沢村栄治




沢村栄治(1917-1944)


戦前、戦時中の日本が誇る「大投手」。
その豪腕と人気で、黎明期の日本プロ野球界に多大な貢献をした。
中日や大洋の監督を務めた近藤貞雄氏は「戦前戦後を通じて右投手のナンバーワン」と断言し、故・青田昇氏はことあるごとに「世界最高のピッチャー」と力説していた。

1934年、大日本東京野球倶楽部(現・読売ジャイアンツ)の結成に参加。プロ野球リーグ開始の1936年秋、初のノーヒットノーラン達成。同年の優勝決定戦に3連投し、巨人に初の優勝をもたらした。1937年春シーズンには、24勝をあげてプロ野球初のMVPに選出された。同1937年秋シーズンには9勝しているため、1937年だけで計33勝している。また、キャリアを通じて3度のノーヒット・ノーランを達成している。

戦死後、巨人は澤村の功績をたたえて背番号14番を日本プロ野球史上初の永久欠番に指定した。後世、その年にもっとも活躍した先発型投手には彼の名を冠した「沢村賞」が贈られる。

「沢村伝説」のクライマックスは、1934年に行われた日米対抗野球での快投だろう。沢村はこのときの日本代表に選ばれている。11月20日に静岡県草薙球場で開かれたアメリカメジャーリーグ選抜軍との対戦では、米大リーグの強打者をことごとく三振に仕留め、日本の野球ファンを熱狂させた。


しかし、この沢村栄治、世間で評価されているほどすごい投手なのだろうか。


通算勝利数だけ見てみると
1936年 14勝
1937年 33勝
(1938-1939年 徴兵)
1940年 7勝
1941年 9勝
(1942年 徴兵)
1943年 0勝
通算成績 63勝22敗

たいして凄い成績ではない。生涯成績で60勝そこそこのピッチャーなど、現在でも山ほどいるだろう。戦時中という不幸な時代であったとはいえ、後世に「史上最強のピッチャー」と騒がれるほどの成績には見えない。

沢村伝説の根拠となっている日米対抗野球だけを見ても、沢村は大した成績を残していない。
このときの日本代表は、18戦して全敗だった。ただの一勝もあげていない。
沢村はそのうち、5戦、10戦、16戦、18戦に登板している。そのスコアは

第5戦 0-10
第10戦 0-1
第16戦 1-14
第18戦 5-14

つまり、「伝説の第10戦」を除けば、沢村栄治はめった打ちに遭っている。詳しい投球回数は不明だが、0勝4敗、防御率はおそらく10点台だろう。メジャーリーガーとの実力差はまさしく大人と子ども。「世界最高のピッチャー」が聞いて呆れる。

その第10戦も、実力かどうかは疑わしい。故・久保田二郎氏は、著書『手のうちはいつもフルハウス』のなかで、当時のメジャーリーガーの回顧を引いている。


「俺たちはあのとき、毎日の歓迎攻めと試合の連続で、すっかり飽き飽きしてた。そこでこの試合もとっとと終わらせようということで、みんなバッターボックスに突っ立ってはサワムラの球をわざと空振りしてたんだ。で、7回の裏にもういいだろうということで、生真面目なルー・ゲーリックが一発ホームランを放り込んで1点さ。まぁ、試合は勝っておかないとね」


負け惜しみという可能性ももちろんある。しかし、他の試合結果がその可能性を否定している。
しかし「伝説」によれば、沢村は「160キロは出ていた」「メジャーリーガーを驚嘆させた」など、話が大きくなりすぎているような気がする。しまいには名前を冠した賞まで制定される騒ぎだ。

日本プロ野球の中で、沢村栄治は「批判が許されない」という風潮がありはしないか。
400勝投手・金田正一は、現役最末期に当時解説者をしていた青田昇のもとを訪ね「青さん。ワシと沢村栄治さんと球どっち速かった?」と尋ねた。青田はその時は「アホ! 沢村さんに決まっとるやないか! お前と比べれるかい!」と一喝したという。

