The moonlight was so bright that we didn't need a flashlight.
「月明かりがとても美しい。懐中電灯を使うのは野暮というものだ」   


単純な英訳和訳としては誤訳だろうが、しょうがない、この文の出典となる小説の場面では、こう訳すしかない場面なのだ。
状況から切り離した文がいかに命を失うか、という例で、僕がよく使う例文だ。


閑話休題。今回の話は「月が綺麗ですね」と言われて赤面しないような女の子は女子力が全然足りない、という話ではなく。
上の英文に出て来た、所謂「so-that構文」、ちゃんと読めたでしょうか。

so-that構文。英語構文の横綱級の大物表現だろう。
誰もが学校で必ず習っている、定番中の定番。この表現が問われる定期テストを誰もが経験しているだろう。
構文としては簡単だ。so A that B の形で、「すげぇAだから、B」と訳す。僕はものぐさで暗記が嫌いだから、この構文の意味を「A→B」と覚えている。Aには形容詞や副詞、Bには文が入る。

論理接続の文章のなかではどちらかというと感性に属する表現ではないので、英語の論文や専門書に出てくる構文ではない。どちらかというと、日常表現や小説などの、やわらかい文体に使われる表現ではなかろうか。書き言葉で、会話ではあまり使われない。
僕がこの表現を最も目にするのは、Reader's Digestのコラム記事だ。日常的な小さなトピックに関するあるあるネタのような記事を読んでいるときに、よく出てくる。

初級文法,かつ簡単な割に、この表現、ちゃんと使える学生が少ない。
英文読解の読書会のときに、この表現が出てくると、例外なく学生の訳が止まる。すらすら読んでいた英文が「うっ」と一旦止まる。
英語読解力に自信のない学生は、端的に言うと語彙力に自信がない。だから、訳の分からない難単語にビクビクしながら英語を読む。そういう単語ばかりにビビり過ぎているから、soなどという「ザコっぽい」単語を飛ばして読んでしまう。かくして構文が取れず、誤訳する。
規範的な構文の形で使われたら読める学生も、倒置や省略などでちょっとひねられると、手も足も出ない。応用技に対処できないのは、基礎が身についていないからだ。


中学の頃から何回も教わっている構文なのに、なぜ学生はこの表現を読み解くのが下手なのか。
何度も何度も習っているのに、どうして一向に身についていないのか。


話は全然変わるが、僕の研究室の卒業生の中に、ひとり破天荒なのがいた。
大学1年の頃から海外研修や留学で外国を渡り歩き、僕のインターンのトレーニングも受けた。4年生になってからも、廻りの同期がみんな就職学生をしているのを知らん顔して、奨学金つきの留学プログラムに選抜され、アメリカに1年間行ってしまった。帰国してからは、高倍率の難関で知られる教員採用試験に楽勝で合格。来年春からの赴任が決まっている。

英語はもちろん相当できる学生だったが、勉強ばかりしている頭の固い奴ではなく、剣道でも剛の者として知られている。大学4年間を体育会の剣道部で通し、対抗戦では選手として活躍していた。
ふつうの大学生2, 3人分の充実っぷりだろう。

その学生と研究室で飲んだ時、剣道の強さのコツとして、面白い話を聞いたことがある。


「なんて言うんですかね、分かるんですよ、相手が何を打ってくるのか。面なのか胴なのか小手なのか突きなのか、打ってくる前に分かるんですよね。だいたいそういう奴は、最初に立ち会ったときに『勝てる』って分かります。見切れるわけですから。
で、どうして見切れるかというと、まぁ経験ってことになるんでしょうけど、その経験にもちゃんと形があると思うんですよ。だいたい『こういう時、俺だったらこうするだろうな』という手を打ってくる奴は、だいたい見切れます。自分ができる技は、見切れるんですよ。だからきれいに一本とられる時っていうのは、自分がまだ身につけていない型か、自分にはできない技を使ってくる奴ですね」

「よく武道って『いろんな技をいいかげんに覚えるよりも、ひとつの技を究極まで練り上げろ』って言うじゃないですか。あれ、半分本当で、半分間違ってると思うんです。俺、いまでも新しい型の攻め方を覚えるために練習しますけど、それって攻撃のためだけじゃないんです。攻める時のバリエーションはもちろん増えますけど、相手がその型で攻めてきたときに見切れるようになるんです。自分でその型を練習すると、分かるんですよね、その型の出しどころが。だから試合で負けた後は、ビデオ見て、一本取られたときの相手の型を覚えて練習しますよ」

「よく『経験値』っていう言葉がありますけれど、同じ型を丹念に練り上げるような練習は、『熟練度』は上がるけど、『経験値』は増えない、と思うんです。経験っていうのは要するに『いままで自分になかったものをどれだけ取り入れて来たか』ってことじゃないですか。同じことばかりやってるんだったら、そんなの経験でも何でもないですよ。攻めの練習をやってるときに、攻めのことしか考えてない奴は、たいした事ない奴だと思いますね」



こういう考え方ができる奴だからこそ、いろんなプログラムの倍率をものともせず突破し、軽々と道を拓くことができるのだろう。自分の目線だけで物事を考えるのではなく、相手側の視点で自分を冷静に見る「客観力」が備わっている。そりゃ教員採用試験だって独学で受かるわけだ。
なるほどねぇ、と僕が感心していたら、「いや、そういう物の考え方は、たくろふ先生に教わったんですよ」と苦笑していた。


