日本テレビの24時間テレビ、『愛は地球を救う』。
今年は徳光和夫さんがチャリティーランナーだったそうで、熱中症や急性心筋梗塞などで倒れることもなく、無事だったそうでよかったですね。
サッカー元日本代表の松田選手の事故もあったことですし、番組スタッフもかなり気を揉んだことでしょう。

この番組、やたらにアンチな意見が多いことでも有名ですね。
曰く、「障碍者を見せ物にするな」「なぜマラソンなんかやるんだ」「チャリティーなのにスポンサーから広告費が出て出演者が出演料もらってるのはどういうことだ、その分も募金しろ」など、大雑把に言うと「偽善」という批判が多いそうです。

僕は、やらない善よりもやる偽善のほうがまだましだと思うし、出演料が出ていることについてもそれほど批判的な意見はもっていません。お金についてとやかく言う人は、それ以外の方法で人を動員できる方法を提示すべきでしょう。
あれだけ大掛かりなイベントであれば、どのみち組織運営のためのお金は必要です。そのすべてを全否定してしまっては、できるものもできなくなります。運営費や出演料に関して過度な批判をする人は、現実を把握できずに机上の空論を振り回す、無邪気な理想論者でしょう。世の中、理想だけでは廻りません。

タレントの伊集院光さんは、違った角度からこの番組を評していましたね。
深夜のラジオ放送で曰く、「あの番組はもう止めるわけにはいかなくなっているんじゃないか」という見方です。毎年、夏の終わりのイベントとして定着し、知名度もある。なによりも、しっかりと視聴率を取るという結果を毎年出している。ここまで巨大化した番組を、ある年突然「今年はやりません」というわけにはいかない。引っ込みがつかなくなっているのではないか、とのこと。

マスコミが開催するイベントである以上、人の目に映り話題にならなければ話になりません。人知れずひっそりとやっても意味がないわけです。ふだん我々の目につかない世界で、障碍や災害に苦しんでいる人がいる、ということを啓蒙するだけでも、テレビ局が打ち出すイベントとしては意味があるわけです。
その点を評して伊集院光さんは「チャリティーや福祉を目的に謳うんだったら、視聴率が低下しようと人気がなくなろうと、絶対中止するなよ」という見方を示していました。


こうした世間一般の見方とはちょっと違った理由で、僕はこの番組が感心できません。


僕がこの番組を胡散臭いな、と思うのは、「救う対象」が極めて曖昧な点だ。
「愛は地球を救う」と言っているが、具体的に地球の何を救おうとしているのだろう。

ふつうの意味でこの番組タイトルを読めば、環境問題の悪化に対応すべく、地球環境の保全に努める番組だと思う。地球温暖化、資源枯渇、CO2削減、原子力問題、オゾン層保全、大気汚染、水質汚濁、工業公害、水害、地震、津波など、地球をとりまく環境を健全に保つことが「地球を救う」ということだと思う。
環境問題だけでなく、必要とあらば、貧困で苦しんでいる発展途上国や、圧政が民主化を妨げている独裁主義国や、いまだ紛争が絶えない情勢不安定な地域に対して、どのような政治的方策を講じる必要があるか、政治的側面からのアプローチだって必要となるだろう。

しかし、この番組を見てみると、要するに話題の主題は身体障碍者だ。これでは、「愛は障碍者を救う」ではないか。この番組内容をもって「地球を救う」とは、大風呂敷が過ぎないか。
今年は東日本大震災があったので、東北の復興支援という色彩が強かった。それとて、「愛は日本を救う」程度のものであって、とても地球規模のものとは言い難い。

要するに、掲げた看板と内容が一致していないのだ。「地球を救う」という以上は、本気で「地球」を救う努力をするべきだろう。そのためには、日本だけではなく、身障者だけではなく、今の地球で早急に解決しなければならない問題点をまず詳細に分析するところから始めるべきではないか。

日本テレビが近年の24時間テレビでやたらに「日本国内限定」「身障者限定」にフォーカスを絞っているのは、映像として絵になりやすいからだと思う。障碍者は、映像として具体的に不幸が視聴者に分かりやすい。「この人たちは、こんなに不幸なんですよ」というアピールがしやすい。それに対する具体的な支援も、お金で行えるものが多い。

さらには、「簡単に感動に結びつけられる」という番組構成上の利点があるのだと思う。最近どうも24時間テレビは、視聴者をやたらに「感動」に誘導しようと躍起になってはいないか。実際問題として身体障碍者に対する必要な支援があり、それを番組で行うことが可能であるとしても、それを「感動」という商品に結びつける必要性はまったくない。

「『地球』を救う」などと大風呂敷を拡げておいて実際のところ対象は日本の障碍者だけ、ということ自体は、悪いことではない。大きなテーマに挑むときは、具体的な突破口として焦点を狭く絞るのが基本だ。マザーテレサだって「地球を救うために必要なことは何ですか」という問いに対し、「家に帰り、家族を大切にしてください」と答えている。
しかし、それを毎年毎年繰り返すのはいかがなものか。ある年に障碍者に焦点を当てるのはいいとしても、地球を救うために必要なのは、身障者支援だけではないのだ。

身障者支援を良しとしても、まだ問題がある。この24時間テレビが「障碍者のための番組」ではなく「健常者が感動を感じられるような番組」になるように構成されていることだ。僕の目には、障碍者を利用して、健常者が感動を感じるための番組になっているように見える。

身体障碍者と健常者は、生きる条件がそもそも違う。過酷な環境で必死に生きている障碍者も多いだろう。そういう障碍者が、年に一度とはいえ他の障碍者が頑張っている映像を見て、生きる勇気を得られるのであれば、この番組にも存在意義はあると思う。
しかし、僕は障碍者目線でこの番組を見ると想像したとき、「果たしてそうだろうか」と懐疑的に捉えている。この番組を見た障碍者は、どういう受け取り方をしているのだろう。自身が障碍者の乙武洋匡さんはTwitter上で「『24時間テレビ』、僕も好きな類の番組ではありません」と語っている。


障碍者支援に特化するならそれも良しとしよう。慈善事業はもともと偽善と誹られる危険性と隣り合わせだ。それを恐れていては何も出来ない。こういう企画と番組を行うこと自体は一定の意義があるのだろう。
しかしそれらの意義を払拭するほど、番組の構成に難がありすぎると思う。現在の24時間テレビはあまりにもワッショイワッショイのイベント臭が漂い過ぎていないか。身障者支援にテーマを絞っているのは、それが「地球を救う」近道だからなのではなく、制作者側の単なる手抜きではないか。例年の番組構成をマニュアルとして固定化し、既定路線化して毎年ラクをしているだけの気がしてならない。身障者なら身障者で、坦々と身障者を取り巻く環境を紹介し、自分にもでき得ることをもっと静かに顧みる番組にしてもいいのではないか。



コーナーが終わってから余韻もへったくれもなく次のお祭り騒ぎ。