金太郎



昔話「金太郎」を正確に知っている人が少ない。


「桃太郎」「浦島太郎」などのメジャー級の昔話に比べると、「金太郎」はいまいち影が薄い。
まさかりをかついで赤い前掛けをしたおかっぱの男の子を思い浮かべることはできるが、いざ「金太郎」の話をしてください、と言われたら詰まってしまう人が多いのではなかろうか。

フジテレビ系列で放映されていた「トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜」では、番組内コーナーの「トリビアの種No.063」で、日本人が昔話「金太郎」を話せる確率を検証したことがある。
番組では、金太郎の話のポイントとして以下の4点を定め、それを含む話ができるかどうかを4700人に調査した。

1. 足柄山に住んでいる
2. クマに相撲で勝つ
3. 武士の家来になる
4. 武士になり鬼退治


調査の結果、正確に4つのポイントを含めて話ができたのは4700人中67人で、確率は1.4%。つまり100人に1人しか「金太郎」の話を知らないことになる。
ちなみに、同じ被験者にアンケートした「桃太郎」は91%, 「浦島太郎」は73%の人が正確に話すことができた。それと比べても、金太郎の話がいかに日本人に定着していないかが分かる。

つまり金太郎というのは、「キャラクターとしては日本人であれば誰もが知っているが、昔話のストーリーはほとんど誰も知らない」という、奇異な例と言える。
僕はかねてから、なぜ金太郎がこれほど日本人に知られていないのか不思議だった。誰もが知ってて、誰もが知らない、というのは一体どういうことなのだろうか。

日本人がもつ金太郎のイメージは、そのほとんどが、童謡『金太郎』に依存している。
童謡には珍しく作者が明確に判明しており、作詞は石原和三郎、作曲は田村虎蔵。
曲が作られたのは以外に古く、1900年(明治33年)の「幼年唱歌」に掲載されている。

まさかりかついで金太郎
くまにまたがり おうまのけいこ
はいし どうどう はいどうどう
はいし どうどう はいどうどう

あしがら山の山奥で
けだもの集めてすもうのけいこ
はっけ よいよい のこった
はっけ よいよい のこった


物語としての「金太郎」を見ると、特にイベントらしいイベントが起きていないことが分かる。
登場人物に焦点が当てられる昔話は、まずその誕生に超自然的なエピソードがある。桃から生まれたり、光る竹の中に居たり、体をすった垢でつくった人形だったり、なにかしら普通でない生まれが多い。
ところが金太郎の場合、その生誕が話に含まれておらず、物語開始時に「むかし、足柄山に、金太郎という元気のいい男の子がいました」と、いきなり居る。そこでまず神話性がぐっと落ちる。
また、物語のクライマックスとなる事件が何も起きない。犬猿雉をつれて鬼退治にいくわけでもないし、亀の背に乗って竜宮城に行く訳でもない。


伝承、民話、説話、講談などの物語には、「糸物語」と「箱物語」の2種類がある。
「箱物語」は、文学研究では「枠物語」という構造の一例として扱われることがある。

「糸物語」というのは、物語の最初から最後までが一本のストーリーで繋がっており、散りばめられた細かい伏線をすべて回収して大団円の結末に向かう、一本の話になっている構造を言う。有名な糸物語としては「南総里見八犬伝」「東海道四谷怪談」「忠臣蔵」などが挙げられる。これらの話はすべて序盤から結末まででひとつの物語を構成している。ヨーロッパの物語では、J・R・R・トールキンの「指輪物語」が有名だ。それを意識して作られたJ・K・ローリングのハリー・ポッターシリーズも体裁としては糸物語の構成をとっている。

一方、「箱物語」というのは、一本のストーリーというよりも、短編のような1話完結のエピソードをよせ集め、ごっちゃにまとめた構造を言う。たとえば初期は講談として成立した「水戸黄門漫遊記」は、各地で起きた数々の事件を束ねた構造になっている。一休さんの頓知話もこの分類に属している。

