大久保利通



大久保利通(1830-1878)


これほど人気のない「明治の偉人」も珍しいだろう。士族の出身でありながら旧士族に対して弾圧を行ない、内務卿として権力を振るった。同門の維新の士をことごとく蹴落とし、挙げ句の果てには反対派士族に暗殺された。
一般的な大久保のイメージは、そんなところではないか。西郷隆盛のように「義に篤く、人徳に優れた熱血漢」がもてはやされる明治の士にあって、大久保利通のイメージは甚だ悪いものになっているような気がする。山川出版社の日本史の教科書にも「藩閥政治の中心として権力をふるった」と、否定的なニュアンスで書かれている。

僕は個人的に、この一般的なイメージの大久保像には懐疑的だ。明治政府における大久保の立ち位置は、どのようなものだったのだろうか。
明治時代におかれた日本の状況をよく見てみると、当時の日本には、誰かしら大久保のような立場の人間が必要だったような気がする。

明治時代は、日本の全歴史のなかで最も激動の時代だっただろう。260年にわたる鎖国によって世界の趨勢からは完全に遅れを取り、江戸幕府の終焉によって急激に国のあり方を変革させる必要に迫られた時代だ。

当時の世界は、産業革命から帝国主義まで一直線に進む時代だった。
「産業革命」というと、イギリスの工場で綿製品をせっせと生産しており、副産物として都市公害を労働者搾取が問題となっていた時代、という程度の印象が強い。産業革命のイメージといえば、ロンドンの工場が立ち並ぶ景色を思い浮かべる人が多いのではあるまいか。

産業革命は、大きく分けて3段階の推移を経る。

(1) 技術革新による商品生産力の向上
(2) 労働者問題、公害問題、政治問題など国内環境の整備
(3) 生産された商品を海外に売り出すための植民地政策

せっかく技術革新によって商品を大量に生産できるようになっても、それを買ってくれる人がいなければ国の儲けにならない。産業革命にとって避けて通れないのは、「商品を買ってくれる国」なのだ。イギリスをはじめとるすヨーロッパ各国は、そのために「強制的に商品を買わせる国」として、植民地政策をとった。いわゆる帝国主義時代の幕開けだ。
つまり、産業革命を行なった国は、宿命として、帝国主義へと移行せざるを得ないことになる。「作った → 買え」という流れが「産業革命 → 帝国主義」という歴史の必然だった。

上では(2)の国内整備と(3)の海外膨張をこの順で書いたが、実際のところは(2)に先んじて(3)のほうが先に行なわれるケースが多かった。生産力向上によって商品を大量に作るだけでは、すぐに国内経済力が上がるわけではない。だから国外市場の確保は急務だった。
たとえば政府による上からの産業革命を押し進めたロシアでは、(2)の段階を軽視した。労働者問題や、経済力発展に伴う政治機構の整備を放ったらかしにして海外膨張政策を押し進めたツケがたまり、労働者の不満が爆発して、ロシア革命が勃発した。その点、清を滅ぼした中国の辛亥革命とは異なる。辛亥革命の場合、欧米列強による(3)の圧力で清朝が身動き取れなくなり、弱体化した清朝政府に見切りを付けて、漢民族による中国統治を目指したものだ。清が女真族による征服王朝だったことを考えると、辛亥革命というのは中世と何ら変わりのない単なる民族革命だろう。(1)→(3)の流れの中で(2)を実現するための革命、というものとは原理が異なる。


大久保利通というのは、要するに、(2)と(3)の調整に苦心し続けた政治家だったのではないか。


大久保は明治維新後、岩倉使節団の副使として欧米外遊に参加している。この時の目的はただひとつ、不平等条約の改正だ。しかし最初の訪問国であるアメリカで、岩倉使節団は、全権委任状の不備を指摘され、交渉の席でボコボコにされ、外交能力の欠如を露呈する。その背景には、すでに産業革命を達成し、南北戦争を乗り越えて、国内の産業と経済が勃興する最盛期だったアメリカとの、圧倒的な国力の差があった。岩倉使節団はアメリカ訪問の段階で「こりゃ無理だ」と不平等条約改正を諦め、国力を充実させる内政重視へと路線を転換させる必要性を悟る。その後、岩倉使節団の仕事は、条約改正交渉ではなく、欧米各国の産業・政治の実体を調査する「勉強の旅」に変わってしまう。当時はまだ日本と欧米各国では実力が違いすぎ、条約改正交渉は現実的ではなかった。

