大学研究者の晴れ舞台、「学会」というのがあるんですが。


一般の方にはあまり馴染みのない場所だと思いますが、学者や研究者は自分の研究成果を発表するために、よく学会に論文を投稿します。査読の結果、論文が通ったら、発表者として壇上に上がって、聴衆を前に研究発表をします。

学会によって形態はかなり違いますが、だいたい口頭発表の場合、25分の発表のあとに10分間ほど質疑応答の時間があります。
聴衆の方が手を挙げて、発表内容についていろいろと質問したり議論をしたりするわけです。

大学院生の頃は、それはそれは学会発表が怖くって。
だって、日本中、世界中の一流研究者の先生方が、自分ごときの発表を注意深く聞いてるんですよ。教科書でしか名前を存じ上げていない先生の論文を、批判して修正案を出す発表をすると、目の前でその先生が発表を聞いてるんですよ。質疑応答のときにその先生が手を挙げた時の恐怖感と言ったらなかったです。
発表のために講堂に入って、人がたくさんいると「なんでこんなにたくさんいるんだよ」と思ってド緊張したもんです。

僕は博士課程のときに全国学会にデビューしましたが、最初の発表の時は棒読み用の完全原稿を作っていました。だって怖いんだもん。
質疑応答も、予測される質問をあらかじめ想定しておき、それに対する「模範解答」をばっちり作って、答えの文言まで原稿を作っておきました。
だから学会前の研究室は、大学院生が総出で質問箇所の検討です。先輩や後輩にも手伝ってもらって、「こう訊かれたら、こう答えたらいいんじゃないか」なんてことを必死に準備します。大学院生にとって、学会発表はいわば就職活動のようなものですから、印象が大事です。「すみません、考えていません。これからの研究の参考とさせていただきます」は敗北宣言です。

今考えると、さぞ下手くそな発表だっただろうな、と思います。だいたい、原稿を棒読みする発表に上手な発表はありません。
大学院生の頃は、学会は「失敗したら殺される場所」だと思ってました。発表の合間の休み時間も、廊下や談話室で厳めしい顔した偉そうな学者の先生が、難しそうな話をしています。他の大学の大学院生たちも、自分よりもすごく賢そうに見えます。
学会のあとには懇親会という名の飲み会がありますが、怖くって出られやしません。自分の発表が終わったら、他の人の発表なんて聞かずに、逃げるように帰りました。会場の大学からちょっと離れたところの喫茶店に入ってお茶を飲んでも、まだ手が震えてるような有様です。

アメリカの大学院に行ってからはなおさらです。なにせ今度は英語で発表しなければいけないわけですから、完全原稿を作った上で何回も音読して練習です。質疑応答に至っては、相手がまず何を質問しているのかをこっちが理解しなければなりませんから、日本にいたとき以上に憂鬱になりました。

僕が学会に対する姿勢が変わったのは、アメリカに行ってからのことだと思います。僕は勝手に緊張して勝手に下手な発表をしていましたが、なんか学会の雰囲気が日本にいた頃と違うんですよね。
なんというか、みんな笑ってるんです。休み時間にも、研究者の人達は、なんか久しぶりに会った友達とふざけ合うみたいに笑っています。僕ごときの発表が終わった後でも、みんな笑顔で話しかけてくれて、「面白い発表だったよー」などと言って褒めてくれます。

なによりも、他の人の発表を見て、「ずいぶん楽しそうに発表しているな」と感じました。誰も原稿なんて読んでません。みんな「自分はこんな研究をしているんだ」ということを人に聞いてもらいたい、という強い意思が感じられるような、朗らかな発表をしていました。
どうやったらそういう発表ができるようになるんだろう、とあれこれ試行錯誤した挙句、僕は「完全原稿を用意することが間違っているんじゃないか」と思うようになりました。英語力に不安はありましたが、それ以来、僕は学会発表のときに原稿を作るのをやめました。

そりゃ、最初は怖かったですよ。なんというか、目をつぶって思い切って飛び降りるような気分でした。発表原稿は「全部作る」か「まったく作らないか」のどちらかで、中間はありません。いちど原稿を断ち切ったら、一切を自分の言葉で話し切らないといけません。
それ以来、普段の大学院での演習授業でも、大学内の研究発表でも、一切原稿を作らずに、本番を想定して度胸で発表する練習をしました。最初はうまくいかず、何度か壇上で凍りました。でも経験を重ねるうちに、自分の声で話せるようになり、聴衆のほうを見て話ができるようになりました。

僕は今、大学で学生に英語で発表をさせる演習授業を担当していますが、授業では原稿の棒読みを禁止しています。もちろん学生はうまく発表できません。でも、授業のルールとして「失敗してもいい」「内容の精度は評価に入れない」を徹底し、度胸をつける練習をさせています。
発表をする際は、もちろん内容が良いことは絶対条件なんですが、内容が良ければそれでいい、というわけではありません。どんなに良い内容の発表であっても、発表のしかたが悪かったら誰も聞いてくれないんです。一流の学者の先生でも、口頭発表がすごく下手な先生はいます。

日本に帰国してからは、あれほど怖かった学会が、全然怖くなくなりました。憑き物が落ちると分かるんですが、研究者の人は「学会」をそれほど固く考えていないんですよね。優れた研究者の人ほどそうです。
なんというか、学会は「褒められに行く」んです。久しぶりに会った他の研究者の方から「いやーたくろふさん、さっきの発表、良かったですねー」「こないだの論文、面白かったですよ」なんてお世辞を言ってもらうと、とても嬉しくなるわけです。

