ロサンゼルスの街には、ピアノの調律師が何人いるだろうか。




フェルミ

エンリコ・フェルミ(1901–1954) 



どうしても「マンハッタン計画」の中枢人物として、原子爆弾製造に関わる政治的な側面が強調される科学者だろう。
大学で、学生に科学者の話をするときに、非常に話し方が難しい人物だ。

第二次世界大戦中、ユダヤ人物理学者レオ・シラードがアメリカに亡命した。
彼はナチス・ドイツが原爆を開発する危険性を危惧し、同じユダヤ人物理学者のアインシュタインの協力を得て、ルーズベルト大統領に書簡で警告を送った。
その危険性に腰を抜かしたアメリカ政府は、すぐさまアメリカ中からトップレベルの物理学者を招集し、極秘に原爆開発と核兵器対策の研究を命じた。これが「マンハッタン計画」だ。

物理学者のロバート・オッペンハイマーをプロジェクトリーダーとして、ニールス・ボーア、ジョン・フォン・ノイマン、オットー・フリッシュ、エミリオ・セグレ、ハンス・ベーテ、エドワード・テラー、スタニスワフ・ウラムなど錚々たる顔ぶれが集められた。
若き日のリチャード・ファインマンも招集されている。

エンリコ・フェルミは1938年、放射性元素の発見でノーベル賞を受賞している。つまりもともと核物質に関する専門家で、マンハッタン計画の中枢を担う役割を果たした。
しかしフェルミ自身は倫理的な観点から、原爆および水爆の使用には反対だった。自分が原爆開発に関わった事実に、生涯苦しむことになった。

フェルミ自身はイタリア人だったが、妻のラウラはユダヤ人だったため、ムッソリーニ政権下のイタリアで迫害された。ノーベル賞受賞式典のためストックホルムに赴き、その足でアメリカに亡命している。
そういう経歴から、科学研究が政治的圧力に迫害される危険性に、人一倍敏感だったのだろう。

僕は大学に就職したとき、「科学研究上のモラル」を学生に話すため、マンハッタン計画に関する本を読み漁った。
計画に関わった科学者の業績のうち、物理学上の業績など僕にはよく分からない。専門的な話を抜きにしても、このエンリコ・フェルミだけはひときわ興味を引く科学者だった。

なんというか、「理論力」と「実践力」を兼ね備えている科学者なのだ。
計算をこねくりまわし机上の空論に終始するつまらない理論家でもなく、理論体系を軽視して結果のみを重視するリアリストでもない。その両方のバランスがよくとれている物理学者だ。

その能力がよくわかるエピソードがある。
原爆実験の際、その爆風の規模とエネルギーを直接測定するだけの技術は、当時まだ開発されていなかった。フェルミは原爆爆発のときに遠隔地でティッシュペーパーを落とし、その動きと爆心地からの距離を計算し、おおよその爆発のエネルギーを見積もったという。
何の手がかりもないように見える問題に対して、そのおおよその値を計算する「概算」の達人だったと言われている。

この概算力は、現在、彼の名前をとって「フェルミ推定力」と称されている。
経営コンサルタント、プログラム開発、証券会社など、限られた情報から大きな全体像を予測して検証する必要がある業種では、現在、就職試験の面接などでこの推定力をはかることがある。


「利根川河口に1分間に流れ込む水の総体積は」
「地球が太陽のまわりを廻っている速度は」
「琵琶湖に富士山を逆さまに沈めるとき、どちらのほうが大きいか」
「日本全国に砂場はいくつあるか」


これらの問題を解けない大学生は、「そんなの学校で習ってない」と文句を言うのだろうか。


エンリコ・フェルミはこの手の概算が得意だったらしい。限られた情報をもとに推論を重ね、おおよその数値をはじきだす。
たとえ数値が不正確だったとしても、その誤差は情報の精度を高めることによっていかようにも修正できる。

フェルミの出した古典的な問題は、「ロサンゼルスにピアノの調律師は何人いるか」という問題だった。
10人か、百人か、千人か、1万人以上か。見当がつくだろうか。

この問題を解くために必要なのは、どういう情報だろうか。
フェルミはこの問題の推論過程に必要な情報として、以下を挙げている。

(1) ロサンゼルスの総人口
(2) 一人当たりのピアノ保有の割合
(3) ピアノ1台あたりの年間調律回数
(4) ピアノ1台の調律にかかる時間
(5) ピアノ調律師ひとりの年間労働時間

