AKB48・板野友美ソロCD劇場版の特典が凄いですね。


要するに、
・ホリプロ所属メンとの個別握手券
・メンバー1名とのツーショット撮影
・1時間の本格ライブイベント
・サインとツーショットの抽選プレゼント
ってわけですよね。板野友美ちゃんのCDの特典なのに、AKB48の他のメンバーと握手できる権利がもらえるってのも商魂逞しいですね。

この「特典」の特徴は、「金額に換算できない」ということだろう。
景品表示法(正確には「不当景品類及び不当表示防止法」)には「20%ルール」というのがある。「商品についている景品は、原価の20%を超えてはならない」というルールだ。
だから、チューインガムの景品に車がついてくる、ということはない。

板野友美のCD劇場版の原価は1000円。ところが、それについてくる「特典」は、金額に換算しにくい「権利」だ。
そこのところ、AKB商法も公正取引委員会の目が光っていることを十分に意識しているのだろう。

CDを買うだけで、なんでこんなに特典がついてくるのか。
単純に、そうでもしなければCDが売れないからだろう。板野友美ちゃんは可愛いし、多大に僕の好みでもあるのだが、ソロCDの楽曲を聞いた限りそれほど歌は上手くない
少なくとも僕にとっては、あのCDに1000円を払う価値は無い。

音楽がネット経由でダウンロード購入できる昨今、CD業界は大変なのだそうだ。渋谷センター街のHMVが潰れるくらいだから、CDの売り上げは相当に減っているのだろう。今では「ミリオンセラー」など、夢のまた夢なのかもしれない。
実際、僕も街を流れている曲で気に入った曲は、iTuneでダウンロードして購入する。150円から200円でダウンロードできるから、CDレンタル店で借りるよりも安い。なにより簡単だ。出歩かなくても部屋の中で買える。

しかしそんな御時世でも、たまにCDを買うことがある。
どういう時にCDを買うか、というと、「形として持っておきたい音楽に接したとき」だ。ダウンロードできる音楽は、いわば形のない「情報」に過ぎない。コンピューターがクラッシュすれば、ネットワークに異常があれば、あっという間にその存在が消えてしまう。存在として、確かなものとは言えない。

そういう泡沫の情報ではなく、いつまでも形として保持していたい音楽がたまにある。端的に言うと、「いい曲」だ。
大の大人が身銭を切るのだ。「本物」しか買わない。
僕は、本当に魂に届いた音楽には、たとえ3000円だろうが5000円だろうが買う。その1曲が収録されているというだけの理由で買ったアルバムもたくさんある。
ものの価値というのは、そのように決まるものではあるまいか。

だから、板野友美ちゃんもAKB48も、CDを売りたければいい曲を出せばいいと思う。「この声は形として持っていたい」と思わせるほど、歌が上手になればいい。
CDについてくる「特典」というのは、要するに自信の無さの表れだろう。CDというのは音楽の媒体であり、その価値の根源は、なんといっても楽曲の良し悪しにある。その根源に自信がないから、付加的に価値を後付けしていかないと金額分の価値に見合わない、売り上げが伸びない、と制作者側も思っているのだろう。
いい曲を、上手な歌い手が歌えば、公正取引委員会にビクビクした姑息な手を使わなくても、堂々と売れると思う。

「AKB商法」と揶揄される、特典で釣って金をできるだけ巻き上げようという売り方は、要するに全部「価値の付加」だろう。商品そのものの価値だけでは、市場で生き残る競争力がない。だから別に価値をつくりだし、それを売り上げの原動力にする。
男というものは、そういう「付加価値」に踊らされやすいものなのだろう。ビックリマンチョコの時代から、何も変わっていない。


そういうAKB商法を見るたびに「現代の茶道だな」と感じる。


茶道といえば、日本古来からの文化。
日本の心。日本の作法。
では、茶道を茶道たらしめた原因は何だろうか。

戦国時代、ある時を境に、戦国武将はみな茶道に魅了された。
茶道を家臣に奨励し、豪華な茶会を催し、高名な茶人を擁した。
茶道を大成させた千利休も、こうした時代の庇護を受けていたことは常識に属することだろう。
では、そもそもなぜ戦国武将は茶道を愛好したのか。

大学で学生にそれを問うと、みな「殺伐とした戦国時代で、なにか心の平穏が欲しかったから」などという寝ぼけた答えをする学生がほとんどだ。
何が「心の平穏」か。そんな答えをする時点で、茶道が何なのか分かっていない。茶道が「心が落ち着くもの」とでも思っているのだろうか。
日本人なのに、茶道など知らない学生のほうが大勢を占めているのが実際だ。

