1から5までの自然数を一列に並べる。どの並べ方も同様の確からしさで起こるものとする。このとき1番目と2番目の3番目の数の和と、3番目と4番目と5番目の数の和が等しくなる確率を求めよ。ただし、各並べ方において、それぞれの数字は重複なく一度ずつ用いるものとする。



ついこないだの、京都大学の前期入試問題(文理共通)。


数学のできない学生が増えている気がする。
いくら私立文系の大学に進学するにしても、少なくとも必修授業として数学は受講していたはずだ。それにしては論理的思考能力と現象を一般化する能力が皆無に近い学生が多い。

大学で授業中に「みなさん数学はできますか」と聞くと、みんな苦笑いしながら下を向く。そういう学生さんたちに、どうして数学ができなくなったのか聞いてみると、どうやら「数学」というものを「学校の試験で点を取れること」「問題が解けること」と思い込んでいる節がある。

冗談じゃない。高校の定期試験で点数がとれる程度のことが能力の証左であるならば、文法問題を全暗記して満点をとる学生は英語ができることになるのか。
こと数学に関する限り、「定期試験で点が取れる」というのは、数学に必要な能力のうち学校が客観的に評価しやすい面だけをクリアしているだけのことに過ぎない。それがそのまま本当の数学的能力であるわけではない。

観察した諸現象を一般化し、そこから法則性を導き出し、その正当性を立証する方法論は、どの学問分野においても等しく必要な能力だと思う。そうした試行錯誤の跡を簡潔にまとめたものが、公式や定理として結論づけられる。つまり公式や定理というものは、一連の思考過程の「結果」にすぎない。

しかし数学ができない学生に限って、公式や定理を、まず覚えなければならない「出発点」だと思い込んでいる。「わたし、公式とかってよく覚えていないんですよ。それを覚えられなければ問題を解けないじゃないですか」という具合だ。
つまり、数学がどのような能力を身につける分野なのかが分かっていない。

たとえば、定理というのは証明可能な言明のことだ。根源的には、定理というのはそれを使って入試問題を解くことが大事なのではない。そもそも、その定理をちゃんと証明できることのほうが大事なのだ。公理から出発してきちんと定理を証明できれば、すなわちそれは暗記する必要がない。いつでも導けるようになる。「知識」は蓄えることが目的ではない。それを使いこなせるようになることが目的なのだ。

数学に限らず、どの学問においてもまず必要な第一歩は、体当たりだ。
自分の眼で事実を見て、変化と法則性を書き並べる。そういう「観察」から出発し、自分の力で法則を見つけようという姿勢が何よりも大事だ。その過程をサボり、既存の知識や他人がつくってくれた法則を受動的に覚えることに執着する者が、主体的な思考能力を身につけられるはずがない。借り物の思考能力など、何の役にも立たない。

高校の数学の単元でいえば、そういう過程を一番体験しやすいのは、確率統計だと思う。どんな問題でも、まず自分でn=1の場合、n=2の場合、n=3の場合・・・と実験してみないことには、話が始まらない。そこから法則性を見つけて、それを一般化して記述する。
数学を課されることなく大学に入ってくるということは、その、最も基本的な能力すら必要とされなかったということだ。空恐ろしい。

上記の京都大学の問題だって、条件をちゃんと揃えて書いてみれば、両方の和に含まれるa3が鍵になることくらい、すぐに分かる。そうすれば場合分けの軸として、a3が奇数であることはすぐに分かるし、そうすればあとは条件を満たす場合分けは書き出せる。たかが5つの要素なので、全書き出しには根性すらいらない。ここを有限個の要素に設定してあり、n, n+1, n+2, ... という一般数にしなかったあたり、京都大学の情けだろう。京大くらいのレベルだったら、そこは手加減しなくてもよかったような気がする。


(こたえ)


並べた自然数を左から順にa1, a2, a3, a4, a5とする。
a1+a2+a3 = a3+a4+a5
⇔ a1+a2 = a4+a5   ・・・(A)

ここで a1+a2+a3+a4+a5 = 15なので、a3は奇数である。

(i) a3 = 1のとき、(A)を満たすa1、a2、a4、a5の組は、
< a1, a2, a4, a5 > =
<2, 5, 3, 4>, <5, 2, 3, 4>, <2, 5, 4, 3>, <5, 2, 4, 3>,
<3, 4, 2, 5>, <4, 3, 2, 5> <3, 4, 5, 2>, <4, 3, 5 2>
の8通り。

(ii) a3 = 3, 5のとき、
(i)と同様に8通りずつ。

以上により求める確率は、 3x8/5! = 1/5



5分以上は要らない問題だろうな