退学について、ある一面から見た、とても自己中心的な文書。
(『チナミニ』)


「シリコンバレーに行きたい。」と言う事が優等生の発言だったのです。
そして、実際に行く為の、言い換えれば生きる為の答えの無い問題を解く事は、答えの決まった問題しか解いてこなかった僕には出来なかったのです。
"レールの上を走ってきた"、"苦労してこなかった"ということはそういうことです。
決められた答えを出すだけの、誰にでも出来る簡単なことしかしてこなかったのです。




こういう優等生、大学には多いんですよね。



高校までは、他人が自分を評価する。それがあたかも全人格を決定する要素であるかのような錯覚に陥いる「優等生」が多い。
大学に入ってからは、ある程度「他人の評価など知ったこっちゃない、俺はこれがやりたい」という面が必要になってくる。趣味やサークル活動ではそういう軸で行動できても、いざ学業や進路決定に際してまで、そのように肚を括れる学生は少ない。

そういう「優等生」の見分け方は簡単だ。講義で質問してくることが「それで、正解は何ですか?」「テストのときはどう書けばいいんですか?」の類いばかりの学生だ。
自分の頭で考えるのではなく、「こう振る舞えば、他人に良く評価される」という最短経路の手段だけに、やたらと固執する。そういう情報を早急に欲しがる。そして、それを「知識」だと思い込んでいる。


自分の頭で考え、自分の足で歩いている学生は、テストの答案に「授業で先生はこう説明していたが、自分はそうは思わない。むしろこう考えた方がいいと思う。その理由は・・・」と書いてくる。


大学で伸びる学生というのは、安易に既存の常識に依存せず、自分の頭で考える学生だ。根拠をしっかりと整えることができ、そこから論理的に結論を出す能力があり、なによりも「もっといいものを」と絶えず上を目指す知的好奇心がある。大学とは、そういう能力を培う場所だと思う。
「決まった答えを導く知識」を身につけたいのであれば、大学になど通う必要はない。家で本でも読んでた方が効率的だ。時間もお金も節約できる。

そういう能力が身に付いている学生は、行動の基本原理として「ねばならない(must)」ではなく、「したい(want)」で動いている。
所属ゼミを決めるときも、「このゼミを選びたい」
卒論のテーマも、「これについて学びたい」
卒業後の進路も「こういうことをやってみたい」
どんな面においても、好奇心でいろんなことに首を突っ込み、いろんな人の話を聞き、絶えず自分の世界観を拡げている。そこから、自分に興味のあることを選ぶ選別眼を、自主的に鍛えている。
「正解」を与えられて満足している学生は、正解を与えられたらそこで終わりだ。そこから外に出ることができない。


また4月になって、新入生がたくさん大学に入ってくる。
今年も、他人から「よくできました」と評価されることをイコール「優秀な人間」と思い込んでいる学生が多いと思う。そういう学生に、まず「自分主体で生きる」という概念を喚起するところから始めなければならないだろう。



使えない知識ばかり丸暗記して何になる