一方、西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らの留守政府は、「使節団の外遊中は大きな変革を行なわない」という約束を破って、次々に重要政策を発布する。しかもどの政策も、時代の流れを読まず、理想論と「するべき論」で強引に形だけを整えようとした、無茶極まりないものだった。
そのうち主なものに、1872年の学制発布と、1873年の徴兵制制定がある。両方とも、同じ理由で頓挫している。当時の日本はまだ農業国で、国民の大部分は農民だった。学制に伴う学校の建設費用は地域住民の負担であり、徴兵制は農村の労働力を奪われることになるため、各地で反対一揆が続発した。徴兵制の際には「西人コレヲ称シテ血税トイフ」の文言が民衆に誤解されている。当たり前だ。あくまで上から目線で理想を現実するためだけの政策であり、当時はまだその政策に追い付く世情ではなかった、ということが理解できていなかった、といえる。

留守政府の最大の失敗が、征韓論だ。要するに、(2)がまったく整っていない状態にも関わらず、(3)を押し進めようとしたのだ。鎖国をとっていた朝鮮を開国させて、自国の商品を売り込む市場として確保しようとした。また留守政府のほとんどが旧士族ということもあり、欧米コンプレックスを打ち破るには武力に限る、という感情論も強かった。

そこへ使節団が帰国し、征韓論に猛反対する。彼らは欧米で「国力の差」を目の当たりにし、まずは国内の経済・政治の充実を優先する必要性を痛感していた。その段階で海外進出をすれば、国が疲弊するだけだ。
征韓論を主張する留守政府と、それに反対する帰国組の閣議では、留守政府の主張が通り征韓論が閣議決定される。しかし大久保利通と公家の岩倉具視が共謀し、天皇へ政策を上提する水際で征韓論を握りつぶす。この「強権発動」が、「大久保=卑怯者」のイメージの理由のひとつだと思う。

現在、公平な目で当時の紆余曲折を評価すると、帰国組のほうに理があると思う。現代的な価値観での「他国を植民地にするとはけしからん」的な理由ではなく、帝国主義が当然だった当時にあっても、征韓論は無謀な政策だっただろう。
日本は欧米に遅れて産業革命にとりかかったため、欧米先進国の「お手本」をなぞることができた。その結果、(1)、(2)、(3)の推移が、きわめて短期間に行なわれた。それだけ、理想と現実の歪みも大きかっただろう。

明治政府はその歪みを正しく認識し、あまり大きく国内情勢が揺れないように、順序に従って改革を進める必要があった。僕は、明治新政府の中核を担う者に必要だった資質とは、「達成目標と現状の、バランスをとること」だったと思う。留守政府の連中は、ことごとくそのバランス感覚が欠如していた。目標のためなら猪突猛進、気合と武力で強引に成果を達成させる。まるで体育会系だ。征韓論が破れた留守政府組は「明治六年の政変」でことごとく下野し明治政府を去るが、ある者は士族の反乱に身を投じ、ある者は時期尚早な自由民権運動に明け暮れ、ろくな最期を迎えていない。時流が読めていなかったのだろう。

大久保は明治政府内部の体制を盤石にして、国内政策を優先する政策をとった。内務省を設置し、自らその長官(内務卿)に就任する。内務省は、現在でいう警察庁、47都道府県すべての知事、通産省、国土交通省などのトップをすべて兼任する、戦前日本の最大官庁だった。その長官だった大久保は、強力な権限を手して、意のままに政策を行なう。これが「大久保=独裁権力者」というイメージの理由だと思う。内務省は権限が巨大すぎ、戦後にGHQが真っ先に解体している。

権力者がもし狂信的な無能者だったら日本はとんでもないことになるが、純粋に政治家として権力者・大久保のやったことを評価すると、それほど悪い政治家には見えない。むしろ、世論や感情論を一切排し、日本が目指すべき国のあり方を地道に積み上げる努力をしていたように見える。
明治政府の一番の困難は、それまでの江戸時代な絶対君主制から脱却し、立憲政治につながる国内の政治体制を整えることだった。大久保が描いた政治のビジョンは、岩倉使節団が帰国した後に政体を定めるように建言した文書のなかに見出すことができる。

