東大や京大の入試問題には良問が多いのだ。世間からの注目度も高く、大学としても優秀な学生を見分ける必要性が段違いに高い。それだけ時間と人手をかけて問題をつくっているだろうし、よく練られている。

この本のはじめのほうに、まぁ、受験生向けの内容ではあろうが、「なぜ数学を学ぶ必要があるのか」についての記述がある。その内容がなかなか面白い。

昨今、理系離れがよく言われます。数学を何故勉強するのか、しなければならないのか、という若者たちへの返答として、世間には見当はずれなものがあまりにも多く、例えば

・世の中に数学は役に立っているから、数学を勉強しなければならない
・科学技術で立つ日本だから、その基礎となる数学ができることが必要である
・数学を学んだ人のほうが収入はよくなり、君の人生で得するよ

というようなものまであります。
数学が役に立つから勉強しろ、といのは、おそらく最も若者を見ていない教育でしょうね。


数学が社会の役に立つことぐらい、若者は誰でも分かっている


のです。わかった上で、何故(私が)数学を勉強するの?と聞いているのです。
蛍光灯も電子レンジも、新幹線も航空機も、コンピュータソフトも株式市場も、数学抜きでは全く成立しません。しかし、「数学が役に立つから」という理由では「数学は役に立つことは分かってるけど、それらに関わる人が勉強すればいいじゃない。私には関係ないもん」という反論に、論理的に答えることはできません。

数学に限ったことではありません。音楽や美術、生物学、それぞれ自分の気に入ったものを自分の尺度に合わせて懸命に勉強する、これはある意味で非常に個人的な行いだと思います。しかし、そのような個人的な行いなのですが、例えば、数学を勉強すれば、


数学的体験を通して、数学の歴史を追体験することになる


のです。数学は長い歴史をもった、人類の文化の一つだと、私は思っています。
高校レベルの数学でも、ほんの少し前には、最先端の数学であったわけですから。そうした歴史を背負った文化である数学を若い世代の諸君が学ぶことができることは、本人が意識するかどうかは別にして、


身震いしそうなぐらい、「すごいこと」なんです


よね。文化なんですから、もちろん強制し、強制されるものではありません。しかし、人類はこれまで次の世代に脈々と文化を伝えてきました。この大きな人類の歩みの中で、少しでも、人類文化の素敵さを次世代に伝えられたらと思います。

例えば、音楽が好きな人はいっぱいいますよね。絵が好きな人もいっぱいいます。クラシックの音楽をものすごく聞いて、いろんなころを知っている、絵を見てすごくいろいろ思っている、ようなその人は、「じゃあ絵を見て何の役に立つの」って言われたら、「音楽を聴いて何か得するの」って言われたら、どう答えるのでしょうか?
我々が生まれて言語を学び、音楽を奏でるあるいは鑑賞し、スポーツを楽しみあるいは観戦し、美術を創作しあるいは鑑賞する、こうしたことと同じように、数学を楽しみあるいは数学を鑑賞する、「人間になる」とはこういうことだと思います。それらの総体が文化ですね。もちろん、すべてをすべての人が強制されるものではありません。数学に向いていないというなら、別の分野でいいのです。楽しむことです。でも楽しめるかどうかは、しばらくはやってみないとわかりうものではありません。そうした観点からも、


数学は文化だから、一度はやってみる


のがいいのです。それにしても、数学を鑑賞する人が少ないですねぇ。


なかなか面白い考え方だと思う。この本の著者は予備校の講師だが、受験生に数学を教えることを飯の種にしている人とは思えないくらい、高い所から数学を俯瞰している。

僕は数学の先生に会う機会があるたびに、「もし生徒から『なんで数学を勉強しなければならないの』と訊かれたら、どう答えますか」と訊いている。おおむね、本職の中学、高校の先生ほど、きちんとした答えを持っている人は少ない。おそらく、「受験のため」「進学のため」という便利な方便があるため、根源的な解答をもつ必要性が薄いのだろう。

しかし、「受験のために勉強する」という狭いものの考え方では、受験が終わってしまえば勉強する理由がなくなる。それに比べて、「数学はひとつの文化だから、それを味わないのはもったいない」という考え方は、数学だけでなく、学校で学ぶすべての文化に共通したものだろう。

高校を卒業してしばらく経つと分かるが、高校までで習った知識というのは、「その分野を学ぶ機会は、高校時代が人生で唯一、最初で最後だった」という分野が少なくない。物体の落下運動の法則も、夜空に見える星座も、三角形の形状を決定する関数も、平安時代に書かれた文学も、すべて高校までに習った「知識の貯金」で、その後の人生を生きていく人がほとんどだろう。

そして、その貯金の価値を自覚していない人がほとんどなのだと思う。学校教育がきちんと制度化していない発展途上国では、いまだに病気の発生を「神の怒り」だと思っている地域もあるだろう。違う言語を話す人を「よそ者」として排除し、意思の疎通に嫌悪感を示す人もいるだろう。20世紀になってから革命で国が成立したため、その国で生まれた文学が皆無な国だってあるだろう。

その国の文化レベルは、初等教育・中等教育の教科書を見ればすぐに分かる。学校という学ぶ場所は、そのような文化的な礎を作り、後世に残し、発展させていくための最も基本となるものなのだ。日本は、その環境に恵まれている国のひとつだ。その国に生まれて、学校で学ぶことの意義を否定するのは、例えて言えば、金持ちの家に生まれたバカ息子が、「財布が重くなる」というだけの理由で紙幣を嫌うようなものだと思う。価値に囲まれ過ぎているために、自分のもっているものの本当の価値が、分からなくなっているのだろう。

学生は、発展途上国の恵まれない子供たちに慈善活動をするのが大好きだ。簡単にいいことをした気分になれるし、活動を通して学生同士の団結めいた雰囲気を味わうこともできる。
しかし、本当に発展途上国の恵まれない子供たちのことを理解しているのなら、まず自分が置かれている教育的環境に感謝し、まず己が学ぶ姿勢が生まれてしかるべきだろう。個人的に、ろくに勉強もせずに慈善活動に打ち込んでいる学生から、生産的で継続性のあるものなど何も生まれないと思う。

数学を「入試のために勉強するもの」と思うのであればそれで良い。そう思うのであれば、入試によって大学進学の道が自力で開ける国がどれだけあるのか、よく知った上でそう思うべきだろう。そのことを知っていれば、学校で数学を勉強できることがどれだけのことなのか、考えれば分かるだろう。それはすなわち、人類が積み重ねて来た叡智、すなわち「文化」に触れる機会に他ならない。その知見に自ら達し得ない者は、高校、大学という場で学ぶ資格がない。
資格がないというよりも、むしろそういう人は、自ら学ぶ機会を捨てて平気な人なのだろう。



そして東大の入試はそれが分かってるかどうかを問うてくるぞ。