今年の年末のクイズ番組には「今年の芥川賞受賞者は、又吉直樹ともうひとり誰でしょうー?」が定番になりそうな気がする。


火花


この夏休みは、どこの書店でも、ようやく重版を刷った『火花』(又吉直樹)が山のように積んでありますな。
値段は1200円。高いと見るか安いと見るかは人それぞれだろうが、大方の人は「ブックオフに出回るのを待って半額くらいで買おう」という程度の距離感ではないか。

ちなみに、芥川賞受賞を報じた「文藝春秋」2015年9月号には、芥川賞受賞作の『火花』(又吉直樹)と、『スクラップ・アンド・ビルド』(羽田圭介)両方の全文が載っている。それで値段は970円。
「内容だけ読めばいい」という向きには、単行本を買うよりも文藝春秋を買うほうが断然お得だろう。『火花』同様、この月の文藝春秋も、話題性による驚異的な売り上げを記録して重版されている。


文藝春秋

両方載ってる。 


如何様に話題になっている『火花』を、実際に読んでみた。
作品の出来としては、まぁ、「普通」。作品そのものには優れたところも足りないところもある。
作品の「中」と「外」に分けて、私見を述べてみよう。

まず作品の「中」から評すると、「書きたい世界は自分の中で膨らんでいるのだろうが、まだ書く技術がそれに伴っていないのだろうな」という印象を受ける。
前者を「内容」、後者を「文章力」とすると、内容としては平均点、文章力としては平均以下だと思う。

内容については、一般的にはあまり知られていない若手芸人の売れない時期の葛藤と苦悩を、よく描いてある。
主人公の徳永は、売れない若手芸人。花火大会のイベント出演の際、先輩芸人の神谷と知り合い、その自分なりの哲学を固めたような姿勢に心酔して、勝手に弟子入りする。神谷だって売れない芸人には違いないのだから、訳分かったような能書きをいくら垂れようが、実践と結果が伴っていない。神谷は「知ったようなことを言う、訳知り顔の先輩」に過ぎない。おそらくお笑いの世界には、こういう「売れない牢名主」のような年嵩の芸人が、よくいるのだろう。この作品で、作者の又吉直樹が「芸人」として本当に描きたかったのは、主人公の徳永ではなく、神谷のほうだろう。

内容としては、私小説だろう。特定の出来事や事件を焦点にしているのではなく、ひとの眼を通してその世界観と成長を描いている。だから解くべき問題があるわけではなく、大団円の解決があるわけではない。
私小説は、事件を追うものではなく、漫然とした日常を描き出すものだから、ラストシーンの設定が難しい。特に盛り上がりもない出来事に、どうやって場面の設定を行うのか。作品論の定番としては、私小説は出来事や事件などの外的要因をラストにもってくることが難しいので、主人公の心情の劇的な変化をもってラストシーンにすることが多い。

この『火花』という作品は、それに成功しているとは言いがたい。訳知りの先輩に私淑する若手芸人が、最後のシーンで感じる心情変化としては、「それまで輝いていたように見えた先輩が急速に堕していくように見え、その先輩に見切りをつける」くらいのことしかあるまい。その結末は、この作品を半分も読まないうちに簡単に見えてくる。そして、実際にその通りの内容になっている。

ところが、そのラストの場面は突然として現れたように感じる。あらかじめ張った伏線もその回収もない。神谷は、後輩の徳永と飲みに行くときには必ず奢るが、そういう見栄がたたって借金が膨らみ、逃走する。自己破産して再び徳永の前に姿を表した神谷は、なんと豊胸手術をして女性のような体になっている。理由は「ウケると思ったから。これでテレビに出れると思って」。徳永は呆れて、「三十代の巨乳のおっさん誰が笑うねん」と突き放す。

