ドイツ優勝



2014W杯決勝戦
ドイツ 1 - 0 アルゼンチン


ドイツが盤石の強さを見せて優勝。3大会続けて、準優勝、3位、3位とあと一歩のところで届かなかった優勝に、とうとう辿り着いた。
決勝戦はドイツ優勢の報道が多かった。この決勝戦を見る限り、ドイツとアルゼンチンの差は、実際の点差よりもはるかに大きかったと思う。

ドイツは試合前の練習でケディラが突然の負傷、急遽クラマーを先発で起用した。すでにこの時点で、ドイツの選手層の厚さが垣間見える。ケディラは中盤の底から前線まで広いプレーエリアをカバーし、豊富な運動量で相手国DFを悩ませた。準決勝のブラジル戦も、度重なるケディラの攻撃参加にブラジルDF陣は混乱し、大量失点を喫している。そのケディラが決勝戦直前に怪我するとあっては、ドイツにとっては一大事だろう。クラマーはここまで今大会に2試合出ているが、いずれも途中交代で、先発したことはない。しかしドイツは、経験値の低いクラマーを、なんの躊躇もなく、決勝戦という大事な試合でいきなり先発起用した。「誰が出ても替わりを務められる」という、レーヴ監督の絶大な自信が見える。
今回のドイツは、苦しい試合も経験している。グループリーグではガーナに引き分け、決勝トーナメントのアルジェリア戦では戦術を分析され大苦戦をした。そうした苦戦の土壇場でドイツが勝った理由は、交代選手が常にチームにぴったりフィットしていた、という点だ。

その最も顕著な例が、シュールレだろう。今大会ではガーナ戦を除く6試合に出場したが、すべて途中交代での出場だった。試合後半で膠着状態に入り、局面を打開する必要に迫られた時、ドイツはどの試合でも決め打ちの策としてシュールレを投入していた。シュールレは試合の流れをしっかり読み、各試合で必要な動きをとってドイツの攻撃に厚みをもたせ、疲労で足が止まっている相手DFを容赦なく攻め立てた。このシュールレ投入で重要なポイントは、シュールレはどんな試合でも「途中交代の試合にスムースに入れていた」ということだろう。試合から浮くことなく、自分の役割をしっかり理解して、攻撃に効果的なアクセントをつけた。またドイツ攻撃陣も投入されたシュールレの「使い方」に熟知しており、体力に余裕があるシュールレを空いてるスペースにどんどん走らせた。疲労で足が止まった相手チームのDFは、後半20分にシュールレが途中交代で入ってくると、ため息が出る思いだったのではないか。途中交代だけで今大会3得点というのは、尋常ではない。

それに対し、今回の決勝戦でのアルゼンチンの選手交代は、効果的だとはとても言い難い。後半に入ってから、ラベッシとイグアインに替えて、アグエロとパラシオを投入。しかし、ラベッシとイグアインの2人は、前半からドイツの守備のギャップを突き、メッシに頼らず何度か決定的なチャンスを作っていた。惜しくもオフサイドにはなったが、ラベッシのクロスからイグアインが1度シュートをドイツのゴールマウスに叩き込んでいる。攻撃として唯一機能していた二人に替えて投入したアグエロとパラシオは、全然機能しなかった。そもそもアグエロは負傷の影響で、コンディションが万全ではない。ただ、メッシは仲の良いアグエロと相性が良く、今大会でもサベージャ監督は、何度か「アグエロを入れてくれ」というメッシの要望を受けて選手交代を行なっている。

後半に入ってドイツの攻撃に押され気味になったアルゼンチンは、中盤のつなぎ役としてガゴを投入し、3人の交代枠を使い切る。守備力が高く運動量の多いガゴの投入は当然だが、そのかわりにペレスを下げてしまったのだ。ペレスは左サイドを幾度となく駆け上がり、ドイツ右SBのラームを守備エリアに釘付けにすることに成功していた。左サイドを制圧していたペレスがいなくなり、中央を守るガゴを入れることによって、アルゼンチンの守備のバランスは大きく崩ることになる。ペレスのプレッシャーがなくなったラームは、溜めていた体力を一気に発揮するように前線近くまで駆け上がり、ミューラーとのコンビネーションで右サイドを荒し回った。そのためアルゼンチンは守備が左に偏るようになり右サイドを手薄にしてしまい、それを見越していたかのようなシュールレにがら空きになった右サイドの突破を許し、ゲッツェの決勝点につながった。