金田正一はあまりに球が速すぎるため、相手チームが「マウンドからホームベースまでの距離が近いのではないか」と物言いをつけ、審判に距離を計測させるほどだった。150キロ後半から160台は出ていたと推測されている。その金田でさえ、沢村との比較はタブー視されるほどだった。

現在の日本の野球にも根強く残っている「真っ向勝負は直球勝負」という「美学」は、沢村栄治の「わしは、まっつぐが好きや」という言葉が基になっている。
変化球はなんとなく卑怯、逃げの投球。直球こそが力の投球。そんな根拠のないイメージは、「沢村=豪腕」という当時の沢村像が作り上げた虚像に過ぎない。

このヒステリックなまでの「沢村栄治最強投手伝説」は、どういうことなのか。
おそらく、ヒーローを必要とする時代の要請ではなかったか。当時の日本は、一言でいうと「欧米コンプレックス」の塊であったと言ってよい。そんな歪んだ劣等感の中で、人々は「鬼畜米英をやっつけるヒーロー」を欲しがるようになる。沢村栄治は、そんな時代で投げていたのではなかったか。

全盛期の沢村は1937年に33勝という勝ち星を挙げている。しかし、この相手はどういうチームだったのか。
当時、読売ジャイアンツの前身である大日本東京野球倶楽部は、日米対抗野球の際の日本代表チームを母体として誕生した、国内唯一のプロチームだった。つまり、当時の日本代表チームと比べても遜色ない戦力を誇っていた。この強力メンバーの打線の援護を受けていれば、勝って当たり前だ。33勝はむしろ少ない。相手チームの戦力も、大日本東京野球倶楽部と互角だとは到底思えない。

日米対抗野球にしても、緒戦で0-17という完膚なきまでの完敗でボコボコにされ、連日10点以上の失点を積み重ねる。その中では当然、日本の野球ファンとしては「誰かアイツらをやっつけてくれんか」という鬱屈した気分にもなるだろう。
そこに颯爽と登場したのが、まだ10代の沢村栄治だった。夕闇迫る草薙球場で、沈む夕日をバックに直球をビシバシ決め、負けはしたものの0-1という接戦を演じた。インパクトとしては抜群だ。絵になる。これでヒーローにならないほうが不自然だ。

不幸な時代で、沢村は2度徴兵されている。ボールの3倍の重さの手榴弾を投げさせられ、戦場でマラリアに冒され、相当に健康を侵されていたようだ。現役晩年にはマウンド上で倒れることもあった。
しかも3度めの徴兵に遭い、27歳で戦死。夭逝はヒーローの条件でもある。実際に挙げた成績ではなく、「もし生きてたらこれくらいは勝てていたのではないか」「これくらい速かったのではないか」「これくらい凄かったのではないか」という想像が一人歩きし、その虚像が実像を押しのけて人の記憶に居座ってしまう。

「実績で有無を言わさぬ名選手」ではなかった。時代がヒーローを渇望していたから、「まぁマシな選手」を見つけ出し、それを無理矢理ヒーローということに仕立て上げた。沢村は、時代の必然によって、なるべくしてヒーローに祭り上げられた、と言ってよかろう。「沢村は凄い投手」ではなく、「沢村は凄い投手でなければならない」のではなかろうか。

沢村伝説は、マスコミが作り上げた虚像であることは間違いない。マスコミは、事実を報道するのではなく、人が求める物語を作り上げて報道する。人がヒーローを欲しがっていれば、ヒーローを作り出してしまう。アメリカ憎しの世相、日本プロ野球がようやく始まった創成期、そういう時期には、時代を盛り上げるエネルギーをもつヒーローが必須なのだろう。


典型的な「記録ではなく、記憶に残る投手」だったのだろう。インパクトは大きかったのだろうが、5年しかプレイできず、通算勝数は63勝。この程度の投手の名を冠した賞をもらって、現代のピッチャーは本当に嬉しいのだろうか。
人の「性格、生き様、境遇」と、「事実として残した実績」は無関係だ。沢村栄治がどの程度の投手だったのか、その評価を聞けば、その人が冷静に事実を語る人なのか、自分の頭で作り上げた世界に浸ることを好む人なのか、区別できるような気がする。



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