自分が偉そうに話していた芸事談義によって自縄自縛になり、するべき努力の方向性がどんどんずれていき、見当違いの方向に進んでいく危険性は、売れない芸人にはよくあることなのだろう。また実際に芸人の世界では、先輩を芸事で追い抜き、それまで尊敬していた先輩を急に醒めた眼でしか見られなくなることも、あると思う。そういう世界にしか身を置いたことのない者だけが感じるマイナス感情を、描き切って余りある。

しかし僕の見るところ、そこらへんの焦燥感と喪失感を「浮き出るように」描いているようには感じられなかった。なんというか、最後の、神谷の暴走と徳永の興醒めが、唐突に感じる。これは内容というよりも、書き方の問題だろう。うまく場面を配して導入に気を配れば、同じシーンがもっと効果的に使えたと思う。

ラストシーンで、神谷と徳永は、最初にふたりが出会った熱海の花火大会に出かける。このシーンは、はっきりいって蛇足だろう。最後に神谷が支離滅裂のまま終わったのでは作品に統一感がないため、最初と最後のシーンを合わせることで、作品全体のバランスを調整したのだと思う。しかし、そういう形式上のこと以外、最後の花火大会のシーンに重みと必要性を感じられない。

同様の所見は、芥川賞選出委員の高樹のぶ子も触れている。

破天荒で世界をひっくり返す言葉で支えられた神谷の魅力が、後半、言葉とは無縁の豊胸手術に堕し、それと共に本作の魅力も萎んだせいだ。火花は途中で消えた。作者は終わり方が分からなかったのではないか。
(「文藝春秋」2015年9月号 受賞委員所見)

おおむね、僕もこの見方に賛成だ。芸人としてもすでに第一線で活躍している作者が、描きやすい世界として芸人の世界のことを書いたのはいいが、それ故に私小説という最後のまとめ方が難しいジャンルに手を出してしまい、その処理に失敗した、と見える。

作品の「中」の要素のもうひとつ、「文章力」に関しても、未熟さが伺える箇所が多かった。
一般的に、ひとつの文が長過ぎてはいけない。内容のまとまりがつかずに、読者の脳内処理が追いつかない。文章論で「冗長さ」と呼ばれる欠点だ。ましてや、長過ぎる文に逆説の接続詞が複数含まれ、論理的に破綻している文章など論外だ。
この作品の冒頭の場面で、さっそく「長過ぎる文」が出てくる。

祭りのお囃子が常軌を逸するほど激しくて、僕たちの声を正確に切り取れるのは、おそらくマイクを中心に半径一メートルくらいだろうから、僕たちは最低でも三秒に一度の間隔で面白いことを言い続けなければ、ただ何かを話しているだけの二人になってしまうのだけど、三秒に一度の間隔で無理に面白いことを言おうとすると、面白くない人と思われる危険が高すぎるので、あえて無謀な勝負はせず、あからさまに不本意であるという表情を浮かべながら与えられた持ち時間をやり過ごそうとしていた。

これで一文である。長過ぎる。
これ以降の本文ではここまで長い文は出てこないし、さすがにここまで長いと、これは意図的につなげた文なのだろう。だが、その必然性が見えない。文章の中には、語り手のだれきった気分を表すために、意図的に長くつなげた文を書くことがある。しかしこの場面では区切りよくテンポよく、花火大会の喧噪に紛れて喋り続ける場面だ。冗長さを出して良い場面ではあるまい。

句点の使い方も雑だ。句点とは、勘や感覚で「なんとなく」入れてよいものではない。読者が文を読む際に内容をすっきりと頭に入れやすいように、補助的に打つものだ。もともと古典の日本語には句読点など無かった。僕は本編を読んで、句点のつなぎ方が気になって、読む眼が止まったことが何度かあった。文章を読む流れが、句点のせいで止まる。おそらく、書いたあとに「読者目線」での推敲を入れていないのではないか。

