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2009年02月09日

詩の鑑賞

<問題>
次の二つの詩は同じ作者の作品である。二つの詩に共通している作者の見方・感じ方について、各自の感想を160字以上200字以内で記せ。句読点も1字として数える。


「積もった雪」

上の雪
さむかろな。
つめたい月がさしていて。

下の雪
重かろな。
何百人ものせていて。

中の雪
さみしかろな。
空も地面もみえないで。



「大漁」

朝焼け小焼けだ
大漁だ
大羽鰯の
大漁だ

浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰯のとむらい
するだろう。

(出典「金子みすゞ全集」)




1985年、東京大学の入試問題。


当節は国語の授業時間が削減される一方で、その中でも詩というのは真っ先に削られるのだそうだ。
入試に出ない、点数にならない、能力が客観評価できない、などいろいろと言い分はあろう。
そういう一般的な思い込みを嘲笑うような東京大学の入試問題。

ちなみに、教学社の大学入試過去問シリーズ(いわゆる「赤本」)では、次のような「正解」を載っけている。


二つの詩に共通しているものは人知れぬ所にある悲しみ、苦しみに寄せる同情だと思う。地面に積もっている雪の気持ちなど誰が考えるであろうか。なかでも「中の雪」の「さみし」さを人々は忘れがちである。また大漁の浜辺で誰が海の中の鰯たちの仲間を失った悲しみを想像するであろうか。しかし作者は大漁を喜ぶ人々に同調するより、まずそのかげに泣く多くの弱い者たちに共感している



まぁ、零点だろう。
東大の入試がこの程度で点が取れるなら、受験生は苦労しない。


この手の答案は、実際の入試でもかなり多かったのではあるまいか。東大の掘った落とし穴にずっぽり嵌まっている。
「かわいそうだと思います。そういう弱い立場に共感を示すことが大事だと思います」的な良い子の答案は、高校では褒められるかもしれないが、学問の府の門を叩く姿勢としては見当違いだ。

大学入試というのは、個人のモラルや道徳を問うものでも、人間性を問うものでもない。学問の訓練を積むに足りる基本的な資質が備わっているかを量るものだ。
他人に対してどういう感情をもつかどうか、ということは、人の生きる姿勢としては大事なことかもしれないが、入試で問うことではない。
赤本の解答が正しいのならば、何でもいいから感想を書けばそれが合格答案となろう。少なくとも、合否の判定に使えるような問題ではなくなってしまう。

ご丁寧なことに、上掲の赤本の解説には「当時非常にエリート意識が高かった東大受験生に対してエリートとは何かということを突きつける内容になっている」などと解説している。
換言すれば「東大はエリートですよ」「エリートであるからこそ弱者のことを忘れてはいけませんよ」「弱者には救いの手を差し伸べなければなりませんよ」という視点が答えだ、ということになる。

東大がそんな嫌味な正解を用意しているとは思えない。
内容の正しさ云々よりも、この手の答案は、ものを見るときに必要な、基本的な視点が決定的に欠けている。


まず雪の詩について。
この詩では、雪はを上、中、下と三層に分けて、それぞれの雪をそれぞれの理由で「かわいそう」と言っている。
赤本に示される良い子の答案に欠けている視点は、「そのかわいそうな状況は誰のせいか」という発想だ。

上の雪が冷たい月に晒されるのは、中と下の雪に持ち上げられているからだ。
中の雪が空も地面も見れないのは、上と下の雪に挟まれているからだ。
下の雪が重いのは、上と中の雪がのっかっているからだ。

つまり、それぞれの雪の不幸の原因は、他のふたつの雪にある。
それぞれの雪はそれだけを見ると「被害者」だが、他のふたつの雪に大しては「加害者」の立場になっている。

学問一般に必要な能力として、対象に主観的にはまり込まず、客観的に全体の構造を把握する能力がある。現象の要素として自分が含まれているときには、特にその能力が重要になる。
物事を表と裏の両面から眺め、ひとつだけでなく複眼的な視点から物事を把握できる客観性は、どの分野を学ぶ上でもどのみち必要なことだ。

雪の詩を、単に「かわいそう」と共感して終わり、という姿勢は、他のふたつの雪との関連を無視している。全体の構造から部分だけをぶち切って、その部分だけをバラバラに見るような、その場その場の視点しか持ち合わせていない。3層の雪として全体を俯瞰すれば、利害関係のバランスは取れているのに、そのことに気づかない。

構造としては循環論だろう。食物連鎖やジャンケンや三すくみと同じように、絶対的な勝者がいない。 どの要素も、他の要素に対して、被害者と加害者という両方の役割を負っている。