ガゴを投入する際、誰を下げるべきだったのか。アルゼンチンには酷だが、あの場面で下げるべきだったのは、明らかにメッシだった。体調、精神面の両方でコンディションを崩しており、リズムを失い、動きも鈍い。一発に期待できるほど、ドイツのディフェンスは甘くない。アルゼンチンのチームの統括は、マスチェラーノのほうがむしろ適役だったはずだ。点は取れないだろうが、引き分け狙いでPKに持ち込む以外、あの場面でのアルゼンチンに残された道はなかったのではないかと思う。

ブラジルもアルゼンチンも、大会前の戦評では「選手層の厚さ」というフレーズが多く使われた。しかし、個としての能力が優れた選手がいくらたくさんいても、それらの選手がチームの戦術と試合の流れにスムースに入れるかどうかは、全く別問題だ。アルゼンチンの交代選手は、確かに個人能力は高かったのだろう。しかしチーム戦術が控え選手にまで浸透しておらず、人が変わると戦術を保てない。それが、誰が入ってもチーム力が落ちない、いやむしろ強くなるドイツとの大きな違いだったと思う。試合直前に主力がケガをして控えのクラマーが緊急先発しても、そのクラマーが前半31分で脳震盪で倒れても、すぐに替わりの選手が穴を埋められる。そういう「調整力」の大きな差が、今回の試合を決めた一番大きい要因だったと思う。


2006年、2010年、そして今回の2014年の3大会と連続して、ドイツとアルゼンチンは対戦している。戦績はドイツの2勝1分け(PK戦でドイツが勝利)。お互いに似た足跡を辿ったドイツとアルゼンチンだが、この8年間の間についた差は大きいと思う。
それが象徴的に表れたのが、シュバインシュタイガーとメッシという、両チームを引っ張るリーダーの成長の差だろう。

シュバインシュタイガーは2006年の自国開催時、まだ若く、体力と走力にまかせたサイドプレーヤーだった。攻撃的MFとして前線の攻撃に積極的に絡み、ガツガツしたドリブルで前に進むことしか考えていないプレーヤーだった。周りとのコンビネーションよりも単独で局面を打開するほうを好み、突貫小僧のようにアグレッシブに攻める、勢いだけが取り柄のプレーヤーだった。プレーの質も荒く、精神的にも未熟で、試合中にエキサイトして相手と小競り合いを起こし、イエローカードをもらうことも多かった。

その後、所属のバイエルン・ミュンヘンでボランチの役割を与えられ、パス能力、ゲームコントロール、視野の広さが格段に飛躍した。特に守備力の向上は著しく、マンマーカーとなって相手エースを封じるだけでなく、必要であればDFにも入れる。かつ攻撃力が衰えることはなく、攻撃の枚数が足りない時には積極的にオーバーラップし、かつての突破力と決定力が衰えていないことを見せつけた。2006年時のシュバインシュタイガーは、まるでオランダのオーフェルマウス、アルゼンチンのクラウディオ・ロペスのようなプレースタイルだったが、2010年W杯からはDF、守備的MF、サイドアタッカーのすべてを兼ね備えたサネッティのような選手に変貌している。

キャプテンシーも経験を経るごとに増している。ピンチの時にはチームを鼓舞し、戦う姿勢で仲間に活を入れる選手に成長した。今回の決勝戦の延長では、体を張ってアルゼンチンの攻撃を止め、接触プレーで眼の下を切って流血しながらも交代を拒み、ドイツ守備陣の最前線に仁王立ちした。シュバインシュタイガーのマークを分散しメッシをフリーにする役割を負ったガゴは、まるでシュバインシュタイガーの気合に睨まれたかのように、中盤の制圧を許してしまった。シュバインシュタイガーは8年間の苦杯を嘗め続ける過程で、確実にプレーの幅を拡げ、精神的に大きく成長していた。8年前と今では、全く違うプレーヤーと言ってよい。

一方のメッシは、2006年の時点では「ドリブルで単独突破ができるエース」であり、今大会でも「ドリブルで単独突破ができるエース」だった。つまり8年前と今のメッシは、同じメッシだ。プレーの幅が広まったわけでもなく、キャプテンシーに溢れるリーダーになったわけでもない。スタミナに欠ける分、プレーヤーとしての質はむしろ落ちているだろう。
メッシはキャリア全般で見る限り、マラドーナのような「伝説」になるに十分な資質を備えた選手だっただろう。しかし、8年間という歳月は、ライバル国に「メッシ対策」を研究され封じられるには十分な歳月だった。
時代も変化している。マラドーナのように一人の天才が局面を打開できる時代とは異なり、情報と分析を駆使し、高度なチーム戦術で戦ってくる現代サッカーでは、単独で状況を打開するのは難しい。特にドイツのようにチーム戦術の権化のような相手には、「天才」は通用しないだろう。