政体には、君主政治、民主政治、君民政治(立憲君主制)の三種類がある。… 民主の政は、天下を一人で私せず、広く国家全体の利益をはかり、人民の自由を実現し、法律や政治の本旨を失わず、首長がその任務に違わぬようにさせる政体であって、実に天の理法が示す本来あるべき姿を完備したものである。アメリカ合衆国をはじめ、多くは新たに創立された國、新しく移住した人民によって行なわれている。…


当時の世界は、絶対王政のような君主政治、ドイツのように皇帝に権力をもたせ議会が責任をもつ立憲君主制、イギリスやアメリカのように完全な民主政治、の3種類の形態があった。実は、大久保個人は、イギリスやアメリカのような完全民主制を理想としていたことが分かる。

しかし、実際にはそうはしなかった。結局、日本は大日本帝国憲法で立憲君主制を選択することになる。それは何故なのか。
同じ文書の中に、その理由を示す箇所がある。

君主の政は、蒙昧無知の民があって、命令や約束によって収められないとき、むきんでた才力をもつ者が、その威力・権勢に任せ、人民の自由を束縛し、その人権を抑圧して、これを支配する政体で、一時的には適切な場合がある。… イギリスは土地・人口の規模が日本とほぼ同じであるが、その国威は海外に振るい、隆盛を極めている。それは3200万余の人民がおのおの自信の権利を実現するために国の自由独立をはかり、君長もまた人民の才力を十分に伸ばす良政を施してきたからである。


限られた時期に少ない資料で海外外遊を行なってきたにしては、慧眼と言える。大久保がいきなり民主政治をとらなかった理由は、「時期尚早」だからだ。民主政治は、政治権力を民衆に与えるかわりに、民衆にそれ相応の政治運用能力を要求する。「じゃあ、お前がやってみろよ」と言われて、実際に政治家として国を運用できないような民衆レベルでは、民主政治はそもそも無理なのだ。

当時の日本の民衆は、学制や徴兵制に対して、感情的に反対するレベルだった。国全体レベルでの教育の必要性や、軍備拡張の必要性など、知ったこっちゃない。毎日の農作業のほうが大事なのだ。また、当時の国情としては仕方なかった面がある。現状を無視して理想だけで国をつくろうとしても、実体の伴わない形骸化した国ができあがるだけだろう。

大久保利通は、その辺の事情をよく理解していたのではなかったか。のちのち日本は、民主政治を目指す必要がある。しかし江戸が終わり時代が急激に変わる当時、その理想だけを盲信的につくろうとする姿勢は危険だ。日本の現実は、まだそれを達成できる段階ではない。だから「過渡的な段階」として、間に立憲君主制を挟む必要がある。大久保利通は、明治政府も大日本帝国憲法も、単なる「つなぎの体制」と捉えており、日本の最終形態とは考えていなかったのではないか。

その大久保の意図は、大日本帝国憲法の条文に埋め込まれた「将来的な可能性」に見て取れる。一般的には、大日本帝国憲法は、「天皇に強力な権限を付し、国民の自由や権利はかなり制限されていた」のようなイメージで捉えられていると思う。しかし天皇の統治権について規定した第四条には、「天皇は国の元首にして統治権を総攬し此の憲法の条規に依り之を行う」(勝手に現代語表記)とある。

この後半部分は、大久保の遺志を受けた、伊藤博文の強い意向によって付け足された箇所だ。大久保も伊藤も、「天皇の国家権力は憲法によって抑制されるべき」という立憲主義の精神を、正しく具現化しようとしていた。明治期の天皇は確かに強力な権力を持ったが、その権力は無制限に発揮できるものではなく、あくまでも大日本帝国憲法が定める範囲に運用が制限されていた。実際に、明治天皇は有史以来の日本で最高レベルの絶対権力を握っていたにもかかわらず、あまり「独裁者」としてのイメージがない。それは、大久保や伊藤をはじめとする当時の政治家がそのように大日本帝国憲法を作っていたからであり、明治天皇もそれを正しく理解して権力を運用していたからだ。