戦国武将は、他国を攻めて勢力を拡張するたびに、手柄のあった家臣に褒美として領地を与えた。当時は貨幣経済が現代ほど発達しておらず、褒美は基本的に土地と米の収穫高で換算する。
ところが、戦国の世のこと、「他国から攻められる」という場合もある。その場合、首尾よく相手を追い払ったとしても、手柄があった家臣に与えられる褒美がない。戦争が激化していく度ごとに、手柄の数と与えられる領地の比率に、無理が生じるようになった。

ひとりの天才が、その解決案を思いついた。織田信長。
与える領地がないのなら、家臣が満足するような価値をつくりだしてしまえばよい。

そこで信長は茶道に目を付けた。茶道は当時すでに形になりつつあり、有名な茶器は十分に芸術的な価値があった。茶会を開催することは、領地の一体感を高め為政者の権威を向上させる役割があった。
信長はその「価値の形成」を押し進め、茶道を保護した。その結果、有名な茶器が領地を凌ぐほどの価値を持つまでになった。
有名なところでは、滝川一益は褒美として上野の領地と関東管領の地位よりも、「珠光小茄子」という名茶器を所望した。関東管領といえば、上杉謙信が賜ったときに感涙に咽んだと言われる名誉の職だ。それよりも、泥をこねて作った茶碗のほうが価値をもつようになる。家臣は、領地よりも、天下の名器や茶会の開催権を所望するようになった。

信長の凄かったところは、ありもしない価値を作り出しただけでなく、その作り出した価値が後の世において、独立した価値として十分に発達していくことを見抜いていたことだろう。
別に茶道でなくてもよかったのだと思う。同じ目的に即しているのであれば、建築でも絵画でも彫刻でも何でもよかっただろう。その中から信長が「茶道」を選択したのは、茶道の中に、付加価値などではないそれ本体の価値が十分に発達していく伸びしろを見出していたからではないか。

その信長の見識の正しさは、茶道の歴史が証明している。千利休によって大成され、江戸時代を通して「茶道」はゆっくりとその文化を熟成させていった。明治期には岡倉天心の功績により海外に広く「日本文化の象徴」として知られるようになった。
ちなみに、岡倉天心は美術家、哲学者であって、茶人ではない。日本の美意識や世界観をしっかり学べば、茶道がその多くを反映していることは自明だったのだろう。


で、AKB48の「特典」ですが。
要するに「ありもしない価値を生み出し、写真集やCDにかぶせて価値の上乗せをしている」という点では、やっていることは同じだろう。
AKB48に価値を見出す人の基本原理は、要するに「若くてかわいい女の子に会いたい」というものだろう。握手会だって特典コンサートだって、実際にその子に会える、という希望を形にしたものだ。
いい年をした男が、若い女の子を欲するのは自然の摂理だし、その価値観が歪んだものだとは思わない。

しかし、ものの価値というのは「本物」と「作られたもの」があると思う。
茶道のように、最初は作り物の価値だったものが、本物に昇華することもある。茶道の場合は、それ自体が体系として完成し、独自の価値をもつに至った。だから戦争のない江戸時代になって「褒美としての価値」としての役割を終えても、茶道は発展し続けた。
はたして、AKB48の特典に大金を注ぎ込む人たちは、あと30年後に同じ価値観でお金を使うことができるのだろうか。死ぬ前に、自分はひとつの価値に殉じたという誇りを持てるだろうか。いつか、魔法が解けるときは来るのだろうか。

価値観は人それぞれなので、良いも悪いもない。自分が価値を認めるものに、お金を使えばいい。
そのような、人の手によってつくられた「ありもしない価値」に熱中するのは、一般的に「頭が悪いこと」とされているような気がする。
しかし、日本というのは、もともとそういう国だったのではないか。山ばかりの島国で、天然資源も乏しく、農耕地にできる土地も限られている。他国に比べて生存競争において圧倒的なハンデを負った日本人は、「価値がなければ、つくりだす」という方法を編み出し、その能力を鍛えてきたのではないか。茶道にしろAKB48にしろ、そのような「作り出された価値」の体現に他ならない。日本は、そういう方法を1000年以上発達させてきた国なのだ。


えーと、以上、話をまとめますと、



板野友美ちゃんとお茶が飲みたい



というのが結論です。



もちろん和服を着てもらって茶会的な雰囲気で