今大会のメッシは、攻撃だけに専念する「特権」を与えられており、前線でのディフェンスにまったく参加していない。走行距離も短く、7~8キロしか走っていない試合が多かった。ドイツ攻撃陣がほとんど11, 12Kmを走っているのと大きな差がある。これは明らかに、サベージャ監督の指示によるもので、攻撃時にメッシを温存するための策だろう。
メッシはキャプテンでありながら、積極的に動くわけでもなく、チームを鼓舞するわけでもなく、ひたすら仲間がパスしてくれるボールを黙って待ち続けた。一般的には「アルゼンチンはメッシ頼み」「メッシにおんぶにだっこ」という論調が多かったが、逆だと思う。メッシのほうが、チームの仲間に頼り切っていた。守備は任せる、中盤は任せる、最後のパスだけを寄越してほしい。とんだキャプテンもあったものだ。ドイツの怒濤の攻撃を必死で食い止め、仲間を鼓舞し、気合でアルゼンチンを引っ張っていたのは、間違いなくマスチェラーノだった。実質上、決勝戦のキャプテンは彼だったと言ってよい。
延長後半、ディフェンスでボールを奪ったシュバインシュタイガーが、メッシのいるすぐそばをドリブルで普通に素通りしていった。ドイツはメッシがディフェンスに加わらないことをすでに熟知しており、守備ではメッシはいないものとして扱っていた。8年の歳月を経て、両者の間に開いた大きな差が、はっきりと見て取れる瞬間だった。

しかし、メッシにはそうするより他に行動を許されていなかった。メッシがそういうプレーに終止したのは、他ならぬ監督の指示なのだ。僕は、アルゼンチンの「攻撃はすべてメッシに任せる」という作戦が、大会を通して徐々にメッシ本人を追いつめていったのだと思う。守備免除の特権、攻撃の全権委任という信頼は、裏を返せば「もし敗戦すれば全責任を自分ひとりが負う」というプレッシャーにつながる。メッシは予選リーグでこそ4得点と活躍したが、決勝トーナメントでは1ゴールもあげていない。これは試合を重ねるごとに、チームの期待、国民の期待を背負う膨大な重圧に、少しずつメッシが耐えられなくなったからだと思う。コンディションの問題というよりも、精神的な問題だろう。決勝戦でも、前半ですでにメッシはピッチ上を嘔吐をしている。彼が、すでにプレッシャーに耐えられない精神状態だったのは、明らかだろう。

アルゼンチンの決勝トーナメント1回戦のスイス戦で勝負を決めたのは、マークが集中していたメッシからのスルーパスを受けた、ディマリアの一撃だった。延長戦を戦い、スイスの集中マークに遭い、苦しい試合を乗り切ったためもあるだろうが、あのゴールの後にメッシが大喜びでディマリアに抱きついていたのが印象的だった。きっとあのゴールが、メッシが一番喜んだゴールではなかったか。自分はひとりだけではない、他のプレーヤーを活かせば、自分以外にも決めてくれる仲間がいる。単独突破を期待されたメッシが、負担を分かち合ってくれる仲間を活かすことによって取った得点だ。それ以後の決勝トーナメントで、過大な負担を負ったメッシがどう戦えばいいのか、大きな分水嶺になり得た試合だったと思う。それだけに、ディマリアの離脱は、メッシにとってかなりの痛手だっただろう。

今回の決勝戦で、メッシの精神状態を象徴するシーンがあった。試合後半が終わり延長戦に突入する場面で、ドイツの選手はそれぞれ横になって仲間のマッサージを受けていたが、アルゼンチン代表は全員がサベージャ監督のまわりに集まり円陣を組んで、サベージャ監督の熱い指示を聞いていた。見た感じ、チームの雰囲気は、アルゼンチンのほうがまとまっているように見えた。
しかし、その輪のなかにメッシだけは入っていなかった。メッシは円陣を組む仲間など見向きもせず、ひとり輪を外れてピッチに座り込んでいた。チームの仲間から諭されてしぶしぶ円陣に入ったものの、監督の言うことなど全く聞かずに、すぐに輪を離れる。普通に考えれば、キャプテンとしてどころか、チームの一員として失格の態度だ。