このように「循環」というキーワードに気づけば、次の鰯の詩で何を読み取れなければならないのか明らかだ。
人間は魚を食べるが、その魚だって他の生命を餌にして生きている。その生命だって・・・というように、食物連鎖の中ではそれぞれの立場が「加害者」と「被害者」のふたつの立場を負っている。
何万の弔いをするであろう鰯だって、その鰯のせいで何千万の弔いが行われている。

人間は一般的に食物連鎖の最上位に位置する。そして、その循環から抜けることはできない。
人間は他の生命を犠牲にしなければ生きていけない生物だ。菜食主義者だって植物という生き物を食べて生きている。「植物だからセーフ、生き物じゃない」とする姿勢は、自然破壊の正当化に直結する危険な思い込みだ。

この詩を読んで、「鰯はかわいそう」などと人ごとのように構える受験生は、その場で不合格を喰らっても文句は言えまい。この詩は鰯だけの詩ではない。食物連鎖の何段階にもわたる関係のなかで、たまたま人間と鰯のふたつだけを切り取って示しただけだ。
この詩を読み解くときのポイントは、人間もその連鎖のひとつに組み込まれていること、「かわいそう」などと綺麗事を並べたところで、その連鎖から抜けることはできない、ということだ。

赤本の「正解」のような解答が間違っている点は、雪と鰯という対象それだけしか見ていない点にある。本当に「雪がかわいそう」とだけ詠みたいのであれば、なにも別に雪を三層に分ける必要などない。十把一絡げに雪をまとめて「寒いからかわいそう」とでもすればいい。本当に「鰯がかわいそう」と言いたいのであれば、鰯を食べるのは人間だけではない。鰯の死亡原因は捕食だけではない。海に潜む様々な危険を並べ上げて「かくして何万の鰯の弔いが」とやればいい。

ところがこれらの詩は、要素それぞれの不幸を、他の要素と相対的に関連づけている。その中では、強弱関係の循環から抜けることはできない。
つまりこれらの詩は、それぞれの要素を「点」として捉えてそれぞれに同情するのではなく、要素と要素をつなぐ「線」として全体の構造を捉え、その構造のなかに要素が位置する必然性に気がつかなければならない。

大学で学ぶ様々な諸分野は、人間が世の中を理解する営みに他ならない。その中では、観察者である我々人間自体が要素となり得る場合がある。経済学から人間という要素を排除して「経済」という人の介在しない現象があると思い込んでいるうちは、経済学は分からない。人間に対して医療行為を行うのもまた人間である、ということが分からない人間は良い医者にはなれない。大学で学ぶ勉強というものは、人間と無関係な絵空事の世界のはなしではない。「人間としての自分も、その世界の中に取り込まれている」という自覚がないものは、真に客観的な姿勢というものを保つことはできない。

赤本のような答案を作った受験生は、客観的にこの詩を読み解こうとしたのだろう。しかし、客観的な姿勢で臨もうとして、雪と鰯を、人間である自分自身と無関係な対象として「かわいそう」などという感情を持った途端に、その読み方は単なる主観になる。
逆に、主観的に雪や鰯の立場に身を置けば、こういう状況になったのは誰のせいか、こういう状況から脱することはできるのか、ということを考えられる。するとこの詩に描かれている世界観の全体像が、客観的に把握できるようになる。
この問題で東大が掘った落とし穴とは、「客観的に対象を捉えようとすると、却って単なる主観的な感想に過ぎなくなる」という、主客の転倒を引き起こさせることにある。

本当の国語力や言語力というのは、文学作品や韻文など論理的な構成をさほど重視しない文章形体をどう読めるのか、で計れる部分が大きい。詩というのは、作者の世界観を極端にミクロな視点で切り取った「超短編」と言っても良い。そのわずかなミクロな視点を手がかりに、マクロな世界観の全体像を描く想像力は、普通に詩を鑑賞する訓練を積んでいれば自然に身に付く能力だ。そしてその能力は詩だけでなく、学問のどの分野でも必要とされる。「詩の鑑賞など大学での能力とは関係ない」などと嘯く、余裕のない受験生は、悉く入試に落ちただろう。


<こたえ>

二つの詩には、ともに要素の特徴を関係性から捉える相対的な視点がある。雪はそれぞれ不幸だが、同時に他の雪の不幸の原因でもある。人間に捕食される鰯は不幸だが、その鰯も食物連鎖の中では捕食者でもある。要素が「加害者」か「被害者」かは、要素間の関係で相対的に決定される。我々が世界を観察するときには、観察者である人間もその要素のひとつであることを認識し、他の要素との関係を勘案して観察しなければならない。
(198字)




今は学校でこういうことは教えていないのかな


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