そして、この「埋め込まれた箇所」が、のちに議会政治・政党内閣を可能とする伏線になる。伊藤博文は、大日本帝国憲法の草起者、初代内閣総理大臣として理解されていることが多いが、のちに政党内閣制を実現させて、立憲政友会総裁として第4次内閣を興したことはあまり知られていない。大久保や伊藤が、完全に「天皇絶対制」を思い描いていたのだとしたら、第四条の規定は不可解だし、そもそも本人が政党内閣制など実現させないだろう。
伊藤は第四条の条文の付加部分を、閣議の大反対を押し切って強引に記載した。当時の政府中枢には神道を中軸とする「天皇絶対制」を思い描く政治家が多かった中、伊藤博文は大久保の理想を継承して、大日本帝国憲法がのちに完全な民主政治への端緒となるように「仕組み」を埋め込んでいたのだ。松下村塾の落ちこぼれにしては、大した見識だと思う。

大久保が上提した文書の「蒙昧無知の民」という文言は、今だったら一発でクビが飛ぶ問題発言だろう。しかし、現代の我々は、この大久保の文言を非難できるだけの見識を備えているのだろうか。完全な民主制が達成された今、選挙のたびにきちんと政策を吟味し、自分の目先の利益とは別視点で国の大きな利益を考えて選挙に投票する日本国民が、どれほどいるのだろうか。政府が失策を犯すたびに「政治家はけしからん」などと文句を言ってばかりいないで、文句があるなら自分が政治を行なう立場に廻ればいいのだ。参政権というのは、単なる投票権だけでなく、政治に参加する権利でもある。「じゃあ、お前がやれ」と言われて、国を正しく導くことができることができるのだろうか。

僕は、優秀な政治家ほど、民衆には恨まれるものだと思う。民衆は「蒙昧無知」なもので、自分の目先の生活の安定しか気にしない。そういう「個々の利益」と、「大きなビジョンとしての国策」の両方を、うまく調整できてこその政治家なのではないか。大きな国策と、個々の福祉は、衝突することが多い。もし政治家が民衆に圧倒的な支持を得ているのだとしたら、それは民衆レベルでの要求を最優先にしているだけに過ぎず、同じレベルでしか国の政策を見ていないに過ぎない。

大久保利道が嫌われる理由は、そのへんにあるような気がする。「どうしなければならないか」と「実際にそれができるのか」の間の距離を正しく把握し、大きな理想の目標を、小さな現実的な目標に噛み砕いて、たとえ遠回りになったとしても着実に小さな階段を積み重ねる。そういう資質のあった政治家だったのだと思う。

薩摩の同郷の士として、大久保はよく西郷隆盛と比較される。しかし、西郷隆盛がもし大久保に替わって政治の中枢に据わっていたとしたら、日本の議会政治はあれほどスムースに実現できただろうか。西郷は士族の棟梁としては適任かもしれないが、時には非情な判断も必要となるような政治家の器ではないと思う。「どういう状態が理想なのか」と、「現状でそれが可能なのか」の間を調整する能力は無かっただろう。

現在の教科書では、大日本帝国憲法は「不完全だった憲法」として、批判的に論じられていることが多い。しかしそういう論調は、現在の日本国憲法のもとで、現代的な視点から歴史を「見下ろす」ような姿勢だろう。実際のところは、大久保があれほど苦心して現実レベルに引き下ろそうとしたにも関わらず、大日本帝国憲法でも当時としては急進過ぎた。しかし大日本帝国憲法を詳しく調べると、とても「非民衆的な憲法」には見えない。むしろ当時の民衆が、あの憲法を「民主的に運用できる能力に欠けていた」のではなかったか。大日本帝国憲法の発布の日には、日本中が提灯行列でお祭り騒ぎになったが、民衆のほとんどが「憲法」なるものが何なのか理解していなかった。この程度の政治レベルの国が「完全民主政治」など、笑い話だろう。

人気とりのために、選挙区の利益になるような政策を持ち帰る政治家は多い。マスコミは特定の政党に肩入れするため、印象操作をする報道を行なう。国民全員が、そういう「雑音」を排し、政治の動向と政治家の資質を正しく見抜く能力を備えてこそ、民主政治は可能になる。それができない選挙民など、単なる「蒙昧無知な民」に過ぎない。大久保利通の言葉は、今の時代では暴言だろうが、現在の日本国民に政治を正しく見る目が備わっているかどうかを、鋭く問いかけている一言だと思う。



教師も学生にはよく悪口を言われるものでして。