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嫁がパン好きでして。
電車の中吊り広告で見かけた雑誌を買ってきてホクホク読んでたんですが。



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なんじゃこりゃ?



日本に氾濫している外国語には、ネイティブから見たらププッと笑ってしまうようなものがたくさんあると思いますが。
一体どういうつもりで付けたのかなぁ、というお店の名前もよく散見しますね。

きっとあれかな、「シニファン」や「シニフィエ」とかいう音の響きがおフランスっぽくて、なんとなくつけたのかな。
意味を考えてみるとあまり商品を扱うお店の名前としてはふさわしくないような気がするんですが。


「シニファン」「シニフィエ」というのは言語学用語。
スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure、1857-1913)が提唱した概念。
「シニファン」はフランス語の動詞 signifier(意味する)の現在分詞で「意味するもの」、
「シニフィエ」は過去分詞で「意味されるもの」という意味。

たとえば、街頭にニョキニョキ生えていて茶色の幹に緑の末端がついていて、二酸化炭素を還元して酸素にするところのデカい物体を、ワレワレ日本人は「木」と呼ぶ。
ところが英米人は、その同じ物体を「tree」と呼ぶ。

同じものであっても言語によって呼び方が違う、ということは、そもそもその物体をなんと呼ぶかに、普遍的な必然性はない。「必然的」の反対を「恣意的」という。「それがそうである必要はない」くらいの意味だ。日常ではあまり使われる言葉ではないが、どんな分野であれちょっと突っ込んだ勉強をするとなかなか便利な言葉だ。

「シニファン」というのは、あるものを表す言語表現。「木」という文字や、「き」という音のことを指す。
「シニフィエ」というのは、その言語表現が指し示す実態や概念のこと。木そのもののことを指す。

ソシュールがこれらの概念をつかって提言したことはふたつある。
ひとつは、そもそも「シニファン」と「シニフィエ」の間の関係は恣意的である、ということ。もしある概念やモノを表す言語表現が必然性のあるものだったら、すべての言語において木は「き」と呼ばれるはずだ。ところがそうでないということは、両者の関係は別にそうである必要はない、ということになる。

もうひとつは、基本的には恣意的であるシニファンとシニフィエの関係は、あるひとつの言語体系の中においては必然化されている、ということ。日本では「き」と言えば、誰もが木のことだと分かる。確かに人によって「これぞ木」という一本の木は違う。夜桜の美しい木を思い浮かべる人もいるかもしれないし、日立製作所CMの「この木なんの木♪」を思い浮かべる人もいるかもしれない。しかし、そういう個々の独立したイメージを超越した「木」という総合的なイメージとして、日本人の基本的な概念のもちようは一致している、と言えるだろう。なぜ木を「き」と言うのか、と訊かれても、日本人は「なぜか知らないが、そう呼ぶことになっている」としか答えられない。

現在、言語学を学ぼうとすると、ソシュールの言語観は生産的ではない。つまりそれを出発点として何か新しい知見が導けるわけではない。哲学的な問答としては面白いかもしれないが、現在の言語学研究では、言語学史としての役割以外、特に重要視されているわけではない。論理学と科学研究の成果が合致した理論言語学が確立する前段階の、露払い的な扱いをされている。

後にフレーゲによってソシュールの概念の曖昧さが指摘され、徹底的に組み替えられた。ソシュールの弱点は、「言語によって指示されるもの」の定義を曖昧にしたまま議論を進めたことにある。一本の木は独立してこの世に存在する実体だが、「木」という一般概念は具体的に触れる存在物ではない。つまりソシュールの言う「シニフィエ」は、厳密にいは言語が意味する概念とはすこし異なる。フレーゲは「言語によって指示されるもの」をレフェラン(referent、指示対象)と呼び、現在の意味論研究でもこの用語は援用されている。

のちにフレーゲの概念を受け継ぎ、モンタギューが構造と意味が一体化した厳密な意味論を構築した。モンタギューは「言語が指示するもの」を、実体(entity)と真理条件(truth value)の組み合わせだけで分類した。こうして分類された意味カテゴリ?を、「タイプ」という。タイプ同士の組み合わせによって、統語論で必要とされる文法範疇(動詞、名詞、形容詞など)とは別の語彙カテゴリーが分類できる。モンタギューはその豪腕をもって、お互いに範疇の種類の違う統語論と意味論を表裏一体として扱い、お互いがお互いを相互参照し合いながら文全体の意味をはじき出すアルゴリズムを考案した。


ソシュールはシニファンとシニフィエの間の関係を「ふしぎだね」と言うだけだったが、後の言語学はその関係の恣意性には目もくれず、両者をつなぐシステムの精緻化に黙々と取り組んだ。ソシュールの研究を掘り起こしてみても現在ではあまり新しい研究に結びつかないのは、そのためだ。研究の出発点として興味の対象にずれがある。

ソシュールの研究は長く誤解されていた点があり、現在でもその研究内容が詳細に明らかになっているかどうか分かっていない。理由はソシュールが生前、一冊の本も出版していなかったことにある。現在流布している「ソシュール著」とされている『一般言語学講義』は、その名の通り、ソシュールが行った一連の講義を学生が出版した講義ノートだ。しかも出版に携わったバイイとセシュエは、実際にはソシュールの講義を受けてはいない。そりゃ混乱もするだろう。


えー、つまり
「シニファン」と「シニフィエ」の間の恣意性と、特有の言語体系の間での必然化を提唱したソシュールに鑑みますと
パン屋さんの「シニファン・シニフィエ」というお店の意味は


うちのパンはそれぞれ勝手な名前がついていまして、お客さんにとってはその名前はパンそのものと何の関係がなく見えるかもしれませんけど、私どもにとってはすべて辻褄が合う必然的な名前なんですよフフン♪」


ってところなんでしょうか。



結構いろんな所に出店している有名なお店らしいですね