僕はいままで、発表するわけでもない研究者の人が、なんであんなにたくさん学会に来るんだろう、と不思議だったんですが、学会だって参加してるのは、ただの人なんです。人知を越えた化物ばかりが集っているわけではありません。久しぶりに会った人とは酒も飲みますし、いい所があれば観光にも行きます。
帰国してからは、日本のいろんな所で学会があるたびに、現地のおいしいものや観光スポットなどを調べるのが楽しくなりました。楽しいほうが、のびのびと楽しく発表できます。
去年の夏ははじめて学生を学会に連れて行きました。僕が発表の前日も夜遅くまで酒を飲んでいるので、学生が「先生、大丈夫ですか、明日発表ですよね」と心配する有様です。


最近は、そういうこと以外にも、学会には役割があるんだな、ということが分かってきました。
僕も順調に研究が進み、学会を運営する側にまわることが多くなりました。発表前にカチコチに緊張している「いつかの僕」みたいな大学院生がいると、気軽に話しかけて、緊張を解いてあげるようなこともしています。

いま僕は、ある大きな学会の編集委員をしていますが、いろいろと研究者の方に「依頼」をする機会があります。一番多いのは、論文査読や書評の依頼です。
学会誌には最近出版された専門研究書の内容と評価を概略する「書評」という小論が載るんですが、その書評の執筆を、専門家の方に依頼しなければなりません。書評依頼には謝礼は出ませんので、完全にボランティアでやってもらう仕事になります。世間的な常識では、嫌な仕事に決まってます。

僕は帰国してから何度か書評を依頼されましたが、なんか「その分野の専門家」として学会に認められた気がして、嬉しかったのを覚えています。仕事は負担と言えば負担ですが、いままで駆け出しの頃からいろんな方に支えていただいて研究を続けてきた僕ごときが、ようやく世間様に恩返しができる立場になったような気がしました。

しかしまぁ、いつもそういう方ばかりではありませんで、書評執筆を「めんどくさい仕事」と考える研究者の方も、いないではありません。そうでなくても、他の仕事や大学業務などが多忙な方は、書評依頼をわりと重要度の下のほうに置くことが多いです。これは書評が突発的で無報酬の仕事である以上、ある意味しょうがないことです。僕も学会の編集委員をしている間ずっと、書評の依頼には頭を悩ませました。
そういう時に、どうやって依頼を通すか。どうやったら書評依頼を引き受けてくれるか。

そういう時にものを言うのが、学会なんです。
要するに、一緒に酒を飲むことが大事な部分もある、ということです。個人的に知己が深い人になら、依頼もしやすくなります。「たくろふ先生に頼まれたら、嫌とは言いにくいですなぁ」となれば、仕事がすごく楽になります。
そういう目で学会の懇親会をよく見ると、「根回しの交渉」があちこちで展開されています。学会というのは基本的に研究発表の場なんですが、そこで交わされる会話は、純粋に学問の中身に関わることばかりではありません。学会だって人が集って人が運営するものですから、働く原理はとても人間的なものです。日本人的な発想ですが、そういう時に酒が解決してくれることは、思いのほか大きいものだと思います。なんの知り合いでもない、全然知らない人に、いきなりビジネスライクに「学会からの依頼状」を一方的に送付しても、断られるに決まってます。

そういう場では、暗黙のルールとして、明確に「貸し借り」があります。無茶な依頼を引き受けてもらったら、いつかこっちが無理な依頼も引き受けてあげる。一流と言われる学者ほど、そういう「仁義」をきっちり通しています。
まぁ、一流の方であれば仕事能力も高いので、比較的容易に依頼を受けられる、という事情もあるとは思います。しかし僕は、それは能力だけの問題だとは思いません。なんと言うか、「なにかと大変でしょうから、お引き受けいたしますよ」のような、相手の立場を思いやる余裕のある人が多いです。

僕は極力、学会からの原稿依頼や、他の大学からの講演依頼は、断らないことにしています。最初はただ単に自分が認められた気がして嬉しかっただけですが、その頃に調子に乗っていろんな依頼を引き受けていたことが、今になってすごく効いています。「たくろふさんには以前お世話になりましたから、今度は私がお引き受けします」のような循環が、最近とても多くなりました。

最近、学会がらみで、とても難易度の高い依頼をしなければならない仕事がありました。どう考えても無茶で、よほどヒマな人でない限りとても引き受けてくれないだろう、という依頼でしたが、すんなり引き受けていただけました。
依頼した方は紛れもなく一流の研究者の方なんですが、よく研究会や学会で一緒になるたびに飲み明かしている仲です。学会での人付き合いなどは、その方から酒の席でいろんなことを教わりました。


一般の人にとっては「学会」なんて言うと、さぞ頭のいい人たちが頭のいい研究をしているんだろうな、と思うかもしれませんが、なんてことはない、そこで大事なことは一般社会と何ら変わりのないことだと思います。
他人との付き合いをないがしろにして一人で勝手に研究している人は、よほどの大天才でもないかぎり、大きな仕事はできないと思います。一介の凡人研究者の僕にとっては、まわりの人の力を借りながら,なんとか研究生活を送っている、そんな実感があります。



秋になって、これから学会シーズンなのです。