(1)に関して。アメリカの人口がだいたい3億人なので、ロサンゼルスの人口は1億人よりもずっと少ないだろう。100万人だと少な過ぎる。だから間をとって、とりあえず1000万人と推定しておく。

(2)に関して。ピアノの所有者は、個人、教会、学校など。10人に一人の人間がピアノを弾けると想定してみる。その人たち全員がピアノを保有しているわけではないだろうから、そのうち2-3%がピアノを所有している、と想定する。
教会はおよそ1000人に一軒、学校は生徒500人に1校、と考える。それらの諸条件を計算すると、ロサンゼルスのピアノ総台数はおおよそ4万台と推定できる。

(3) ピアノの調律は、だいたい1年に1回くらいだろう。

(4) ピアノ1台の調律時間はどのくらいか。鍵盤のキーが88個なので、キーひとつあたり2分かかるとしたら、1台ぜんぶの調律はだいたい3時間以内に収まるだろう。キーの使用頻度によっては調律に幅があるだろうから、おおまかに2時間くらいと推定できる。

(5) フルタイムの労働時間は法律で8時間と制定されている。週に5日間、一年を50週とすると、一年間の労働時間は2000時間と推定できる。一年間でおよそ1000台のピアノを調律できることになる。


これらの諸条件を合わせると、ピアノ4万台には、40人ほどのピアノ調律師が必要、ということになる。
答え合わせのためにロサンゼルスの電話帳を見てみると、「ピアノ調律、修理、塗装」の見出しには16件が載っている。ひとつの会社に2, 3人の調律師がいるとして、約30-50人。
なかなか悪くない推定だ。

数値の精確さが問題なのではない。何の前触れもなく、いきなり調律師の数を聞かれたら、100人なのか、千人なのか、1万人なのか、まず桁が分からない。
しかし、ある程度の諸条件を見切って、それをもとに推測を重ねると、恥ずかしいほど見当違いな答えにはならない。調査によってデータを調べれば、推定値はより正確になるだろう。

しかし、そもそも推定のしかたが分からなければ、データを集めても意味がない。
それと同じで、「知識」というものは、その使い方が分からなければ、いくら脳に記憶しても「知恵」には結びつかないものなのだ。

自分の住んでいる市町村の人口を知っているだろうか。
今回の大震災で、計画停電や水道などのライフラインに関する、いろんな噂が流れた。状況が把握できずにパニックになった人もいただろう。
僕の住んでいる横浜市は、人口約360万人。この数値を知っているだけで、ライフラインに関する政策を推測をする際に、強力な武器になる。

僕は今回、震災にまつわる状況把握が必要なたびごとに、意図的にこのフェルミ推定を行った。
計画停電の実施範囲や頻度、放射能漏れの拡散距離、スーパーの品薄状態が解消されるまでの期間、公共交通の遅れや停止状況など、事実が分からないときに、自分の頭で状況を推定する。
その材料となる数値や知識を求める目で、常に世の中を見ていると、ただの数字が意味をもつように見えてくるものだ。

知識というものは、そうやって増やしていくものだと思う。僕は今回の震災ではじめて、横浜市だけでなく、隣の川崎市や、東京23区のうち神奈川に隣接している区の人口の、おおよその数を知った。
その数だけを単なる知識として「暗記」しようとしても覚えられっこないが、計画停電や鉄道の運行状況を見切るために必要な武器として使うと、簡単に覚えられる。


エンリコ・フェルミという科学者について話をするとき、やっぱりマンハッタン計画にまつわる、科学者としてのモラルについて話さざるを得ない。大学で学ぶ者として、いちばん基本的な倫理観を説くのは何よりも必要なことだろう。
比較の対象が対象なので不謹慎に聞こえてしまうが、フェルミという科学者の本当の「面白さ」は、そこではない。僕がフェルミについて学生に話をするときに、身につけてもらいたい能力は、むしろ、一粒の砂から海岸の存在を予測するような「科学的想像力」のほうである気がする。



寺田寅彦が言っているのも基本的には同じこと