猛暑が続いてますね。
世間ではコンビニやスーパーで、アイスクリームボックスに入って写真をとりTwitterにアップロードして喜んでいるバカが増えているそうですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。

僕はといえば、そういうバカの真似をして家の冷蔵庫に入ろうとしたら嫁さんに殴られる、という普通の生活を送っております。
夏休み中にしかできないことを、のんびりとしておる毎日です。

ところで夏の甲子園が終わりましたな。前橋育英が初出場で初優勝。すごいね。
僕は別に野球部出身でもないし、特に高校野球に思い入れはないんですが、この時期になるとなんとなくテレビで甲子園を見ちゃいますね。書斎で仕事をしているときでも、ワンセグで甲子園の中継を流しながら仕事をしてます。
なんとなく、夏休み感があっていいんですよね。

世間では夏の猛暑、投手の投球制限をめぐって甲子園談義がもめてますな。
僕が子供の頃に比べて、7月8月は確実に暑くなっていると思います。当時は夏休みでも朝晩はわりとひんやりとしていたもんです。クーラーをかけてなくても、昼寝するときはタオルケットを腹にかけるようにしていたもんです。
でも昨今の夏の暑さは異常ですね。ほんの20~30年前は、「練習中に水なんて飲んではいかん。そんなことでは根性はつかん」的なことが普通に言われてました。今そんなことをしたら確実に誰か死にます。ま、大人の「常識」なんて、単なる主観と思い込みが多いんでしょう。

そんな猛暑の中、「甲子園でプレーする高校球児を守れ」的な議論を耳にすることが多くなった。
曰く、「甲子園でやる必要はあるのか・ドーム球場や夕方以降の試合でもいいのではないか」「連投するピッチャーの将来を考えているのか」「投球制限を設けるべきではないのか」云々。

愛媛、済美高校の安楽智大投手は、春の選抜大会で772球を投げた。2回戦では1試合で232球。常識を越える球数だ。今夏の甲子園でも連投を続け、3回戦では延長10回、183球を投げて敗れた。
こんな常識はずれの連投に、日本だけでなくアメリカからも批判の声が多い。


「日本の高校野球は狂気的」済美・安楽の敗退に安堵する米国人記者
準優勝を収めた今春のセンバツ大会、安楽は9日間で5試合に登板し、計772球を投げた。世間が新たな怪物の登場に湧く一方、高校生の“投げ過ぎ”を問題視する声が、日本のみならずアメリカ各地でも上がったことは記憶に新しい。

アメリカの野球界は、とにかく投手の球数にセンシティブだ。「投手の肩は消耗品」という考え方が広く浸透しており、若い投手の投球過多は将来の故障リスクを高めると考えられている。そのためアメリカでは、小学生のリトルリーグですら投手の投球数が管理されている。

米国最大のスポーツ専門ケーブル局『ESPN』のスタッフは今年5月、わざわざ愛媛まで足を運び、済美高校と安楽を取材した。日本独特の高校野球文化と球数に対する考え方をテーマに、特集番組を制作したのだ。特集では“Nagekomi(投げ込み)”や”Kaibutsu(怪物)”といった、日本野球特有の文化があることが紹介された。
米Yahoo!スポーツのジェフ・パッサン記者は、アメリカ野球界を代表する論客だ。13日に安楽が今大会初登板を終えた翌日には早速、「10代のスーパースター、狂気的な球数、国民的行事 夏の甲子園が帰ってきた」と題した記事で、日本の高校野球に警鐘を鳴らした。

「大人は子供の将来のために存在するのであり、才能を潰してはならない」。長年、野球選手の代理人を務めている団野村氏は以前、日本の高校野球は『児童虐待』だと話している。


当の安楽選手は、選抜大会後、このような周囲の反応を「大きなお世話だ」と言い切った。済美高校の上甲正典監督も「日本の高校野球に球数制限はそぐわない」と、球数制限の必要性を問う周囲の声を一蹴している。
はたして、夏の甲子園に投球制限は必要なのか。

僕がこの議論を読むたびに、物申している人達が暗黙のうちに前提にしている思い込みがふたつあるように感じている。
ひとつは、「甲子園で活躍する=プロに進む」という図式、もうひとつは、「選手すべてが同じ資質」という思い込みだ。