きっとメッシは、監督の言うことを聞きたくなかったのだろう。「ボールをメッシにつなげ」「メッシがなんとかしてくれる」「メッシが決めてくれるまで耐えろ」・・・。延長戦の前にメッシがチームの輪を離れていたのは、そうしてメッシひとりに攻撃の全責任を負わせるサベージャ監督に対しての、彼なりの抵抗だったのだと思う。
ドイツに先制を許し、どうしても1点をとらなければならなくなったアルゼンチンは、延長後半の終了間際、フリーキックのチャンスを得る。キックを任されたメッシの表情は、すでに戦う人間の顔ではなかった。そのFKを外したメッシは、天を仰いで苦笑いをしていた。僕には、そのメッシの表情が、自分ひとりにすべてをやらせようとしたチーム戦術に対する自嘲に見えた。だから言っただろ、俺ひとりで何でもできるわけないじゃないか。ひとりの力で優勝できるほど、ワールドカップが甘いもんか・・・。

試合後の表彰式で、メッシは大会MVPに選ばれた。そのトロフィーを受け取る時のメッシの落胆した表情は、いろいろなメディアで報道されている。守備の放棄、少ない運動量などを根拠に「メッシは自分がMVPにふさわしくないことが分かってて、分不相応な賞をもらうことに気後れしているのでは」という論調もあった。
しかし僕は、あのメッシの表情は、自分ひとりが重圧を背負って戦ってきたワールドカップが、彼にとって全然楽しくない大会であったことの、何よりの表出だと思う。チーム全員の、アルゼンチン国民の、過大な期待を一身に受けて、そして負けた。それに応えられなかった申し訳なさもあったと思うが、何よりも「なんで自分ひとりに」という、背負ったものの大きさに対するやるせない不満のほうが大きかったのだと思う。不満を言葉に出すことが許されない中で、自分ひとりで理不尽に耐えなければならない気持ちが、あの表情だったのではなかったか。

MVPはメッシではなく、ドイツGKのノイアーのほうがふさわしいのでは、という報道があった。しかし僕は個人的に、「自由という鎖」に縛られ、チームに献身的に貢献する道を断たれ、仲間と監督と国民の過度な期待に耐え抜いて、チームを決勝戦まで導いてきたメッシには、なんらかの報償があってしかるべきだと思う。いわゆる普通のMVPとは意味合いが違うが、あそこまでプレッシャーに耐え、加熱する報道に世論のハードルを上げられ、最後に負けた末に何も残らないのでは、あまりにもメッシが浮かばれない。


一方のドイツは、マスチェラーノが指揮するアルゼンチンの固い守りを、組織的に崩していく。あまり報道されていないが、実はアルゼンチンは決勝トーナメント以降の試合を、すべて完封で乗り切っている。攻撃をメッシに任せ、中盤の選手の大部分を守備に割り当てる守備的な布陣が功を奏し、固いディフェンスで守り切ってきた。サパレタ、デミチェリス、ガライ、ロホのDFライン、マスチェラーノ、ビグリア、ガゴのMFの7人で守備陣形を敷き、ドイツの怒濤の攻撃に耐え抜いていた。
スイス、ベルギー、オランダには通用したその守備網は、ドイツには通用しなかった。特にドイツの攻撃の起点となったのは、ペレスの交代によって前線に出る自由を得た、右SBのラームだった。延長戦に入ってからのラームの運動量は、超人的と言ってよい。疲労が溜まり、両チームとも膝に手をつく選手が多くなった中で、まるで試合が始まったばかりであるかのような運動量とスピードで、容赦なくアルゼンチン陣内に攻め込んだ。まるで化物だ。
ラームは雄叫びを上げてチームを鼓舞する闘将タイプのキャプテンではないが、あのスタミナと運動量は、ドイツ攻撃陣を奮い立たせるに十分な役割があったと思う。同じく人間離れしたスタミナをもつミューラー、途中交代でスピードのあるシュールレとゲッツェ。ドイツがアルゼンチン守備網を破るのは、もはや時間の問題だっただろう。

