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マルチン・ルター(Martin Luther、1483-1546)


世界史の授業でおなじみの、神聖ローマ帝国(現ドイツ)の神学者。宗教改革によってプロテスタント教会の流れの祖とされる。宗教以外でもヨーロッパ文化に多大な影響を及ぼした。それまでラテン語でしか書かれていなかった聖書をドイツ語に翻訳することによって、近代ドイツ語の成立を促し、識字率の大幅な上昇に寄与した。現在、世界各地に伝わる「ルーテル教会」は、ルター派を起源とする。

ローマ教皇に対する反抗は「神に対する反抗」とされていた中世にあって、宗教改革という大断行を行って、よく命がもったものだ。
これほどまでの革命を成し遂げたルターは、どういう人だったのか。高校のときに世界史の授業で習ったときの僕のイメージでは、意気高く、正義感が強く、野心的で、曲がったことを容赦なく弾劾するような攻撃的なイメージがあった。

しかし、よくよく当時の状況を調べてみると、はたしてルターは本当に攻撃的な人だったのか、宗教上の大改革を目論むような野心家だったのか、疑問に感じることがある。

ルターのいわゆる「宗教改革」の発端は、アルブレヒトという生臭坊主に端を発する。彼はマクデブルク大司教、ハルバーシュタット司教という位をもっていながら、選帝侯として政治的に重要なポストであったマインツ大司教の位も欲しがった。きっと出世欲と権力欲が旺盛だったのだろう。

しかしローマの決まりでは、司教の位はひとりにつきひとつしか保持することはできない。そこでアルブレヒトはこれを金で解決しようと考えた。ローマ教皇庁にたんまり袖の下を渡すことによって、マインツ大司教に就任する特別許可を得ようとした。

ローマとしても、あからさまに「金を払いますから大司教位をください」という要求を受けるわけにはいかない。そこで、アルブレヒトは名目上、サン・ピエトロ大聖堂建設献金という大義名分を掲げてカネ集めに走った。
その金儲けの方法が問題になる。

アルブレヒトはローマへの献金のため、贖宥状を乱発し売りまくった。一般的に誤解されているが、本来の「贖宥状」はいわゆる「免罪符」とは違う。もともとキリスト教では罪を償うために、悔恨、告白、補償という3段階を経ることになっていた。補償というのは要するに償いの行為であり、反省の心に応じてそれを態度で示す社会活動のことを指す。この補償行為が街のゴミ拾い程度のものだったら問題はなかったのだが、時代の要請によって補償行為が労働の対価のごとく見なされるようになった。

つまり、十字軍。最初は「イスラム教徒に対する聖戦」という建前だったのが、次第に「中東の豊かな土地を略奪する金儲け」に変化していった。その過程で、どうしても労働力としての戦士の頭数が必要になる。そこで教会は十字軍への従軍を「罪を償う行為」という位置づけとし、実利的な目的を伴う十字軍との間で需要と供給が一致した。その証書となるのが贖宥状だ。

時代が下るとともに「聖なる実務」の証明のはずの贖宥状が、金銭で取引されるようになる。いわば「現世での罪が赦されるお札」という色彩が強くなった。こうなると贖宥状は免罪符としての役割が濃くなっていく。ルターが疑問視したのは、悔恨、告白、補償労働というステップを踏むこと無しに「これさえ買えば赦される」という点にある。

ルターはこれを贖宥状の権限逸脱として、有名な『95ヶ条の論題』を張り出し、異を唱えた。当然、ルターの矛先は贖宥状を乱発したアルブレヒトに向けられているのであり、ローマ教皇庁に向けられていたのではない。むしろアルブレヒトに対して「お前のやっていることはローマの方針に反している」というスタンスで書かれている
この過激な文書は、たちまちドイツ語に訳されて全ドイツ中に広まった。「たしかに、これおかしいんじゃね?」的な雰囲気が広がり、キリスト教の教義に関する大問題に発展する気配があった。

そうなると困るのはローマ教皇庁だ。話の筋としてはルターのほうが通っているが、実際的に献金を通じて利益を得ている立場としてはアルブレヒトを無下には扱えない。ローマは陰に日向に「教義に疑問を挟むことは、ローマに対する反逆となる」とルターを抑えにかかるが、ことごとく失敗した。

その後、ライプチヒで、ルターと神学者のヨハン・エックとの公開討論が行われた。エックはインゴルシュタット大学の神学教授で、当時最強の論客と謳われる強者だった。ルターはこの最強の論客を相手に、自説を主張しなければならな羽目に陥った。
このルターとエックとの論争が面白い。


僕は、いまに伝わるルターのイメージは、すべてこのエックのせいだと思っている。当時のルターの書簡、著書、特に『95ヶ条の論題』の内容を読む限り、ルターはローマ教皇庁を敵に廻そうとしているようには見えない。それは『95ヶ条の論題』が一般人には読めないラテン語で書かれていたことからも分かる。彼は、ただ真摯に聖書を信じ、教義を貫き、それに基づいて間違ってることを「間違っている」と言っただけに過ぎない。

一般的に、議論をする上で最も重要なことは何か。
巷には安易なハウツー本として「議論のノウハウ」「論理的な説得法」などというものが出回っているが、あんなもの100冊読んだとしても議論の腕前など上達しない。それは、ほとんどの類書が「議論とはそもそも何なのか」という大前提を無視し、枝葉末節の技術論に終始しているからだ。

議論というのは、相手に勝つためにするものではない。相手から未知の知見を吸収し、それに自分の知識と見識を混ぜ合わせ、新たな発想を導くことが目的だ。だから議論にあえて勝敗をつけるとすれば、「いかに相手から多くのことを吸収できたのか」で計られる。議論で「勝負に勝とう」とする奴ほど劣勢に立たされるのは、そもそも議論の目的を見誤っているからだ。

