次の数字は、ある規則性に基づいて並んでいます。(   )にあてはまる数を書きなさい。

 5, 9, 13, (   ), 21

(お茶の水女子大学付属中学校)



別にお茶大付属を受験しようとする幼女の努力をあざ笑おうというわけではないのだが、こういう間抜けな出題をする学校に、本当に入りたいのだろうか。
「規則性」という言葉の意味を、本当に分かっていて出題しているのだろうか。中学入試であることを差っ引いても、かなりの悪問だ。

一見して気づくのは、これらの数列の差がすべて4になっていることだ。だから公差4の等差数列とみなして、17を答えとする・・・のが正解に見える。

しかし、本当にそうだろうか。5, 9, 13, (   ), 21、という数値をとる規則性は、本当に公差4の等差数列だけなのだろうか。

入試問題である以上、正解というものは、問題文の要求を満たすための、必要かつ十分な条件を備えなければならない。「この答えは正解になり得る」だけでは不十分で、「この答え以外は正解になり得ない」ことを示さなくてはならない。
つまり、この正解を「17」としてしまうことは、「この数列では、17以外の数が入る『規則性』は存在しない」ということを宣言するに等しい。

この問題を、xy軸を使った座標平面にプロットしてみると、1項めは5, 2項めは9, ・・・とやっていくわけだから、下図のような点の関係になる。


グラフ1


この問題の答えとして、4項めに「17」を入れることを正答とし、他の解答を一切正解として認めない、というのであれば、この4点をつなぐ「規則性」とやらを、直線だけに限定しているということになる。
ところが、「規則性」というのは直線だけとは限らない。曲線だって、立派な「規則性」だ。

たとえば、この問題の答えを「5」と答えたとする。するとこの問題は、「5, 9, 13, 5, 21という数列が満たす法則性を述べよ」という問題に還元される。
代数的にこの問題を解くと、この問題は
f(x) = ax4 + bx3 + cx2 + dx + e とおき、
 f(1) = 5
 f(2) = 9
 f(3) = 13
 f(4) = 5
 f(5) = 21
を満たすa, b, c, d, eを求めればよい。
数値をぶち込んで連立方程式を解くと、

f(x) = 2x4 - 22x3 + 82x2 -118x + 61

となる。

グラフ2


立派な「規則性」だろうがよ。 


答えとなり得るのは、別に5だけではない。与えられた数を5, 9, 13, x, 21とすると、xにはどんな数だって入りうるのだ。言い方を変えれば、xにどんな数を入れようと、その5つの数を含む関数は存在し得る

つまり、この問題は、どんな数を(   )に入れようと、その数を含む「規則性」が存在することになる。だから、どんな数を入れても正答なのだ。
もし、この正解を「17」だけに限定するのであれば、出題者は、(   )に他の数値をとる関数が「規則性ではない」ということを証明しなくてはならない。

100000歩譲って、問題文の「ある規則性」という言い方が、「任意の規則性のもとで」という意味だと解釈し、その任意のひとつが公差4の等差数列である、と解釈したとしよう。
その場合、この問題文は「私(出題者)は、ある任意の規則性を頭に思い描いています。その規則性とは何でしょう」という問題になってしまう。


そんなこと知るか


手前が勝手に起想している規則を当てろ、という問題ならば、それは算数でも数学でもない。
「人の顔色を伺って、何を求めているのかを察知する能力」に過ぎない。

邪推すると、お茶大付属中は、「正論を振りかざすような、教師にとって面倒くさい学生」を排除するためにこんな問題を作ったのではないか、という気がする。何が正解か、何が真実かなど関係ない。生徒は教師の顔色を伺って、ひたすら先生のお気に召すような言動をすればよい、という入試問題に見える。「私は等差4の等差数列を考えてますよ。それを当てなさいね」などという問題が、本当に入試問題として適切なのか。


教師の中には、生徒に不必要な抑圧を加えるタイプがいる。そういう教師にとって、「正解」とは世の中に真実のことではなく、「自分が『正解』と認める答え」のことだ。

大学のゼミで、教員が学生にディスカッションをさせることがある。そういう輩は、学生がどんな結論を出しても仏頂面で黙り込み、批判を繰り返すのみ。学生がどんな論拠を出そうが、どんな根拠を出そうが、「違う」「そんなことは聞いていない」の一点張り。
かくしてゼミは冷めた雰囲気となり、場の収拾がつかなくなる。先生の機嫌はどんどん悪くなる。学生は困り果てる。

学生だってバカじゃない。そういう教員は「自分が『正解』と認める答えを出すまで許してくれない」ということが分かっている。だから、ゼミは途中から「『先生が言わせたい言葉』を当てるゲーム」と化す。
そんなものは、学問でも何でもない。単なる、先生のご機嫌取りだ。

僕は、ゼミというものは、最初に想定していた答えよりも、遥かに良い知見が出てこなければ、無意味だと思う。教師が用意していた答えが「絶対の正解」であるならば、それは単なる当てっこに過ぎない。
大学から上の「学問」というものは、高校までの「勉強」と違って、絶対的な正解など無い。あるのはすべて「仮説」であり、そう考えれば多くの事実が説明できる、という程度のものでしかない。そういう学問の場に、「これが絶対の答えだ」というものを振りかざすこと自体、学問の本質に反している。

残念ながら、小・中・高はおろか、大学においてでも、そういうタイプの教員は存在する。おそらく一般企業の「上司」に該当するポストにもいるだろう。
一言で言ってしまうと、度量が狭い人間なのだと思う。学生や部下から、自分が思いもつかなかったアイデアが出てくると、途端にうろたえる。自分が用意した「枠」に閉じ込めようとする。想定を超えた事態を、制御できる自信がないのだ。

教員がゼミで学生の論文を指導するときには、意図してそういう枷をはずそうと努めるようにするべきではないか。たとえ「通説」とされている仮説から外れた答えを学生が用意してきても、どちらが真実かなど分からないのだ。もしかしたら通説のほうが間違っていて、学生のアイデアのほうが正しいかもしれない。少なくとも、教員が想定してる仮説を「絶対的な正解」のように振りかざし、学生の発想の飛躍を妨げるようなことをしてはなるまい。

たかが中学の入試問題でそこまで考えることもないのかもしれないが、こういう入試問題が、将来の「数学嫌い」を増やす遠因になっているような気がしてならない。この問題に、素直に「17」と答える女の子よりも、「17以外の数が入ったら、関数として成立しない・・・というのは本当なのだろうか?」と考える女の子のほうが、数学的センスは優れている。僕がゼミ生として採るのであれば、迷い無く後者を採用する。

それを、「答えは17です」とぶっち切ることにより、その先にある深淵な「規則性」の本質を覗くことのないまま、「正解が出たから満足」という思考停止を生み出す。教師に顔色を伺って、ひたすら「求められている答え」を当てっこする能力ばかりを膨らませることになる。


僕はかつてこの問題を、自分のゼミ生を選抜するための試験問題に使っていたことがある。残念ながらみんな「17」と答えていた。
考える能力が、ないわけではないのだろう。しかし、公差が4であることくらい、小学生にでも分かる。その答えに満足しているようでは、中学受験をする小学生と知的レベルは変わらない。その先にある「一歩深い思考力」を求めている立場としては、非常につまらない思いをしたことを覚えている。



必要なのは「正解を出す」ことではなく「正解を疑うこと」だ。