"incestuous amplification" という英語。


教科書だけで英語を勉強しているうちは、まぁ、目に入る語ではあるまい。
最近、アメリカの新聞や書評で目にすることが多い。

本気で外国語を勉強しようと思ったら、最後にモノを言うのは、勤勉さでも真面目さでも計画性でもない。好奇心だと思う。
外国語学習に必要なのは「継続」であることは論を待たない。だが、人間は努力と根性で毎日の継続を成し得るほど、勤勉ではあるまい。最終的に外国語学習を続けられる人というのは、それを楽しみ、常に新しい情報にアンテナを張り、知ることを喜ぶ人だと思う。
概して外国語学習は野郎どもよりも女の子のほうが得意なようだが、それは脳の基本的な言語能力の差異というだけではなく、興味の持ち方が違うからのような気がする。

僕は毎日、20誌ほどの新聞をインターネットで読む。半分は日本の新聞で、半分は外国語の新聞。 4,5誌がアメリカの新聞で、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアの新聞がひとつづつ。今年から韓国語の勉強を始めたので、韓国の新聞も最近読み始めた。きようび、だいたいの新聞は翻訳サイトから大意をつかめるし、ネット上で辞書も使える。便利な時代だ。

・・・とか何とか言うと「凄いなぁ」と思われる方もいらっしゃるかもしれないが、ははは、何のことはない。いつも日本で日本の新聞を読む時の感じを考えてもらえば、どんな読み方をしているかは想像がつくでしょう。その、つまり、主にスポーツ欄と芸能欄。時間がある日にたまに社説を読むくらいだ。政治欄なんて読みゃしない。経済欄に至っては日本の新聞でさえ何が書いてあるんだか分からない。

ドイツの新聞を読む時は、ブンデスリーガの記事から読むに決まってる。イギリスの新聞を読むときにはプレミアリーグの記事から読むに決まってる。なに、新聞なんて世界を知るための勉強だけじゃない、自分が楽しんで読めればそれでいい。少なくともそれで外国語の勉強にはなる。

そんなわけだから、アメリカの新聞を読むときだって、だいたいスポーツや芸能欄の記事を拾い読みすることが多い。
その中で、特に芸能や文芸に関する記事でよく目にするのが、冒頭の"incestuous amplification"だ。

最初、性犯罪の記事かと思った。"incestuous"は、incest(近親相姦)の形容詞形。ちょっとどぎつい言葉だ。"amplification"というのは「増幅」という意味。音楽を増幅して大音量にする装置を「アンプ」というのは、ここから来ている。

つまり、"incestuous amplification"を辞書通りに訳すと、「近親相姦的な増幅」ということになる。こんな語、堂々と見出しに使っていいのかなぁ、と思っていた。
ところが、期待して読んでも、記事のどこにも近親相姦の話なんて出てこない。おおむね、この見出しが使われる記事は、「ものの考えが画一的なものに固執してしまい、新しいものを排除する傾向」を揶揄するときに使われる。

一番多く使われるのが、ハリウッド映画についての批判だ。何人かのプロフェッショナルがチームをつくってプロジェクトにあたる、ミッションの途中で何人かが死ぬ、家族愛がやたらに強調される、サクセスストーリーで必ず締める、などといったステレオタイプが、いわゆる「ハリウッド映画」の特徴として取り上げられる。映画製作者の間で、あたかも同じ信念がまかり通っているかのような状況だ。

ひとつの固定概念が席巻すると、同じ信念をもつ人同士が集り、その概念が強力に増幅される。それが信念となり硬化して、ほかの立場を排斥するようになる。「近親相姦的な増幅」とは、そういう状況を指している。同じ考え方を共有する人たちが、更なる強固な考え方に増幅される。それを「近親相姦的」と云っている。もちろん悪い意味だ。

僕は毎年、アカデミー賞受賞の作品を観るが、正直言って、あまり面白い映画だとは思わない。どこかで観たような筋書きで、どこかで観たような設定で、あまり目新しさがない。いくつかのパターンはあるものの、そのどれかのパターンに収まるような、使い回しをしている印象の映画が多い。

僕は、文化の種類には革新的なものと保守的なものの両方が必要だと思う。世の中に前例のない、誰も観たこともない、度肝を抜く作品というのは価値がある。新しいものの創造が文化の一翼を担うことは大多数の賛同を得るところだろう。賞というものはそういう作品に与えるにふさわしい。