エックはルターと公開討論をするときに、何を目的にするべきだったか。
間違いなく、「ルターが引き起こした論争に収拾をつけること」だっただろう。ルターを問いつめ、論駁したところで、何も生まれない。そもそも間違っているのは贖宥状乱発のほうなのだから、正論で議論すれば、ルターに分があるのはあたりまえだ。

だからエックは、ごまかせばよかったのだ 。「な、ルターはん、んな厳しいこと言っとらんと、どや、一杯」という態度をとれば、それでよかった。その結果、『95ヶ条の論題』の火種が消し止められれば、キリスト教が分裂する危険性もかなり減っただろう。

ところがエックは半端に頭が良かったものだから、ルターと真っ正面から白黒つける論争に打って出た。勝てると思ったのだろう。頭がいい人は、得てして「自分は議論に強い」と思いがちだ。「そもそも議論とは勝つためのものではない」ということには気づかない。エックはその間違いを犯した。

エックがとった方法は極端な2分法だった。エックはルターを巧みに誘導し、「ルターの主張とローマ教会の立場がはっきりと矛盾していること」をルター自身に認めさせようとした。一旦それを認めさせてしまえば、「ローマ教会に歯向かう立場は悪魔の立場だ」「ローマに従うのか、悪魔に従うのか」と追いつめられる。ローマか否か、そのふたつしか選択肢を与えず、一切の妥協を認めない。

議論の方法としては下の下だ。そもそも物事の是非を問う帰着点として、マルかバツか、シロかクロか、真実か虚偽か、のふたつにひとつしか正解がないことなど、ありえない。議論の相手がこの論法で自分の立場の是非を迫ってきたときには、胡散臭いと思って間違いない。話に絡まるすべての要素を捨象し、話を単純にすることで自分に優位な方向へ議論をもっていこうとする、単なる詐術だ。

ルターはまんまとこの戦術に嵌まってしまった。エックの目論み通り、ルターは自分の説がローマ教会と矛盾することを認めてしまった。だが、そこからがエックの予想と違った。ルターは「すみません、私が間違っていました」とはならず、なんと「ええそのとおり、だからローマ教会のほうが間違っている」という態度に出てしまった。

エックの想定する範囲内で議論の勝敗を論じるなら、エックの勝ちだろう。確かにルターの説がローマ教会に反することを認めさせることには成功した。しかしそれに成功することで、どういう事態になってしまったか。ローマ教会の誤謬がより明確にされ、シロかクロかで言えば「クロ」であることをルターに主張させるに至ってしまった。かくして事態は収拾不可能となり、プロテスタントの分離というキリスト教史に残る一大事件に発展してしまった。

僕がルターに関する研究書を読んだ限り、ルターがはっきりとローマ教会と決別を覚悟したのは、エックとの論争がきっかけではなかったのか、という気がする。最初はローマに刃向かう気などは微塵もなかった。しかし、「頭のいい」論客と議論を交わしていくうちに、自分の主張を明確にすることを迫られ、ローマに反する立場を取らざるを得なくなっていったのではないか。まさかエックも、よもやルターがローマ教会を敵に廻すとは思ってもいなかったのだろう。エックは、ルターの信仰心、覚悟、人としての器の大きさを、完全に見誤った。

頭がいい人というのは、議論のときにとにかく張り切って、相手を打ち負かすのに全力を注ぐ。「なんのための議論なのか」という観点はすっかり抜け落ち、とにかく目先の議論に勝つことしか頭にない。その結果、相手を追いつめ、攻撃し過ぎることになる。要するに自分の知性を全面に出すことに必死で、議論の外側までを含む全体像を見据える余裕がない。

エックは頭はよかったのだろうが、物事の本質を見切れていなかった。議論には勝てる男だったのだろうが、勝つことでむしろ最悪の事態を招くことが分かっていなかった。ルターが予想よりも信仰に真摯な人間だったことも災いしただろう。エックは議論の席上でルターに妥協を許さなかったが、むしろルターが一切妥協のない態度をとることで、ローマ教会にとっては最悪の事態になった。「まぁお前さんの言うことも一理あるわな。俺のほうからローマ教皇さんにはよう言うとくからの、お前もあまり火種をまき散らすようなことせんようにな」と出られなかったところが、エックの、人間としての限界だったのだろう。

ルターが行ったことは、2000年にも及ぶキリスト教史のなかで異彩を放っている。「信じる」ことが本質の宗教にあって、「疑う」ことによって正しい道を模索した。ところが歴史というのは、本人の意志100バーセントですべてが行われていたわけではあるまい。ルターのように、最初の意図が時代の流れのなかで大きく拡張され、本人も予想もつかなかったほどの大事件につながる、ということもあったのではないか。ましてや、その導火線に火をつけたのが、他ならぬ論争相手だった、ということもあり得る。ルターの足跡を辿ると、この時代の神学論争のほとんどが、現代的な視点で言う「論争」の名に値しないことがよく分かる。


ルターは教区にいる女性たちに適切な嫁ぎ先を見つけてあげる特技があったらしい。カタリナという女性の世話をしたときになかなか相手が見つからず、自分がその夫となる決心をした。結婚生活でルターはたくさんの子供をもうけ、自宅を幼稚園なみに一杯にしてしまったという。一日の執務のあと、子供たちとの時間を過ごすのが何よりの楽しみだったそうだ。ちなみにルターはボウリングのルールを考案した人としても知られている。子供と遊ぶためにこのゲームをつくったのだろうかなどと考えると、世界史の教科書とは違ったルターの一面が見え隠れする。



死を免れた方法を探ると身の振り方がかなり現実的な人ですね