ヨーロッパの古典は、ほとんどがこの箱物語の構造をしている。なにせ、聖書が箱物語だ。
文学的な作品の中でもこの構造は引き継がれている。14世紀にイタリアで書かれたボッカチオの「デカメロン」は、当時大流行したペストから逃れるために家に引きこもった男女10人が、退屈しのぎのためにそれぞれ話をする、というのが全体の枠になっている。10人が10話ずつ語り、全100話からなる。長編小説ではなく、各自が話す短編話の寄せ集めだ。「デカメロン」というのはギリシア語で「10日物語」を意味する。

それと似たような構造は、14世紀イギリスのジェフリー・チョーサーによる「カンタベリー物語」にも見られる。カンタベリー大聖堂への巡礼の途中、たまたま同じ宿に泊まった様々の身分・職業の人々が、夜に酒を飲みながら旅の退屈しのぎに自分の知っている物語を話す、という体裁になっている。

イスラム地域でもこの体裁は使われており、シャーリアール王に連夜お伽話を語って聞かせるシェヘラザードの「千夜一夜物語」がこれに相当する。お「伽」噺というと、何やらいやらしい物語を想像してしまうが、基本的には箱物語だろう。

箱物語の特徴は、その物語のために作られた話だけでなく、時代的、地域的に隣接した種々の民話を吸収してしまうことだ。箱物語には「10日物語」「千夜一夜物語」など、話数に見栄を張ったものが多い。ひとりの作者だけではそこまでの話が作れないため、たまたまその時代、その土地に伝承された民話が、まがいものとして紛れ込む。

箱物語は1本のストーリーではなく、数々の短編譚の寄せ集めだから、すぐには物語全体のあらすじを語りにくい。「水戸黄門漫遊記」や「一休さん頓知話」の世界観と雰囲気はよく知っていても、「どういう話?」と具体的に聞かれて、すぐに答えられる人は少ないだろう。伝えられる話は「〜のひとつ」「〜の一例」であって、その物語全体ではない。
また、成立過程の事情として「まぎれもの」が混ざり込むことが多いため、多少ストーリーの展開に無理があっても、強引に物語に埋め込んでしまう。その無理が、物語全体の構造にひずみを生じさせる。

例えば「竹取物語」では、5人の求婚者に無理難題を吹っかける場面が、箱物語の構造になっている。かぐや姫が「結婚してほしければこれを持ってこい」というお題を5人の求婚者に与え、5人はそれを得るために冒険の旅に出る。仏の御石の鉢(石作皇子)、蓬莱の玉の枝(車持皇子)、火鼠の裘(右大臣阿倍御主人)、龍の首の珠(大納言大伴御行)、燕の子安貝(中納言石上麻呂)を探す旅の話が、それぞれ埋め込まれている。

竹取物語のストーリーを知っている人は多いだろうが、この箱物語の5つのストーリーを正確に記憶している人は少ないだろう。この箇所は、要するに「本筋としてはどうでもいい、付け足しの部分」に等しい。箱物語というのはそういうものだ。
竹取物語の成立は10世紀前後。「今昔物語集」の成立よりも古い。しかし実際には、今昔物語が集めた中国・インドの説話のようなものが遣唐使で輸入されていたのだろう。そういう「単独では使えないが、何かの話に使えそうな物語」が、箱物語として埋め込まれることが多い。

金太郎の話は、物語の構成としては、箱物語の体裁をとっている。そこが、他の昔話とは異なる点といえる。
物語の外側の器だけがあり、具体的な内容は付け足しだろう。「隠居した副将軍が、助さん格さんを従えて地方の視察に出かける」と似たようなもので、全体の話としては「足柄山にむかし、こんな元気のいい男の子がいました」というだけのことに過ぎない。
市販されている絵本の類いを調べてみると、金太郎に含まれている箱物語は、元気な子供が引き起こした山の村落のエピソード程度のものが多い。暴風雨で切れた吊り橋の代わりに大木を切り倒して橋をかける、大きな荷物を抱えているおばあさんを手伝って荷物を運んであげる、といったものだ。一番有名な話は、童謡で歌われている「クマに乗って馬の稽古をする」「山一番の怪力を決めるためクマと相撲をする」だが、これとて全体のストーリーの一部を占めるというよりも、「そういうこともありました」という程度の箱物語に過ぎない。犬猿雉を従えた鬼退治に比べると、著しく物語性に欠ける。

