ロシア語には、「音のない文字」というのがふたつある。


「Ъ」は「トヴョールドゥイ・ズナーク」という文字で、子音と母音を切り離すことを表すための記号。
「Ь」は「ミャーフキー・ズナーク」という文字で、子音とこの文字がセットになると、「いつもより舌を上げて発音しろ」という音になる。
つまり、「Ъ」は綴り字記号で、「Ь」は発音の補助記号にすぎない。

たとえば、比較的入門の段階で出て来る動詞「食べる」は、ロシア語でcъectьという。ここでトヴョールドゥイ・ズナークが使われているので、cとeは分離して発音しなくてはならない。だからこの単語は「ス・イェースチ」と発音する。
これをもし、トヴョールドゥイ・ズナークを無視してceをひとつの音として発音し、cectь(スェースチ)と発音してしまうと、これは「座る」という意味の動詞になってしまう。ъによって文字が分離されていないと、まったく別の単語になってしまう。


さて、いま日本では子供に「キラキラネーム」なる素っ頓狂な名前をつけるのが流行っているそうですね。
希星(きらら)、緑輝(さふぁいあ)、泡姫(ありえる)、希空(のあ)、星影夢(ぽえむ)、精飛愛(せぴあ)、などという、源氏名か戒名としか思えない名前がついている小学生が増えているのだとか。「泡姫」なんて、女の子の将来をとても示唆しているような気がします。
そういう名前をつける親に限って書類にふりがなを付けず、学校の先生が名前を呼び間違えると血相を変えて怒鳴り込んで来るのだそうです。今の小学校の先生は大変ですね。

子供にどういう名前をつけるか、にはいろいろな基準があるかと思う。僕は字画数の良し悪しの根拠がさっぱり分からないが、気にする人は気にするらしい。個人的には、画数なんかを気にするよりも、漢字の字源くらい調べたほうがいいと思う。「民子」なんて名前を見ると、親は本当に字の意味を調べたのかな、と思う。

現代は昔と違って海外との距離が近くなったので、外国人にも読める名前という視点も必要になってくるだろう。
「ゆうま」という名前はヒンドゥー語で「死神」という意味だし、「こうた」という名前はドイツ語の「糞便」の発音に似ている。中国語で「麻衣」というと喪服のことだし、「春歌」は性的な歌、「花子」はホームレス、「雛」は乞食、「公司」は会社の意味になる。「菜々子」という字からは白菜やキャベツをイメージするそうだ。
「なな」というのはフランス語で「忌々しい女」という意味になる。イタリア語で「いそのかつお」(io sono cazzo)は「私は男性器です」の意味になるし、「かがまりこ」はスペイン語で「オカマの排泄」という意味になる。
英語でも男の子の「ゆうだい」という名前は英語でYou Dieに聞こえるし、「しょう」というのは見せ物のshowに聞こえる。歴代首相の名前「竹下」をtake a shit、「麻生」をassholeという音に似せるジョークはよくお馴染みだ。

こういう危険性は、ロマンス系言語圏(フランス語、イタリア語、スペイン語)では、-iや-aは女性名詞が多く、-oや-uは男性名詞が多い、ということを知っておくだけでもかなり避けることができる。多くのヨーロッパ人にとって「あきら」は女性名に聞こえ、「◯◯子」は男性名に聞こえる。
大学でちょっとヨーロッパ言語を勉強したことがあれば、誰でも知ってる法則だと思うが、思いのほかその知識を活かしていない人が多い。

そこまで危険度は高くないが、外国で説明するときに少々面倒な名前がある。男性名の「ーんいち」という名前だ。「けんいち」「しんいち」など。後ろに「ろう」がつく場合もある。
これらを表記するとき、学術論文では「Ken-ichi」「Shin-ichi」など、間にハイフンを置くことが多い。そうしないと、nの音とiの音がいっしょになり、「けにち(Kenichi)」、「しにち(Shinichi)」と呼ばれてしまうからだ。
ところがパスポートにはハイフンが使えないので、そのままKenichi, Shinichiと書かれることになる。誤読される可能性はかなり高いだろう。
今後は子供の名前をつけるときに、漢字の画数などという根拠のない理由よりも、こういうことに気をつけるべきではあるまいか。


閑話休題。日本語にもしロシア語のトヴョールドゥイ・ズナークのように、「これらの音を分離して発音しなさい」のような記号があれば、Ken-ichiやShin-ichiのような煩わしさがなくなるのではあるまいか。キリルアルファベットをそのまま借りると、KenЪichi、ShinЪichiのような表記になる。

日本語には濁音記号や半濁音記号、促音(小さい「っ」)や拗音(小さい「ゃ」「ゅ」「ょ」)のように音に関する補助的な記述規則があるが、綴り字に関する記述規則はない。だから、思いのほか海外に出て外国人と接するときに面倒なことが起こる。
僕の名前も「ろう」という二重母音があるが、これを「ろー」と発音するのか「ろう」と明確に二重母音で発音するのか、記述と実際の発音が一致していない。僕のパスポートネーム表記は「Takuro」だが、日本語のひらがな表記と一致していない。

世界の言語をいろいろと勉強すると、日本語にはないルールのある言語がたくさんある。見慣れないルールは馴染むまでに時間がかかるが、冷静に考えてみるととても合理的にできているものがある。我々は日本語の音と表記に慣れているので「そういうものだ」と思っているが、よく考えてみると不便なことはたくさんある。そういう比較検討をしてみると、日常使い慣れている言語でも、ところどころ筋の通っていないところが見えてくるようになる。少なくとも外国人にとっては不思議に見えることもあるだろう。
そういう所に気付くかどうかは、ただ日常会話のためだけに外国語を勉強しているのか、知的好奇心に後押しされた興味の対象を広げる営みなのか、根本的な「学び」に対する姿勢の違いなのだろう。



ビルマ語の「りさ」とかスペイン語の「まりこ」とか。