「自分が使える技は、見切れる」というあたり、剣道に限らず、どんなことでも同じことではあるまいか。
英文読解で学生がso~that構文を見抜けないのは、学生がその構文を使えないからだと思う。英作文でその構文を自然に使って英文を書ける学生は、ほとんどいない。会話で使える学生となると全滅だろう。
自分で使えないから、その構文の「使いどころ」が分からない。構文のもつ「空気」が読めない。だから自分の知らない型に翻弄され、きれいに一本を取られて負ける。

「英文読解」と「英作文」を、違う能力だと思っている学生が多い。しかし実際のところ、そのふたつの能力は車の両輪のようなもので、どちらか一方しか鍛えていないと、歪んだ英語能力になる。
特に英語が書けない学生が多い。英作文ができない学生の共通点は明らかだ。まず、英語を読んでいない。英語に触れている絶対量が足りない。
仮に英文読解に時間をかけている学生がいても、大抵、「読解のための読解」をやっている。覚えた単語、表現、構文を、「使ってみよう」という意識がない。「英作文難民」の学生のほとんどは、読解と作文を頭の中で切り離し、別々の能力を身につけようとしているのだ。「今日は読解の勉強をしよう」「いまは英作文の勉強をしている」と、どちらか一方にしか意識が働いていない。攻めの練習をしているときに、攻めのことしか考えていない。

英文読解で新たな表現を覚えたら、それを使って実際に英文を書いてみればいいのだ。そのために書く英文はなんでもいい。英語を書くチャンスがあれば、何でも利用すればいい。読解の問題集の答えの和訳を見ながら逆に英訳し直したっていいし、英語で日記をつけてもいい。よく「英作文ができるようになるには、日記をつければいいんですか」と訊いてくる学生がいるが、知るかそんなこと。少なくとも、僕は英語で日記をつけたことなんて無い。書きたい英文、使ってみたい表現があるんだったら、日記でもBlogでもなんでも使えばいいだろう。しかし「最初に日記ありき」というのは、順序が違う。手段であって、目的ではない。

英会話の基本は「話してみたい」という欲求だ。英文読解の基本は「読んでみたい」という欲求だ。だったら英作文の基本が「書いてみたい」という欲求であることは、誰だって分かるだろう。知ってる英語を使ってみたい。覚えた構文を使ってみたい。そういう根源的な「欲求」の裏付けがなく、義務感だけで英作文を勉強して、できるようになるわけがない。「英作文のテキストか何かを使って、機械的に翻訳し、添削してもらいさえすれば、いつか英語が書けるようになる」と思い込んでいる、人頼りの「優等生」が多過ぎる。僕が一番嫌いな類いの学生だ。そういう学生の英作文は、「書きたい」「書けるようになりたい」というギラついた意欲がない。悲壮な義務感だけが溢れてる。だから添削していて面白くない。うんざりする。

英作文の訓練のために割く時間の大部分は、英文を読んで覚えた表現を、実際に使ってみるチャレンジに充てるべきなのだ。英作文のテキストなどというものは、そういう努力の積み重ねを土台として、埋まっていない穴を体系的にふさぐ、落ち穂拾い的な段階になってから使うものだ。意欲満々ではあるが歪なままの能力の、形をきれいに刈り込む「仕上げ」に使うものだ。だから、英作文のテキストを読んで新しい知識を仕入れているようでは、努力量が絶対的に足りない。普段、英語を書くチャレンジを続けている中でいつも感じる「ああ、いつもここ分からないんだよな」「この表現、いつも書くときに迷うんだよな」という経験に対し、「あるある」の感覚で足りないものを埋めていく。それが英作文のテキストの使い方だ。

僕のゼミナールでは、その「英語を実際に書いてみる」ためのチャレンジの場として、「論文執筆」というチャンスを与えている。英語の論文を読め。卒論を英語で書け。そのふたつの課題が、「攻撃」と「防御」が完全一体となった、同じ種類の努力としてひとつになっている学生が、どれほどいるだろうか。何人かの学生が英語で期末論文を書いてきたが、替わり映えのしない英語に終始している。どうせ、和英辞典を使って組み立てパズルのような作文をしているのだろう。せっかくたくさんの論文を読むチャンスを与えたのに、そこから書き方も、表現も、語彙も、何も盗んでいない。1年前のその学生が書く英文と比べて、何も進化してない。


僕は、ゼミの学生に「英文の読解力を上げるにはどうすればいいんですか」「英作文ができるようになるためにはどうすればいいんですか」と訊かれるたびに、「論文を、読んで書いてみな」とだけ答えている。条件は揃えてあげている。環境も整えてある。課題も出した。あとは、学生自身がそのチャンスを活かすかどうかだろう。
「もうちょっとちゃんと丁寧に説明してくれないと分からないですよー」などと泣き言を言う学生は、どうせちゃんと説明してあげても、やらない。何よりも、僕にそんな質問をしてくることなく、自分で考え、自力でその方法を編み出して、きちんと結果を出している卒業生が、実際にいる。



覚えるためだけの勉強ほど、つまらないものはないと思うのだが。