つまり、日本人が「金太郎」の話を知らないのは、「『水戸黄門』ってどういう話だっけ?」と訊かれて、具体的なストーリーを1話ずつ話せないのと同じ理由なのだ。1本に繋がった話ではないため、具体的に話の内容を訊かれても答えようがない。「むかし足柄山に、金太郎という元気のいい男の子がいました」という、器となる大筋だけが重要で、具体的なエピソードは足柄山周辺の武芸譚を寄せ集めてできたものだろう。そうした集合的な物語の構造をしているため、「金太郎」の物語には、実態がない。知名度が1%に満たないのも、仕方がないと言える。五月人形として子供の成長を願う象徴として使えわれる程度が、妥当なところだろう。


金太郎の話が有名ではないのは、そういう物語としての構造にその原因の一端がある。
しかし最近、それ以外にも、日本の歴史の一部にその原因を見いだすことができるのではないか、と考えるようになってきた。

多くの昔話と異なり、金太郎の話は、かなり史実を反映した部分がある。
話の中で、金太郎を家来にとりたてた武士というのは実在の武士で、源頼光(948〜1021)。頼光が金太郎とはじめて会った日も判明しており、976年(天延4年)3月21日とされている。
金太郎はのちに頼光の腹心となり、「坂田金時」を名乗るようになる。渡辺綱、卜部季武、碓井貞光とともに「頼光四天王」と称される。

童謡に出てくる「あしがら山」というのは、現在の南足柄郡。神奈川県と静岡県の県境にあたる。京都を中心とする平安時代の地勢からすると、かなり辺境の地と言ってよい。
関東に地盤がある源氏、というと鎌倉幕府を開いた源氏一族を連想するが、時代が合わない。源頼光が活躍した時代は、頼朝が鎌倉に地盤を確立し幕府を開いた時代よりも150年ほど前だ。この時代は、いったいどういう時代だったのか。

平安時代と鎌倉時代の大きな違いは、朝廷を中心とする集権体制が崩れ、地方で武力と経済力を蓄えた武家の時代に移行したことだ。貴族中心の外戚関係によってほぼ政治権力が決定していた平安時代と、武家政権を打ち立てた鎌倉幕府の差異は、学校で習う程度の日本史の知識でも常識の範疇に属するだろう。

しかし、武家社会に移行したとしても、鎌倉時代すなわち絶対実力主義、というわけではない。鎌倉時代というのは、朝廷が、武士階級の力を「無視できなくなってきた」という段階であって、世の中すべての原理が武士のルールに完全移行したわけではない。朝廷の階級社会と、武士を中心とする実力主義は、平安から戦国時代まで振り子のように揺れ動く。

鎌倉時代は武士社会による統括を一応実現させたが、朝廷ではそれを快く思わないものも多く、後醍醐天皇による建武の新政によって平安時代の原理に先祖返りする。それを瞬時に潰した足利尊氏による室町幕府は、両勢力の調整をはかることに失敗した。天皇をはじめとする朝廷の権力を完全に封じ込めることができず、京都という地理的な条件も朝廷の影響力を助長した。日本の歴史で室町時代だけが「権力の在処がはっきりしない」時代だったのは、そのためだ。武士社会独自の「実力主義」という原則が徹底されるのは、「見せかけの権力」としての室町幕府が有名無実化する戦国時代を待たなくてはならない。

日本史の謎のひとつに、「鎌倉幕府の執権を代々務めた北条氏は、なぜ将軍職に就かなかったのか」というものがある。幕府の中枢として将軍を補佐する職として名をなした北条氏は、京都から幼年の皇族を将軍として鎌倉に招き、成人すると将軍をクビにして、新たな幼年将軍を迎える、ということを延々と繰り返した。鎌倉将軍として頼朝、頼家、実朝の3代は覚えているが、4代以降は覚えていない、という人は多いだろう。実際には、鎌倉将軍は9代まで続いている。4代以降の鎌倉幕府は、北条氏の執権政治によって運営されており、将軍は飾りに等しい。覚える必要がない所以だ。