しかし、人間はそう毎日毎日、自分と異質のものを受け入れるようにはできていない。決まりきった、紋切り型の、おなじみのパターンが心地よく感じるのが本音ではあるまいか。日本のテレビから時代劇が絶えることはないだろうし、僕だって「刑事コロンボ」や小津安二郎監督の映画が好きだ。そして、人間の毎日の文化的生活の中で、大多数を占める要素は、こちらの「保守傾向」のほうではないか。

僕の感覚だと、映画、音楽、文学などの毎日の文化的生活のなかで、新しいものとお馴染みのものの割合は、1対9くらいだと思う。2対8、あるいは3対7くらいの人は、かなり好奇心の強い人だろう。いつも自分の趣味に合うものを中心に鑑賞し、たまにちょっと違うものを観てみる、というのが、平均的な人間の文化生活だと思う。

つまり、世の中に産出される文化のほとんどは、そういう「大多数の要求」を満たすために作られている。いままで通りの、マンネリ路線に沿い、仰天するビックリ仕掛けの無い、安心して見れる作品が多いのは、消費者がそれを望んでいるからだ。

本当に新しいものというのは、その斬新さが際立つものであればあるほど、世の中に受け入れ難い。アカデミー賞などの文化賞は、そういう1割のなかから後世に残す価値のあるものを選ぶべきだと思う。逆に言うと、「誰もが納得」という映画は、むしろアカデミー賞にはふさわしくない。アカデミー賞は、それまでの概念を打ち破り、人々に新しい眼を開かせ、新鮮な驚きを与える未来志向の賞であってほしい。

ハリウッドの作る映画が決まったステレオタイプに沿ったものが多いのは、なんのことはない、そのほうが売れるからだ。アメリカの映画趣味の多くは、本当に新しいものなど欲してない。最後がハッピーエンドで終わらないと、観客は「こんなの映画じゃない」と文句を言う。アメリカで言う「新しいもの」とは、本当に新種のものではない。決まった枠組みの中に収まった、それまでの規定に沿うような作品の、新作に過ぎない。

その原因は、アメリカ人が「自分がハッピーになるために映画を見る」という色が濃いからだと思う。勝負に勝つ、恋が成就する、仕事で成功する、そうした疑似体験を通じて、自分がいい気分になる。そうしたハッピーを追求する姿勢は、趣味のあり方として、基本的には間違っていない。

しかし、人間の文化的生活はハッピーだけでは成り立たない。いままで自分の知り得なかった世界を知るためには、涙を流して悲しむことも、仰天することも、唖然とすることも、世の理不尽を感じることも、擬似的であれ恐怖を感じることも、等しく必要なことだろう。負の感情の裏打ちがない正の感情は、薄っぺらいものでしかない。時には「よくわかんなかった」という不条理を感じることですら必要なことがある。

そういう様々な外的世界を自分の中にとりこみ、自分なりに咀嚼し、新たな世界観をつくりだしていくことが、文化的生活の根源だと思う。ハッピーエンドで終わるアドベンチャーが自分の中に吸収しやすいのは、あたりまえだ。そういう吸収しやすい文化は儲かるから、そういう作品ばかりが作られることになる。しかしアカデミー賞は、「これはちょっと咀嚼しにくいかもしれない作品ですが、頑張って観れば、それだけのものは残りますよ」というレアな作品を啓蒙する役割を、もっと果たしてもいいのではあるまいか。そういう風潮が、そういった作品を世に生み出す後押しにもなろう。

文化的生活の基本は、登山だと思う。断じてピクニックではない。目の前に切り立つ高い峰を目指して、ゆっくりでもいいから、じっくりと時間をかけて克服するほうが、最終的に大きなものを得られる。そればかりでは疲れるから、たまには遊び慣れた広場で戯れ楽しむのは多いに結構だが、基本的にはそういう時間では真の人間の成長たり得る経験は得られない。

"incestuous amplification" という英語は、ほかならぬアメリカ人自身が、そのことに気づいている証左だろう。でなければ「近親相姦的」などというきつい言葉は使わない。同じものばかりに触れ、同じものばかりを生産し、その同じものばかりに快感を覚える。確かにそれはハッピーなことではあろうが、それは人の一生のスパンで考えれば、決してハッピーなことではあるまい。



というわけで今日も相変わらずスポーツ欄のハシゴ。