アメリカの新聞で甲子園批判をしている記事を読むと、その根拠として挙げている事実は、ほとんどが「日本人メジャーリーガーが高校生の頃は」という、プロ目線からの事実だ。たとえば

松坂はかつて甲子園で1試合250球投げて完投し、プロに入って以降も333球の“投げ込み”を行うなどしていた。一方のダルビッシュは、アメリカでの生活経験を持つ父により、高校時代から酷使され過ぎることのないよう管理されていた。その結果はご存知の通り(ダルビッシュはメジャー屈指の先発投手に成長し、松坂は相次ぐ故障の影響でマイナー暮らしが続いている)


つまり、アメリカを中心とするメディアの甲子園批判は、「そんなに肩を酷使していたら、プロになってから通用しなくなる」という言い方だ。
それと同様の論拠は、反対側の「投げ込み容認派」も同じことだ。例えば、楽天で連勝を続けて絶好調の田中将大。彼も甲子園で連投に継ぐ連投を行なったが、プロ入り後も異次元の活躍を見せている。一方で、田中と共に甲子園を湧かせた斎藤佑樹(日本ハム)が、現在故障に苦しみ2軍で燻っている。

つまり、甲子園の投球制限が話題になるたびに、必ず「プロ野球」という根拠が出てくる。僕は、これが議論をねじっている根源だと思う。
アメリカ・MLBの投球制限は、もとはといえばプロ野球選手を「労働者」と見立てた権利闘争に端を発している。プロ野球選手は球団に雇われている労働者だ。労働者たる選手の資本は自らの身体だ。だからその身体を酷使されるのは、資本の簒奪に他ならない。よって労働者の権利として、身体の消耗を防ぐ権利を要求する。
WBCで投球制限が設けられたのは、アメリカの選手達がMLBで「投球制限」という権利に慣れ切ってしまっているために、そんな権利よりも勝利を優先して戦ってくる他国選手を怖れたからだ。アメリカの常識を世界に押しつけ、自分達と同じ土俵に持ち込もうとする、要するにアメリカの自己中心的態度に過ぎない。ちなみにWBCの開催時は、大会開催の組織そのものがすべてMLBで固められていた。

投球制限という「権利」は、プロであるならば適切な論理だと思う。しかし高校野球はプロではない。長年に渡って自らの身体ひとつで稼いでいかなければいけないプロ野球は、3年間の期間制限のある甲子園とは違う。甲子園に出場している選手が全員、プロになれるわけでもないし、プロになりたいと思っているわけでもあるまい。中には、「野球は高校まで。だからせめて最後の甲子園では力の限り戦いたい」と思っている選手がいるかもしれない。そんな選手達に向って「プロになってから云々」という根拠に意味があるか。

また、基本的にリーグ戦のプロ野球と、トーナメント式の甲子園では、選手の起用方法に違いがある。WBCでアメリカがちっとも勝てないのは、彼らがトーナメントの戦い方を知らないからだ。自分達が押し付けた投球制限が、自分達の首を絞めている結果になっているのは周知の事実だ。
甲子園は負けたら終わりのトーナメントなので、どうしても優秀な選手に負担がかかりやすい。そのため、投球制限をかけたら戦いにくい、というのが各校の監督の正直な本音だろう。

甲子園投球制限にまつわるもうひとつの思い込みは、「選手ぜんぶが同じ資質をもっている」と、一律同様に選手を看做している点だ。
投球制限の賛成派も反対派も、どちらも「高校生」を十把一絡げにくくってしまっていないか。

僕は高校生という時期は、自分でも信じられないほど能力が伸びる可能性のある時期だと思う。甲子園の時期がちょうど急成長期にあたり、投げれば投げるほど早くなる選手だっているだろう。そういう「伸びのピーク」がたまたま甲子園の時期に命中した投手は、たとえ1日200球投げたとしても肩が保つかもしれない。
しかし、そんな選手は出場何百人の選手のなかで、ほんの2, 3人だろう。ほかの百人以上の投手は、ほとんどが100球を越えたら球威が落ちる、普通の高校生に過ぎない。

投球制限不要派の意見には、「昔は稲尾和久、杉浦忠、江夏豊のように、今の投手の倍以上の投球回数を投げて素晴らしい成績を上げた鉄腕投手がたくさんいた」のように、往年の大投手を引き合いに出す言い方がある。これも「甲子園の議論にプロが出てくる」という誤謬の枠内の駄論に過ぎないが、それ以外にも問題はある。「その時代、すべての投手が稲尾、杉浦、江夏だったのか」という論点だ。