北条氏が将軍職に就かなかった理由は、中期から末期にかけての鎌倉幕府が将軍として皇族を擁立していることから推測できる。建前上、武家社会の鉄則は、「御恩」と「奉公」の双方向の義務によって成り立っている。将軍が自分たちの所領を守るからこそ、奉公としての追従が成り立つ。この時代の上下関係は、いわば契約関係によるものであり、絶対的君主制のように人権や人格まで束縛するものではなかった。だから主人が契約を果たさなかったら、ためらいなく主従関係を解消できる。
鎌倉幕府の将軍として武士団の頂点に立つということは、それだけの責任を負うことを意味する。いち地方豪族に過ぎない北条氏には、そこまでの御恩を全国的に保証するだけの「先立つもの」がなかっただろう。だから摂家将軍、皇族将軍を擁立し、封建的主従関係を形式だけでも保つ必要があった。

また、「地方豪族」や「武士団」と言っても、何もない所から自然に湧き出てきたわけではない。そのルーツはほとんどが清和源氏、桓武平氏などの「貴種」であり、京都から追捕使や押領使として全国へ派遣されたものが、現地に土着したものだ。つまり「京につながる血筋」であることが、武士団の棟梁として絶対的な価値をもつ。
一方、北条氏の出自は土着の農民だ。「貴種」に属する武士団の棟梁とは、血筋が違う。同じ関東の武士団のなかでも、三浦氏や千葉氏などよりも格下にあたる。せいぜい在庁官人としての地位を認められるに過ぎず、武士団すべてを束ねる棟梁としての格ではなかった。

つまり北条氏は、将軍職に「就かなかった」のではなく、「就きたくても就けなかった」のだ。その背景には、血族社会から実力社会に至る、日本史の長い過渡的な歴史にちょうど時代があたってしまったことがあるだろう。表面的には武家社会、その裏面は貴族的血族社会、という二面性が、平安末期から鎌倉にかけての、時代の実態だ。

そう考えてみると、金太郎を家来に召し上げた源頼光の行為は、かなり時代に反していたように見える。
たとえ怪力で戦力になるとしても、四天王などと呼ばれようとも、時代の眼で見る限り、坂田金時はしょせん「山で育った出自不明の輩」でしかない。来るべき戦乱の世に備えて軍力を蓄える必要はあっただろうが、金太郎のような子供を家来として重用することに、反対する道徳律は存在していただろう。

つまり金太郎の話は、そのサクセスストーリーを良しとしない風潮が、当時からあったのではあるまいか。地元では有名な子供かもしれないが、京都や有力御家人から見れば、「頼光はあんな素性の知れない奴を家来にとりおって」のような見方をされるに過ぎない。
金太郎の話は、政権を取った側からの「上からの目線」の物語ではなく、地元の伝承による「下からの目線」で書かれている。当時の一般民衆にしてみれば、元気一杯の子供が有名な武士の家来に取り立てられる、というのは、これ以上ないほどの出世譚だろう。しかし、そういう例は当時でも例外中の例外であって、基本的には武士団の階級は血筋や血縁に依拠する場合が多い。

だから金太郎の出世話は、公権力からすれば「封じ込めたい話」であり、話が広まらないように何らかの圧力がかかっていたのではあるまいか。その結果、破天荒な子供を讃える民間伝承を、地元でひっそりと語り継ぐ程度に留まったのだろう。そういった時代の圧力が原因となり、「金太郎」は広く全国に知れ渡る「物語」になり得なかったのではあるまいか。
平安から室町にかけて、政治権力の動向が振幅した時代に書かれた物語は、すべて身分・階級・血筋の差を当然の前提としている話が多く、下克上や分不相応な出世を讃える話は無い。「太閤記」のような話は、戦国時代を経てはじめて可能になった物語だ。


金太郎の話は、その物語の構造、時代背景など、いろいろな要因が絡まって、あまり知られることのない話になっている。その要因を紐解いてみると、日本の歴史の推移の中にその背景が隠されているような気がする。金太郎の他にもそういう昔話は、思いのほか多いのではないだろうか。



神奈川県民でも知らない人が多い。