悪いところばかりではない。さすが本職の芸人だけあって、舞台から客席を見る目線での心情描写には特筆すべきものがある。
白眉は、主人公が最後の舞台にあがる場面だろう。学生時代からずっと組んでいた相方が、結婚して子供が生まれ、芸人を引退することになる。主人公は「その相方としかお笑いはできない」と感じており、コンビの解散とともに自分も引退を決意する。その最後の舞台となる事務所のお笑いライブでは、解散公演という噂を聞きつけて、いつもより多くのファンが駆けつける。

僕を嫌いな人達、笑わせてあげられなくて、ごめんなさい。

この小さな劇場では毎日のように、お笑いライブが開催されてきた。劇場の歴史分の笑い声が、この薄汚れた壁には吸収されていて、お客さんが笑うと、壁も一緒になって笑うのだ。

漫才だけで食べて行ける環境を作れなかったことを、誰かのせいにするつもりはない。ましてや、時代のせいにするつもりなど更々ない。世間からすれば、僕たちは二流芸人にすらなれなかったかもしれない。だが、もしも「俺の方が面白い」とのたまう人がいるのなら、一度で良いから舞台に上がってみてほしいと思った。「やってみろ」なんて偉そうな気持ちなどみじんも無い。世界の景色が一変することを体感してほしいのだ。自分が考えたことで誰も笑わない恐怖を、自分で考えたことで誰かが笑う喜びを経験してほしいのだ。


現役のお笑い芸人だけあって、こういう舞台から迸るような言葉には、切れがある。引用や焼き直しではない、血の通った言葉として、読者に届く熱さがある。そういう文章を読むと、作者の「描きたい」という情熱と、才能の一片を感じる。
また技術的にも、このシーンには工夫がある。感情が高ぶって漫才が支離滅裂になりながら、舞台で喋る台詞と登場人物の心中描写が交互に入れ替わり、場面の高揚感をうまく表現している。

しかし、お笑いの場面で炸裂する切れのある文章力が、はたしてお笑い以外の場面でも発揮できるだろうか。自分の知らない世界を描くときに、このような文章が書けるだろうか。
またプロの作家は、特定の場面や特定の情景描写が得意なだけでは務まらない。作品全体の整合性、全体のバランス、内容の起伏、読後感など、様々な文章能力が総合的に身に付いていなければならない。その点で、優れたところと足りないところが顕著になっている作品だと感じた。野球に例えれば、「ストレートの速球は豪快に打てるが、変化球は打てず守備も下手な選手」という印象だ。

作品の「外」から論じてみると、まず芥川賞受賞作ということから考える必要があろう。
芥川賞は、いまでこそ年の話題の一角を担う大賞となっているが、もともとは新人賞だ。だから上に述べた種々の欠点は、芥川賞受賞に対する要素としては、瑣末なものでしかない。「こういう欠点があるから、芥川賞には不適である」という批判は、妥当ではないだろう。

新人であれば、技術が未熟なのも書き方が粗いのも、仕方がない。芥川賞は「完成度の高い作品」に与えられるものではなく、「この作者の作品をもっと読んでみたい」という、沸々と涌き上がる創作エネルギーを感じられる作品に与えられるべきものだと思う。芥川自身が、晩年に至るまで、自身の作品スタイルを確立し得ないまま夭折した。芥川の作品のうち、単品での完成度が高いのは、むしろ初期の作品だ。

しかし個人的に、作者の又吉直樹が、この次の作品を書き上げるのは、難しいのではないかという気がする。少なくとも、芥川賞受賞に見合うだけの期待に応えるのは、かなり難しかろう。
芥川の作品の特徴は、その衒学趣味にある。「どこからこんな話題を探してきたのだろう」という、扱うテーマの幅の広さにある。芥川自身が勉強好きで、他人の知らない知識を得ることを好んだ。

そうした作品の書き方に必要なのは、徹底した取材だ。自分の知らない世界の話だろうが、門外漢であろうが、興味をもった分野を徹底的に調べ上げ、その世界を描き切る奥行きの深い執筆姿勢が必要だ。藤子・F・不二雄の漫画観に似たものがある。