結局、アルゼンチンとドイツを分けたのは、「成長の差」と「試合中に戦術を変えられる引出しの多さ」だったと思う。アルゼンチンはいまだに「マラドーナ神話」から脱却できていない。ひとりの天才的ファンタジスタがチームを優勝に導いてくれる、そんな神話がいまだに幅を利かせている。21世紀になりサッカーが大きく進化した今、そんな神話はもはや「呪い」でしかない。
「選手層の厚さ」というのも、単なる「個」の話であって、チームとして機能しない、意味のない「厚さ」だ。2002年の日韓W杯時、アルゼンチンは南米予選をぶっちぎりの強さで1位通過し、当時は「優勝できるチームがふたつ組める」と言われるほどの「選手層の厚さ」を誇っていた。しかし実際の本大会では、バティストゥータの不振を埋めるべきクレスポがまったくチームにフィットせず、空回りする10番を背負ったオルテガの替わりを務めたアイマールは、せっかくの持ち味をチーム戦術に封じられた。優勝チームふたつどころか、ひとつのチームすらまともに組めない。イングランド、ナイジェリア、スウェーデンという「死の組」に当たった不運はあったが、まさかの予選リーグ敗退という苦杯を味わった。当時も今も、「優秀な控え選手が多いものの、チームの交代要因としては機能しない」という弱点は、アルゼンチンの根源的な問題点だろう。
前回大会でドイツに4-0で大敗したのも、同様の理由だろう。なにせ前回大会では監督がマラドーナだったのだから、「マラドーナ神話」から脱却するどころの話ではない。マラドーナにとっては、自分がかつて成功した方法こそが「正解」なのであり、自分の時代とは違うチームを作れるほどのインテリジェンスはないだろう。メッシは「マラドーナ」になるべく仕立て上げられたのであり、不振で終わるのも無理はない。

戦術をひとつしか持たず、局面に対処する柔軟性を欠いたアルゼンチンと違って、ドイツは決勝戦で起きた度重なるアクシデントに、いとも簡単に対処した。ドイツには、その人ひとりをマークすればいい絶対的な選手がいない。誰が抜けても、必ず替わりの選手が役割を果たす。ケディラがだめならクラマーが、クラマーがだめならシュールレが出てくる。しかもそれでチーム戦術が大きく変わることなく、しっかり機能する。ドイツ相手に、ひとりにマークを集中させることは、他の選手をフリーにしてしまうリスクにしかならない。

ドイツは、ラームとミューラーの右サイドを起点にアルゼンチンを崩しにかかった。その結果、アルゼンチンDFは過度に左に寄らざるを得ず、自陣の右サイドに大きなスペースを作ってしまった。ゲッツェの決勝点は、そのプレーを単独で見る限り、「どうしてあんな攻撃を防げないのか」という程度のものに過ぎない。シュールレの突破はスペースを突いただけのものだったし、フィニッシュを決める段階でアルゼンチン陣内のボックスに入っているのはゲッツェ1枚だけだった。ゲッツェは身長が高くなく、空中戦に強いわけではない。そのゲッツェに鮮やかな決勝弾を許してしまったのは、ドイツからの右サイド突破に対処せざるを得なくなり、左サイドと中央をフリーにしてしまった結果だ。ドイツの幅広いサイドチェンジに対処できるほどの体力は、アルゼンチンDFには残されていなかった。ゲッツェに先制弾を許した直後、獅子奮迅の働きをみせていたマスチェラーノはピッチに倒れ込み、しばらく立てなかった。それはそうだろう。

ドイツは決勝戦で、特にメッシ対策を講じることなく、いつも通りのディフェンスを行なった。メッシのボールを持つ回数とドリブルの走行距離は、実は準決勝のオランダ戦よりも多い。ドイツがある程度メッシを自由にしていた結果だ。メッシにボールを持たせてもよい、シュートを打たせてもよい、それを許した上で、なおかつ守り切る自信がある。ドイツの守備は、そこまで完成されていた。


ドイツは毎回、安定した成績を残し、どの大会でも優勝しておかしくない戦力を保っていた。今大会でドイツが頂点に達したのは、他でもない、ドイツ自身が成長し、強くなっていったからだ。2002年よりも2006年、2006年よりも2010年、2010年よりも今大会のほうが、明らかにチームが強くなっている。やっているサッカーも全然違う。また伝統的にドイツはトーナメント式のチームを作るのが上手く、大会を通してチームが成熟し成長していく方法に長けている。短期決戦では欠かせない「ラッキーボーイ」にチャンスを与え、勢いをつかむのが上手い。ベテランと若手の融合、世代交代の成功、卓越したチーム戦術、選手のインテリジェンスと戦術理解度の高さ、エースに頼らない豊富な攻撃のバリエーション、交代が効く柔軟な選手層、どれをとっても今回のドイツに勝るチームはなかっただろう。もう一度今大会をやり直しても、やはりドイツが優勝したと思う。それだけ完成度の高いサッカーを見せてくれた。次回の2018年ロシア大会でも、さらに強くなったドイツ代表を観てみたい。



前回大会優勝時のスペインよりも間違いなく強いと思う。