これらの大投手がやたらに議論に出てくるのは、彼らの名前が記録にも記憶にも残っているからだ。しかし、当時から連投のし過ぎで肩を壊し、不本意ながら消えて行った名も知られぬ投手の数は限りなかっただろう。投球200球をものともしない選手で10年以上勤続した選手の数が、全選手中に占めるパーセンテージは、はたしてどれくらいだったというのだろう。
もし百歩譲って甲子園議論にプロ選手を引き合いにするにしても、出さなければならない論拠は「投げ過ぎても活躍した選手がいる」ではなく、「投げ過ぎて肩を壊した選手はいない」のほうだ。しかし、僕が見る限り、投球制限不要論でその手の根拠を出した論説は見たことが無い。

おそらく済美高校の安楽智大投手は、2, 3人のうちのひとりだったのだろう。彼が今後もずっと連投を続けられる鉄腕でいられる保証はない。たまたま成長期が甲子園活躍の時期にあたっただけ、と考えるほうが妥当ではあるまいか。
だから安楽投手ひとりを見て、「だから投球制限は必要ない」と安易に一般化することはできないと思う。特殊事例と多数派事例を混同し、少数事例のほうを一般化してしまう誤謬の影には、「できればこうであってほしい」という観察者の主観がつねに隠れている。まともな学校教育を受けた者であれば、そんな誤謬に陥ることはあるまいと思うのだ。


僕は個人的には、甲子園に投球制限は必要だと思っている。なにしろ、ここ数年の夏の暑さは尋常ではない。
もし甲子園球児が「最後まで投げたい」と本心から思っていたとしても、彼らは高揚感から冷静な判断ができない。身体的に限界を越えていても、それを認識することはできまい。本当に死ぬまで投げようとするだろう。
だからルールとして、体力の限界値を越えないようにある程度の制限を設ける必要はあると思う。

しかしトーナメント式の甲子園に投球制限をフィットさせ、さらに高校球児のやる気を削がないような投球制限は、ある程度の監督の裁量をはさむ余地が必要だと思う。たとえば「1試合◯◯球」というのではなく、「2試合の合計が200球を越えないこと」のように、勝負所によって起用の幅を持たせられるようにする必要はあるだろう。

「そもそも炎天下の甲子園でやる必要があるのか」という議論に関しては、その議論がメディアやWeb上にほとんど出てこないことがその答えになっていると思う。おそらくいろんな理由から、甲子園でなければならない、昼間でなければならない人達がいるのだろう。夜に甲子園をやったとしたら、夜の民放番組の視聴率はどうなるのだろうか。「日本の行事のほとんどの実施詳細は、商業的利益から逆算して決定される」というのは、良し悪しは別としてすでに常識ではあるまいか。

名古屋ドームや京セラドームで夏の大会をやったとしたら、全国各地から応援バス10数台で、1日8校、合計100台規模の観光バスを停めておく場所があるのだろうか。参加出場校全都道府県チーム分の宿泊施設は確保できるのか。


僕もそうだが、ほとんどの日本人にとって、夏の甲子園は「野球」というより「お祭り」なのだろう。岸和田のだんじり祭や諏訪の御柱祭でたまに死者が出るからといって、「ではだんじりの速度をもっとゆっくりすることにしよう」「だんじりの高さを半分にしよう」「御柱を安全な発砲スチロール制にすればいい」という議論にはならない。
夏の甲子園もそれと同じだ。「出場する人は、好きで出ている。出場中止を命令されたら切れる」「危険や消耗は百も承知。だからどうした」という、参加者の気持ちは何ら変わらない。
しかし、甲子園は自分のコントロールが十分にできない高校生のお祭りだ、ということを忘れてはなるまい。

出場する甲子園児はご苦労さんだが、彼らは夢の実現としてあの舞台に立っている。好きでやっているんだから、やりたいだけやらしてあげりゃいいじゃないかと思う。
おそらく投球制限は、誰かが死ぬまで導入されないだろう。そうなった時に、「あの時はこうだった」的な後ろ向きの論拠を振りかざし、取り返しのつかない事態に慌てふためく高野連が目に浮かぶ。



試合規定を決める人の世代が根性容認世代だろうし