そういう小説の書き方は、作者の個人体験をもとにした私小説とは、対極にあるものだ。近年の芥川賞受賞作には私小説が増えてきたが、もともとの芥川賞受賞作には「どうやってこのテーマに辿り着いたのだろう」という、世界観そのものが日常から隔絶したものが多い。自分の知らない世界を覗くような作品が多い。私小説によって、日常の一枚裏に潜む世界を描くのは、むしろ直木賞受賞作のものだろう。一般的には、芥川賞は純文学、直木賞は大衆文学、とされているが、その違いをはっきり定義して論じられる者は誰もいない。僕は、両者の違いは、作品そのもののジャンル分けというよりも、作家の「ものを書く姿勢」と、「作品から感じられる次回作への期待」にあると思う。

作者の又吉直樹が本業をお笑い芸人として活躍する限り、そのように、取材によって知らない世界を切り開いていくような作品の書き方は、生活時間の配分的に難しいのではないかという気がする。未知の領域を調べて勉強し、その世界観に浸って、作品に昇華させていくような生活は、現実問題として厳しいだろう。能力の問題ではなく、プロの作家として生きていくということは、他のものを捨てるだけの覚悟が要る、ということだと思う。

今回の作品『火花』は、基本的には私小説だろう。主人公の徳永は、人見知り、女性が苦手、勢いのある後輩芸人に腰が引け気味、など、作者の又吉直樹をいくぶんか投影しているのだろう。また作品の舞台もお笑い芸人を扱っており、書く際には取材も勉強もあまり要らない、書きやすい世界だったのだと思う。
しかし、こういう書き方では次の作品は書けない。芥川賞が期待しているのは、お笑いの世界の第二弾を書くことではあるまい。同様の書評は、芥川賞選考委員の島田雅彦も触れている。

また、基礎的な文章力の欠如に関しては、ここから先は独学で補うのは難しい段階だろう。書いた文章を赤でびっしり添削してもらい、句点の打ち方ひとつ、ひらがなと漢字の使い分けひとつに至るまで、考えに考え抜いて文章体裁を整える訓練をしなくては、文章力の上達は見込めない。よほど辣腕の編集者にでも恵まれれば文章力を鍛えてもらえるだろうが、そこまでの環境は望めまい。

作品の欠点となる文章力の不足は、おそらく作者の読書経験によるものだろう。作者の又吉直樹は、個人的に太宰治の作品を好むそうだ。語彙の選択や文章の綴り方から、太宰やそれに類する作者の影響はちらほら垣間見える。
しかし、内容から切り離した純然たる文章作法や日本語能力を学ぶには、実は太宰は不適格な作家だ。太宰は、意図的かつ継続的な訓練によって文章力を高めた作家ではない。東京帝国大学に入学する程度の知能はあったが、左翼運動に夢中になって講義にはほとんど出席していない。事実上、大学では何も学んでいないだろう。内容や語彙はともかく、「文章力」や「文の書き方の基礎」として、太宰は真似をしてはいけない作家だと思う。 中学や高校の国語の教科書に、あまり太宰の作品が多岐にわたって取り上げられないのは、そのためだ。『走れメロス』以外、太宰の作品を読んだことがない、という社会人は、わりと多いのではないだろうか。


まとめると、作品全体から受ける感想としては、「内容はそこそこ面白い。優れたところと足りないところが極端。次回作はどうかね」という感じ。
電子書籍が一般的になり、街の本屋は紙の本が売れなくて大変なのだそうだ。そんなご時世、本屋が競って平積みにして大々的に売り出すなど、出版業界に対する貢献度は計り知れない。この受賞をきっかけとして、執筆を志す「売れない若手作家」に勇気を与えた面もあるだろう。そのような話題性を提供した、出版業界に対する貢献は大したものだ。それだけでも、今作の存在意義は十分にあるだろう。さらに技術を磨いて、幅を広げて、今作品に対する所見をひっくり返すような次回作を期待したい。



夏休みだから、読書感想文を書くことが多くなりますな